水葬
織田
第1話
これは、遺書である。皇桜痴という人間が、息をしていた証である。
いつも、死んだように息をしていました。晩年を生きているように、一寸先が死であると、錯覚して呼吸をしていました。私は、いつもぼんやりと、認識することのできない不安に絶望していたのです。
物心ついた頃から、人の悪意を過敏に感じ、同時に感受性に欠けた子供だったと思います。私たちの笑顔の裏には憤怒があり、
いえ、私には心眼などありません、見えぬものは視えません。それでも、矢張り悪意には敏感だったのです。父母との会話で、違和感を五感で感じ取り、推理し、感情との
然し、幼い私はこの恐怖を、どうにか解消出来るものだと信じていたのです。快不快も、素直に伝えれば通じ合えるものだと、信じていたのです。
それは、最早懇願でした。そうでなければ、私は生涯をかけても、人の定めた、倫理やら、道理に、理解を示すことができません。私にとって、感情は脳の、一種の故障です。先に述べた倫理やらは、先人の感情的な嫌悪と、政を円滑に進めるための合理性を加味した上で出来た概念的な理想なのだ。欠陥品である私が、心から共感して、手を叩き、感嘆することなど、出来る筈がなかったのです。
初めて他者との差異に気が付いたのは、五つになったばかりの頃でした。
父も母も忙しい人でした。朝早く、既に自宅を出ている父親が夕刻帰って来ると、入れ違いに働きに出る母親。私を育て上げた人間は、家を出入りしていた一人の使用人でした。(使用人とは言っても仰々しいものでもなく、縁遠い親戚を安く雇い、両親の手の回らない部分を任せていただけのものでした)父母と会話をする機会も多くなかったものですから、幼少期の私の殆どを過ごしたのは、使用人の女性でした。彼女は私に友好的でした。私に読書を教えたのは彼女で、勉学の楽しさを教えたのも、また彼女でした。
私の家族は、どうやら身内であっても、それが他人であっても、ひとに無関心なようでした。両親ですら、必要最低限の会話以外は、彼らの興が乗った時に行われる特別な出来事だったのです。私の家は、いつも静かでした。私の元々の基質はとても静かなものですが、物音ひとつ立てただけで、蛇のような鋭い眼で見詰められる生活には、息が詰まりました。
然し、ふたりの無関心に目を瞑れば、私は大変恵まれた環境下に生まれたと自負しています。
というのも、父も母も勤勉な方々でしたので、彼らの好きなように飾った家は、知識の宝庫でした。読書の好きな母の趣味が詰まった、天井にすら届く程背の高い本棚には、読み切れない程の文庫本が置いてあり、自由に読み漁ることが許可されていました。
使用人の彼女は、私にその本棚から適当なものを取り出して、私に読ませました。一日に数冊読ませ、その感想を言い合って一日を費やす日もあれば、彼女が持ってきた幼児向けの参考書を使って勉強に興じることもありました。先に明かした通り、彼女がいなければ家はいつも静かでしたから、多くの時間を共にした彼女に、私が入れあげるのは自明の理でした。彼女はするりと、蛇のように私の心のうちに入り込んできたのです。真綿の糸で、恐怖で縮こまった私を包み込みました。のぼせ上った私には、彼女を疑うことなど、頭にありませんでした。幼かった私は、彼女に自分自身の胸の内に掛かった暗雲を包み隠さずに明かしました。心を許した相手ならば、相手も自分にそう接してくれるだろうと過信していたのです。
初夏でした。今思えば、青森の夏は湿度も低く、気温に見合わない過ごしやすさでしたが、県外に出たことのなかった当時の私にとっては茹るような暑さでした。額に滲む汗が鬱陶しくて、何度も浴衣の袖でぬぐっていました。そんな私を見て、暑いですね、と微笑み、団扇を仰ぐ彼女の顔を見ることができませんでした。私はその日、両親の居なくなったことを確認してから、内緒の話があると彼女を客間に連れて来たのです。彼女を信頼しきっていた私ですが、隠し続けていた本心を吐露するには、私は幼すぎました。たっぷり、数十分。彼女を座敷に座らせてから、ようやっと口を開きました。まるで蚊の鳴くような声で、彼女を恐怖のはけ口にした私に、彼女は緩慢な仕草で笑みを浮かべ抱き寄せました。私は戦慄したのです。彼女の笑顔は、私が今まで恐れていた、巨像、虚言、欺瞞。それらすべてが含まれていたのです。私を見る目は、明らかに敵意が滲んでいました。理解出来ぬものを見る目でした。窓の桟を這いずる羽虫を見詰めるような、汚らわしいものを見るような、いまにも細腕で私を突き飛ばし、逃げてしまいそうな。その視線を、私は彼女の胸に顔を埋めるその一瞬で感知したのです。彼女に触れる体が、汚らわしくて堪りませんでした。欺かれていたのだと悟るや否や、私はこの世界には、ほんとうのさいわいなどありはしないのだと理解しました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます