第2話:交差点の真実

### 第一幕:ゆるふわな日常


「あっ! そうなっちゃうの!?」


 佐々木優香は、事務所の応接ソファに座りながら、大きな声を上げた。テレビから流れてくる韓国ドラマのワンシーンに、彼女は目を輝かせていた。画面では白衣を着た男性が熱のこもった台詞を叫んでいる。


「先生、就業時間中ですよ」


 秘書の田中は呆れた様子で言った。彼女の手には書類の束が抱えられている。


「でも、このドラマのイケメン検事さん、すごくカッコいいんだもん」


 優香は画面に見入ったまま答えた。薄いピンク色のブラウスに白いスカートという春らしい装いで、ソファにくつろぐ様子は一流弁護士というよりは、のんびりした大学生のようだ。


「しかも法廷シーンが多くて勉強になるの」


 田中はため息をついた。


「勉強……ですか?」


 前回のメディファーマ社との裁判で見せた鋭さから一転、今日の優香は完全にゆるふわモードだった。韓国ドラマを見ながらポップコーンを食べ、時々「キャー!」と声を上げる。それが東京でも指折りの敏腕弁護士の姿とは、誰も想像できないだろう。


「そういえば、2時からの新規相談はどんな方ですか?」


 優香は突然真面目な顔になって尋ねた。その切り替えの速さに、田中はいつも驚かされる。


「交通事故の被害者家族です。加害者は大手企業の専務で、示談金の話し合いが難航しているとか」


「そうなんですね……」


 優香はポップコーンを口に入れながら頷いた。窓から入る5月の陽光が彼女の黒髪を優しく照らしている。


「あ、でも韓国ドラマもあと10分で終わるから、それまで待っててもらえる?」


 田中は「はい、はい」と言いながら、受付に戻って行った。ドラマの最終回が気になっているのか、優香は食い入るように画面を見つめている。


 10分後、優香は応接室へ向かった。そこには、疲れた表情の中年女性が座っていた。紺色のスーツは質素だが丁寧に手入れされている。


「お待たせしました。佐々木優香です」


 優香はふわりとした笑顔で挨拶した。


「高橋理恵と申します。今日はよろしくお願いします」


 女性はぎこちなく頭を下げた。疲労と不安が彼女の表情に刻まれている。


 高橋理恵の話は、典型的な交通事故の示談交渉の行き詰まりだった。夫の高橋誠は8ヶ月前、横断歩道を渡っていた際に、大手IT企業「フューチャーテック」の松田専務の運転する高級車にはねられた。一命は取り留めたものの、脊髄を損傷し、下半身不随の重傷を負った。


 加害者側からは示談金として3000万円が提示されたが、夫の収入や今後の介護費用を考えると、到底足りる金額ではなかった。しかし、松田専務側は「すでに十分な金額を提示している」と主張し、それ以上の交渉に応じようとしない。


「松田専務は、事故直後に『赤信号だったのに急に飛び出してきた』と主張しているそうですね」


 優香は資料に目を通しながら言った。彼女の声は柔らかいが、眼差しは真剣だ。


「はい。でも夫は絶対に青信号だったと言っています。意識がはっきりしていましたから」


 理恵は力を込めて言った。その声には夫を守りたいという強い意志が感じられる。


「ただ、目撃者がいないんです。たまたま人通りが少ない時間帯で……」


「なるほど……」


 優香はしばらく考え込んだあと、突然明るい声で言った。


「あの交差点、私よく通るんですよ。新しくできたスイーツ店があって。先日買ったプリンがすごく美味しくて」


 理恵は少し戸惑ったように優香を見た。彼女の目に疑問の色が浮かぶ。


「あの……弁護士さん?」


「あ、ごめんなさい。ちょっと話がそれちゃいました」


 優香は恥ずかしそうに笑った。両手を軽く打ち合わせるその仕草は、少女のようだ。


「それで、松田専務はどんな方なんですか?」


「IT業界では有名な方だそうです。フューチャーテックの創業者の息子で……」


 理恵は言いにくそうに続けた。


「噂では、かなり傲慢な人物だとか。事故の後も一度も謝罪に来ていません」


 優香は再び資料に目を落とした。


「事故現場の写真はありますか?」


 理恵は鞄から封筒を取り出し、何枚かの写真を優香に手渡した。


「警察が撮ったものです」


 優香はそれらをじっくりと見た。事故現場の交差点、路面に残されたブレーキ痕、衝突の衝撃で曲がった横断歩道の標識などが写っていた。彼女は写真を一枚ずつ丁寧に見ていく。


