【ゆるふわ法廷バトル小説】天然系女性弁護士の逆転劇~ふわふわ日常と鋭利な法廷~

藍埜佑(あいのたすく)

第1話:証拠の裏側

### 第一幕:ゆるふわな日常


「まぁ、今日もいい天気ですねぇ」


 佐々木優香は、事務所の窓から外を眺めながらぼんやりとつぶやいた。東京の街並みの上に広がる青空に浮かぶ綿菓子のような雲を見つめる瞳は、どこか遠くを見ているようだった。長い黒髪が春の柔らかな日差しに照らされて艶めいている。


「優香先生、10時からの依頼者が到着していますよ」


 秘書の田中美里が書類を手に声をかけると、優香はゆっくりと振り返り、緩やかな笑顔を浮かべた。


「あら、もうそんな時間? ごめんなさいねぇ、ちょっと空を見ていたら時間を忘れちゃって」


 綿の入ったようなふわりとした声で答える優香に、田中は慣れた様子で小さくため息をついた。東京大学法学部を首席で卒業し、司法試験も一発で合格した秀才だったにもかかわらず、日常では抜けた一面を見せることが多い優香。「頭脳明晰なのに天然」という評判は、この「佐々木法律事務所」でも広く知られていた。


「あのね、先生」と田中は少し困ったように言った。「今日の依頼者、かなり難しいケースみたいですよ。大手製薬会社との訴訟で、すでに三人の弁護士が断ったとか……」


「そうなの?」優香は首を傾げた。桜色のスーツから覗く白いブラウスの襟元を無意識に整えながら。「でも困っている人がいるなら、お話だけでも聞いてみましょう」


 応接室に入ると、緊張した面持ちの中年男性が座っていた。灰色のスーツに身を包んだ彼は、優香が入ってくると慌てて立ち上がった。


「はじめまして、佐々木優香です。どうぞお気軽にお話しください」


 優香の柔らかな声色に、男性の表情が少し和らいだ。


「私は森本和彦と申します。小さな薬局を経営しているのですが……」


 彼の話によると、大手製薬会社の「メディファーマ社」が発売した糖尿病治療薬「グリコニン」の副作用で、多くの患者が健康被害を受けているという。森本の薬局でもその薬を販売していたため、薬剤師として責任を感じていた。しかし、メディファーマ社は「臨床試験では問題なかった」と主張し、一切の責任を認めようとしない。すでに集団訴訟の動きもあるが、強大な法務部を持つメディファーマ社に勝てる見込みは薄いというのが、法曹界の一般的な見方だった。


「なるほど……」


 優香はぼんやりとした表情で、テーブルに置かれた森本の持参したグリコニンのパンフレットをめくっていた。光沢のある紙に印刷された写真や図表を眺めながら、時折「へぇ」と小さな声を漏らす。


「この薬、パッケージが可愛いですねぇ。ピンク色が素敵」


 森本は一瞬言葉に詰まった。彼の目に浮かんだのは明らかな困惑だった。


「あの、佐々木先生……これは深刻な問題なんです」


「ええ、もちろんです」


 優香は微笑みながら頷いた。窓から差し込む光が彼女のふんわりとした表情を柔らかく照らしている。


「あ、紅茶を淹れましょうか? 私、最近イギリスから取り寄せた素敵なアールグレイがあるんです」


 森本の困惑した表情をよそに、優香は立ち上がってキッチンへ向かった。戻ってきた彼女の手には、可愛らしい花柄のカップに入った紅茶があった。茶葉の芳しい香りが部屋に広がる。


「どうぞ。ミルクを入れると、もっと美味しいですよ」


 森本は半ば諦めたように紅茶を一口飲んだ。上質な茶葉の香りが鼻に抜ける。


「佐々木先生、正直に言って……私のケースを引き受けていただけますか?」


 優香はカップを手にしたまま、空を見上げるようにして言った。


「製薬会社の臨床試験データと実際の患者の症例報告、それから薬事法の規制状況……調べることは多そうですねぇ」


 そして突然、はっとしたように森本を見た。その瞳は一瞬だけ鋭く光った。


「あ、そうだ! 森本さん、この薬のパンフレット、持って帰ってもいいですか? なんだか、デザインが可愛くて」


 森本は困惑しながらも頷いた。この弁護士は本当に大丈夫なのだろうかという疑問が彼の表情に浮かんでいた。


「では、お引き受けします」


 優香は唐突に言った。彼女の声はこれまでと変わらず柔らかいが、その目には確かな決意が見えた。


「来週の月曜日に、もう一度詳しいお話を聞かせてください。あと、可能であれば患者さんの症例データもお持ちいただけると助かります」


 森本が帰った後、田中が心配そうに尋ねた。


「先生、大丈夫ですか? メディファーマ社は日本最大の製薬会社ですよ。相手の法務部には50人以上の弁護士がいるって聞きます」


「そうなんですか?」


 優香は再び窓の外を眺めながら言った。夕暮れが近づき、空の色が少しずつ変わり始めていた。


「でも、あのパンフレット、何か引っかかるものがあったんですよねぇ……」


 そして、ふわりと微笑んだ。その笑顔の奥に、鋭い知性が隠されているようには、田中にはとても思えなかった。


### 第二幕:法廷バトル


 東京地方裁判所第三法廷。厳かな空気が支配する法廷内に、傍聴席は満員だった。


「メディファーマ製薬株式会社による糖尿病治療薬『グリコニン』の副作用被害に関する集団訴訟、これより開廷します」


 裁判長の宣言に、法廷内がさらに緊張感に包まれる。医療業界関係者、報道陣、そして被害者とその家族たち。第一回口頭弁論ということもあり、注目度は高かった。


 原告側の席には、森本を含む10名の原告と、その代理人である佐々木優香の姿があった。優香は普段のふわふわした雰囲気はどこへやら、厳格なグレーのスーツに身を包み、真剣な表情で座っていた。一方、被告側には、メディファーマ社の重役と、精鋭の弁護団が並んでいた。筆頭は業界でも知られた敏腕弁護士、鶴見剛である。


「被告側、主張をどうぞ」


 裁判長が促すと、鶴見が立ち上がった。背の高い彼は、その存在感だけで法廷を支配するような雰囲気を醸し出していた。


「メディファーマ社の『グリコニン』は、厳格な臨床試験を経て厚生労働省の承認を得た安全な医薬品です。原告側が主張する副作用と本剤の因果関係は科学的に証明されていません。むしろ、原告らの症状は、糖尿病の進行によるものと考えるのが妥当です」


 鶴見は自信に満ちた表情で続けた。彼の声は法廷全体に響き渡る。


「当社は、臨床試験の全データを厚生労働省に提出済みであり、そのデータからは本剤と重篤な副作用の関連性は認められません。原告側の請求は、科学的根拠を欠いた憶測に基づくものであり、棄却されるべきです」


 法廷内には納得の空気が流れた。医薬品訴訟で、製薬会社側が勝利するケースは少なくない。特に、公的機関の承認を得ている薬剤については、原告側の立証責任は重い。森本は不安そうに優香を見たが、彼女は穏やかな表情を崩さなかった。


 裁判長が次に優香を指名した。


「原告側、どうぞ」


「はい」


 優香はゆっくりと立ち上がった。その表情は、事務所で見せる穏やかな笑顔とは明らかに違っていた。鋭く冷静な目で法廷を見渡すと、優香は静かに話し始めた。


「まず、被告側の主張に対して一点確認させていただきます」


 その声は、先ほどまでの柔らかな口調とは打って変わって、冷静で論理的だった。傍聴席からは小さなざわめきが聞こえる。


「被告は『厳格な臨床試験』を経て承認を得たと主張されましたが、その『厳格』の定義について、具体的にご説明いただけますか?」


 鶴見は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに落ち着いた様子で答えた。


「当然ながら、厚生労働省の定める医薬品製造承認申請に必要な第I相から第III相までの臨床試験を、GCP(医薬品の臨床試験の実施の基準)に則って実施したという意味です」


 優香は小さく頷いた。彼女の動きは経済的で無駄がない。


「ありがとうございます。では、被告側が提出された臨床試験データについて、いくつか質問させてください」


 優香は手元の資料を取り出した。その指先は少しも震えていない。


「メディファーマ社が厚生労働省に提出した臨床試験の最終報告書には、重篤な副作用の発生率は0.5%未満とされています。この数字は正確でしょうか?」


「その通りです」鶴見は自信を持って答えた。


 優香は再び頷き、次の質問に移った。


「では、その臨床試験において、被験者の選定基準について教えていただけますか?」


 鶴見は少し眉をひそめた。質問の意図が読めないようだった。


「標準的な基準に従い、18歳から65歳までの2型糖尿病患者で、重篤な合併症がない方々を対象としています」


「なるほど」優香は静かに言った。「そして、この『グリコニン』の主な処方対象となる患者層は?」


「2型糖尿病患者です」


「年齢層は?」


 鶴見は少し間を置いてから答えた。彼はすでに優香の狙いに気づき始めたようだった。


「特に制限はありませんが、2型糖尿病の特性上、中高年の患者が多いでしょう」


 優香は突然、法廷に向かって一枚の紙を掲げた。それはグリコニンのパンフレットだった。事務所で彼女が「可愛い」と評したあのピンク色のパンフレット。


「裁判長、証拠として提出したいものがあります。これは被告会社が作成したグリコニンの医療機関向けパンフレットです」


 裁判長の許可を得て、優香はパンフレットの該当ページを指し示した。


「このパンフレットの5ページ目、『処方ガイドライン』の項目をご覧ください。ここには『65歳以上の高齢者にも安全に処方可能』と明記されています」


 優香は鶴見に向き直った。彼女の瞳は氷のように冷たく澄んでいた。


「被告側の臨床試験では65歳以上の被験者は含まれていないにもかかわらず、なぜパンフレットではこのような記載ができるのでしょうか?」


 法廷内が静まり返った。


 鶴見は落ち着きを取り戻そうとして言った。


「それは、他の同系統の薬剤のデータから推測される安全性に基づくものです。直接的なデータがなくても、薬理学的に同様の作用機序を持つ薬剤の知見から、安全性を推定することは医学的に妥当です」