「あら、この写真いいですね。空が綺麗」


 優香は一枚の写真を指さした。それは事故現場を別の角度から撮ったもので、交差点全体と周辺の建物が映っていた。夕暮れ時の写真で、空がオレンジ色に染まっている。


 理恵は優香の反応に戸惑いを隠せなかった。彼女の表情には「この弁護士は本当に大丈夫なのか」という疑問が浮かんでいる。


「佐々木先生……この件、お引き受けいただけますか?」


 優香は写真から目を離し、理恵をまっすぐ見つめた。そのまなざしは、先ほどまでの柔らかさが消え、鋭く澄んでいた。


「お引き受けします」


 彼女はきっぱりと言った。その声には迷いがない。


「高橋さん、正義は必ず勝ちます」


 その表情を見て、理恵は少し安心したように見えた。しかし次の瞬間、優香は再びあのぼんやりとした表情に戻り、「あ、そうだ! このプリン屋さんのパンフレット、差し上げますね」と言って、引き出しからカラフルなチラシを取り出した。


 理恵は複雑な表情で、チラシを受け取った。


### 第二幕:法廷バトル


 東京地方裁判所の調停室。静かながらも緊張感に満ちた空間だ。


 テーブルを挟んで、原告側と被告側が向かい合っていた。原告側には高橋理恵と優香、被告側には松田専務とフューチャーテック社の顧問弁護士・白石が座っていた。


 松田専務は40代後半の精悍な男性で、高価なスーツを身にまとい、傲慢な雰囲気を漂わせている。白石弁護士は50代の落ち着いた雰囲気の男性だ。


 調停委員が開始の挨拶を終えると、まず白石弁護士が口を開いた。


「我々は誠意を持って対応しております。3000万円という金額は、同種の交通事故の賠償金としては十分な額です」


 白石は自信に満ちた態度で続けた。彼の声は穏やかだが、強い意志が感じられる。


「そもそも、この事故は被害者の過失が大きい。警察の実況見分調書にも、横断歩道の信号が赤だった可能性が指摘されています。それにもかかわらず、当方はこれだけの金額を提示しているのです」


 松田専務は腕を組んだまま、高圧的な表情で座っていた。成功した実業家特有の自信に満ちた態度だ。


「俺は緑の信号で進入した。急に飛び出してきた彼が悪い」


 優香は静かに聞いていたが、松田のその言葉に眉をひそめた。


「松田さん、今『緑の信号』とおっしゃいましたか?」


 松田は少し動揺したように見えた。彼の目に一瞬の混乱が浮かぶ。


「ああ、青信号だ。言い間違えた」


 優香は小さく頷き、「なるほど」と言った。その声は冷静で、日常の柔らかな口調は消えている。


 そして調停委員に向かって、「いくつか質問してもよろしいですか?」と尋ねた。


 許可を得ると、優香は白石弁護士に向き直った。彼女の姿勢は真っ直ぐで、目は鋭い。


「白石先生、『警察の実況見分調書に、横断歩道の信号が赤だった可能性が指摘されている』とおっしゃいましたが、具体的にどの部分でしょうか?」


 白石は少し考え込み、「信号サイクルの分析から、事故発生時刻には歩行者用信号が赤に変わる時間帯だったと記載されています」と答えた。


「ではお聞きします」


 優香は穏やかな声で言った。その口調は柔らかいが、目は冷静に相手を分析している。


「事故発生の正確な時刻は何時何分何秒だったのでしょうか?」


 白石は資料を確認した。


「午後7時42分頃です」


「『頃』ですか?」


 優香は静かに繰り返した。


「秒単位での特定はされていないのですね」


 白石は少し不満そうに「現場に時計があるわけではないので、当然概算です」と答えた。


 優香は頷き、今度は松田に向かって質問した。


「松田さん、事故当時、どちらの方向に向かって運転されていたのですか?」


 松田は「西から東へだ」と簡潔に答えた。彼の態度には早く終わらせたいという気持ちが表れている。


「そうすると、ちょうど日没後でしたね」


 優香は確認するように言った。彼女の頭の中で何かの計算が進んでいるようだ。


「そうだな」


 松田は退屈そうに答えた。


 優香は一枚の写真を取り出した。それは事故現場の交差点を西側から撮影したものだった。


「この写真をご覧ください。西から東に向かう車線から見ると、ちょうど交差点の向こう側に大きな電子広告板がありますね」


 全員がその写真を見た。確かに、交差点の東側には大きなLEDビジョンが設置されていた。夕暮れ時の光の中で、それは強く輝いている。


「松田さん、事故当時、この広告は何を映していましたか?」


 松田は眉をひそめた。彼の顔に苛立ちの色が浮かぶ。


「覚えていない。そんなものに注目していない」


 優香は静かに微笑んだ。その表情は穏やかだが、目は鋭い。


「実は、この広告板は夕方になると明るさが増します。そして、事故当日の午後7時30分から8時まで、特別なキャンペーン広告が流れていました」


 彼女は別の資料を示した。それは何かの契約書のコピーのようだ。


「これは広告会社から入手した放映スケジュールです。事故発生時刻には、フューチャーテック社の新製品発表会の広告が流れていました」


 松田の表情が硬くなった。彼の目に動揺の色が浮かぶ。


「私がこの交差点を訪れた際、日没後に西から東へ車で進入すると、この広告板がかなり眩しく感じられました。特に、背景が白っぽい広告の場合は」


 優香は冷静に説明した。彼女の声は教室で講義をする教授のように落ち着いている。


「それがどうした?」


 松田は苛立ちを隠せない様子で言った。彼の声が少し高くなる。


「つまり、松田さんの進行方向からは、眩しい広告のせいで信号の色が見えにくい状況だったのではないでしょうか」


 優香は静かに指摘した。


「そして、その広告に映っていたのは、あなたの会社の新製品だった」


 調停室に緊張が走った。白石弁護士は眉をひそめ、松田に視線を送った。


「それは推測に過ぎません」


 白石は声を張り上げた。彼の冷静さが少し崩れている。


「事実としては、高橋さんが赤信号で横断したという可能性が高いのです」


 優香は頭を軽く傾げた。彼女の表情に迷いはない。


「では、もう一つ質問します。松田さん、事故直後に『赤信号なのに飛び出してきた』とおっしゃいましたね」


「そうだ」


 松田はきっぱりと答えた。


「先ほどは『緑の信号で進入した』と言い間違えられましたが……」


 優香は静かに続けた。彼女の声は波一つない穏やかさだ。


「実は、日本の信号機を『緑』と表現するのは、主に自動車教習所の教官や運転に慣れていない初心者ドライバーです。一般的には『青信号』と言いますよね」


 松田の顔が微妙に強張った。彼の目に焦りの色が浮かぶ。


「さらに」


 優香は別の資料を取り出した。


「これは松田さんの通話記録です。事故発生時刻の前後10分間、あなたは電話で話していましたね」


「なんだと?」


 松田は声を荒げた。その顔に怒りと驚きが混ざる。


「どうやってそんな情報を……」


「適法な情報開示請求です」


 優香は冷静に答えた。彼女の態度は終始一貫して穏やかだ。


「そして、この通話記録によると、事故発生の約30秒前に、フューチャーテック社のマーケティング部長から電話がありました。おそらく、交差点の広告について確認の連絡だったのではないでしょうか」