 優香は微笑んだ。しかし、その笑顔には鋭さがあった。事務所でのふわふわした優香とは全く別人のようだ。


「では、次の質問です。被告側が厚生労働省に提出した副作用報告の中で、65歳以上の患者における副作用発生率は何パーセントでしょうか?」


 鶴見は一瞬言葉に詰まった。彼の自信が揺らぎ始めている。


「そのデータは……手元にありません」


「私が調べましたので、お答えしましょう」


 優香は新たな資料を取り出した。その動きは流れるように滑らかだ。


「厚生労働省の医薬品副作用データベースによると、グリコニン発売後6ヶ月間で報告された副作用症例の76%が65歳以上の患者からのものでした。そして、その副作用発生率は約4.2%――臨床試験で報告された0.5%の8倍以上です」


 法廷内にどよめきが起こった。


 優香は続けた。彼女の声はさらに力強くなる。


「さらに、被告側の内部資料――これは情報開示請求によって入手しました――によれば、グリコニンの市場戦略会議において『高齢者市場の開拓』が重要課題として挙げられています。つまり、被告は臨床試験で安全性を確認していない高齢者層をターゲットとして意図的に市場展開していたことになります」


 鶴見の顔が硬直した。メディファーマ社の重役たちも不安そうに顔を見合わせている。


「異議あり!」彼は声を上げた。「その内部資料なるものは、本訴訟とは無関係です」


 裁判長は優香を見た。


「弁護人、内部資料と本件の関連性を説明してください」


 優香は冷静に答えた。


「はい。この内部資料は、被告が臨床試験データの限界を認識しながらも、意図的に高齢者への処方を推進していたことを示すものです。これは、薬事法第66条の虚偽・誇大広告の禁止規定に違反する可能性があります。また、製薬会社としての安全配慮義務違反にも該当します」


 裁判長は考えた後、「異議を却下します。資料の採用を認めます」と言った。


 優香は最後に、決定的な一撃を放った。


「さらに、被告側が厚生労働省に提出した臨床試験データには、もう一つ重大な問題があります」


 優香は別の資料を示した。分子構造の図と複雑なグラフが並ぶページだ。


「これは、グリコニンの有効成分であるグリコシアニンの分子構造と、その代謝経路を示したものです。医学的見地から見ると、この成分は腎臓で代謝されますが、高齢者は腎機能が低下していることが多く、その場合、代謝産物が体内に蓄積し、今回原告らが訴えている神経症状を引き起こす可能性が高いのです」


 優香は法廷を見渡した。彼女の姿勢は真っ直ぐで、声は揺るぎない。


「つまり、被告メディファーマ社は、臨床試験の段階で高齢者における安全性を十分に検証せず、むしろそのデータの欠如を意図的に隠蔽しながら、高齢者市場を開拓するためにグリコニンを販売していたと言わざるを得ません。これは明らかな注意義務違反であり、製造物責任法上の欠陥にあたります」


 法廷内は完全に静まり返った。鶴見弁護士は言葉を失ったように見えた。メディファーマ社の重役たちの表情は青ざめている。


 裁判長は厳しい表情で被告側を見つめ、「被告側、反論はありますか?」と尋ねた。


 鶴見は立ち上がったが、その声には先ほどの自信は感じられなかった。


「次回期日までに、ただいまの主張に対する反論を準備いたします」


 裁判長は深く頷き、「次回期日は3週間後とします。被告側は、高齢者における臨床データの取り扱いについて、詳細な説明を準備してください」と告げた。


 第一回口頭弁論は、原告側の圧倒的優位で終了した。


 優香が席に着くと、森本は感謝の眼差しで彼女を見つめた。彼の目には涙が光っていた。


### 第三幕:ゆるふわな日常への回帰


「優香先生! 素晴らしかったです!」


 事務所に戻ると、田中が興奮した様子で迎えた。すでに速報は法律関係者の間で広まっていたようだ。


「あら、そうかしら?」


 優香は再び、あのぼんやりとした表情に戻っていた。ピンクのカーディガンを肩にかけ、コーヒーを淹れながら穏やかに微笑む。


「私、あの鶴見先生とお話できて嬉しかったわ。テレビでよく見る方だもの」


 田中は呆れたように言った。


「先生、今日の法廷での鋭さといったら……別人のようでしたよ」


「そうだ、今日はイギリスから取り寄せたスコーンが届く日だったわ」


 優香は突然話題を変えた。窓の外の景色を見つめる瞳は穏やかで、法廷での鋭い輝きはどこにも見えない。


「クロテッドクリームと一緒に食べましょう」


 そして彼女は、まるで法廷での出来事など遠い記憶であるかのように、のんびりとキッチンへ向かって行った。


 その背中を見ながら、田中は思った。

「なんて不思議な人なんだろう……でも、この人が私たちの事務所のエースなんだ」


 キッチンから、優香の軽やかな鼻歌が聞こえてきた。窓の外では、午後の穏やかな日差しが事務所を優しく包んでいた。

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