 松田は言葉を失ったように見えた。彼の顔から血の気が引いている。


 優香は最後の切り札を出した。


「そして、決定的な証拠があります」


 彼女は一枚の写真を取り出した。それは高橋理恵が先日持ってきた写真の一つだったが、端の方に小さく写っているものに印がつけられていた。


「この交差点の角には、コンビニエンスストアがあります。そして、そのコンビニには防犯カメラが設置されています」


 白石弁護士が身を乗り出して写真を見た。確かに、交差点の角にはコンビニがあり、店の入り口上部に防犯カメラが写っていた。


「私はそのコンビニを訪れ、事故当時の防犯カメラ映像を確認しました。その映像には、高橋さんが青信号で横断歩道を渡り始める様子がはっきりと映っています」


 優香はその映像のスクリーンショットを示した。日付と時刻が記されており、確かに高橋誠が青信号で横断を始める瞬間が捉えられていた。横断歩道の信号は明るく光る青色だ。


「さらに、この映像には事故直前の松田さんの様子も映っています。スマートフォンを耳に当てながら運転し、前方ではなく右手上方――つまり、広告板の方向――を見ていたことがわかります」


 調停室は完全に静まり返った。


 松田専務は顔を青ざめさせ、白石弁護士も言葉を失っていた。高橋理恵の目に、希望の光が戻ってきている。


 調停委員が咳払いをして場の緊張を和らげようとした後、「被告側、何かご意見はありますか?」と尋ねた。


 白石は松田と小声で相談した後、重々しい様子で言った。


「新たな証拠を踏まえ、当方の提案を見直したいと思います。次回調停までに、適切な賠償額を再検討します」


 調停はそこで一旦中断された。


 廊下に出ると、松田専務が優香に詰め寄った。彼の顔は怒りで歪んでいる。


「どうやってあの映像を手に入れた? コンビニはもう営業していないはずだ」


 優香は静かに微笑んだ。その表情はすでに事務所で見せるあの穏やかさに戻りつつある。


「あら、そうなんですか? 私が訪れた時は、まだプリン屋さんになる前でした。改装工事中だったけれど、元店長さんが立ち会っていて」


 松田の顔が驚きで固まった。ようやく全てが繋がったようだ。


「まさか……あのチラシは……」


「はい、高橋さんにお渡ししたプリン屋さんのチラシです」


 優香はにっこりと笑った。その笑顔は純粋で、先ほどまでの鋭さはどこにも見えない。


「あそこは以前、コンビニだったんですよ。そして、防犯カメラのデータは保管義務期間が過ぎていなかったんです」


 松田は何も言えず、白石弁護士に促されるように立ち去った。その背中には敗北の色が濃く影を落としている。


 高橋理恵は、涙ぐみながら優香の手を握った。


「ありがとうございます……本当に……」


 優香は柔らかく微笑み、理恵の手を優しく握り返した。


### 第三幕:ゆるふわな日常への回帰


「先生、またやりましたね!」


 田中は興奮した様子で言った。彼女の目は喜びで輝いている。


「今日の調停の結果、一億円の和解金で合意したそうじゃないですか!」


 優香は事務所のソファでくつろぎながら、再び韓国ドラマを見ていた。柔らかなピンク色のブラウスは朝と同じだが、彼女の表情は完全にリラックスしている。


「あら、そうなの? 良かったわね」


「『そうなの?』って……先生が勝ち取ったんですよ!」


 田中は呆れたように言った。彼女の表情には半ば諦めたような、半ば感心したような複雑な感情が混ざっている。


 優香はドラマの画面から目を離さずに言った。


「でも、あのプリン、本当に美味しかったわよね。高橋さんも喜んでたし」


 田中はため息をついた。


「先生……どうして法廷の外ではそんなに……」


「あ! このシーンよ!」


 優香は突然声を上げた。彼女の目は輝きを増す。


「検事さんが証拠を出すところ! カッコいい~!」


 田中は諦めたように笑った。田中の目には、尊敬と呆れが入り混じった複雑な感情が浮かんでいる。


 窓の外では、夕暮れの空が美しいオレンジ色に染まっていた。それはちょうど、交通事故があった時間帯の空の色と同じだった。


 事務所の壁には、新しく飾られた額縁があった。その中には、あるプリン屋のチラシが入れられていた。小さな証拠が、大きな正義をもたらした記念として。


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