第2話 衝撃の朝
鈴木美咲のカミングアウトから一夜明けた朝、河野はいつもより早く目覚めた。昨夜はなかなか寝付けず、浅い眠りを繰り返していた。目覚ましのアラームが鳴る前に、彼はすでにシャワーを浴び、朝食を済ませていた。
窓の外を見ると、東京の街はまだ朝もやに包まれている。河野は時計を見た。いつもより30分も早い。彼は深呼吸をして、昨日のことを思い返した。
鈴木のカミングアウトは確かに衝撃的だった。しかし、それ以上に彼を悩ませたのは、自分の反応だった。なぜあの場で何も言えなかったのか。他の同僚たちのように、すぐに支持を表明できなかったのか。
河野は頭を振って、考えを払いのけようとした。今日は通常通り、仕事に集中しよう。鈴木の個人的な告白が、職場の関係性を変えるわけではない。少なくとも、そうあるべきだ。
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「おはよう、河野くん」
出社すると、すぐに鈴木と鉢合わせた。彼女はいつもの落ち着いた様子だったが、昨日とは何か違う雰囲気を纏っていた。より開放的で、生き生きとしているように見えた。
「おはようございます、鈴木さん」
河野は平静を装って挨拶した。鈴木と目を合わせると、昨日のミーティングの光景がフラッシュバックした。あの静寂、そして次々と支持を表明する同僚たち。
「昨日はちょっと突然のことで驚かせてしまったわね」鈴木は小さく微笑んだ。「でも、皆の反応は本当に温かくて、勇気を出して良かったと思ってるわ」
「そうですね」河野は曖昧に頷いた。「鈴木さん、よろしければ今日の10時から、クライアントの修正案について話し合いたいのですが」
「ええ、もちろん」鈴木は笑顔で答えた。「いつも通り会議室Cでいいわね」
「はい、ありがとうございます」
河野は礼を言い、自分のデスクに向かった。彼は意識的に昨日の話題を避け、通常業務に戻ろうとしていた。しかし、オフィスに一歩足を踏み入れた瞬間から、普段とは違う空気を感じていた。
デザインチームのエリアに到着すると、すでに数人の同僚が集まって小声で会話していた。河野が近づくと、話題は明らかに鈴木のことだった。
「すごい勇気だよね」若手デザイナーの木村が言っていた。「私、感動しちゃった」
「うん、あんな堂々と言えるなんて」別の同僚が同意した。「鈴木さんらしいよね。いつも正直で前向きで」
河野は黙って自分のデスクに座った。周囲の会話を聞きながら、パソコンの電源を入れる。皆、鈴木の告白を称賛している。それは悪いことではない。むしろ、社会が進歩している証拠かもしれない。
「おっす、河野!」
元気な声とともに、田中が現れた。
「おはよう」河野は答えた。
「昨日はごめんな、早く帰っちゃって」田中は椅子を引き寄せて座った。「今朝、会社のSNSグループ見た?鈴木さんのこと、かなり話題になってるぞ」
「まだ見てない」
「結構すごいことになってるんだ。経営陣からも称賛のメッセージが来てるし、他部署からも反響があるらしい」
河野は眉をひそめた。「鈴木さん自身が投稿したの?」
「いや、誰かが昨日のミーティングのことをシェアして、そこから広がったみたいだ」田中は肩をすくめた。「デジタル時代だからな、情報の伝わり方は速い」
河野はパソコンを開き、社内SNSをチェックした。確かに、鈴木についての投稿が多数あった。ほとんどが称賛と支持のメッセージだ。中には「会社としてもっとLGBTQ+を支援すべき」といった意見も見られた。
そして、経営企画部長からの公式メッセージもあった。
「鈴木さんの勇気ある行動を称賛します。当社はダイバーシティとインクルージョンを重視し、全ての社員が自分らしく働ける環境づくりを推進していきます」
河野はメッセージを読み終え、画面から目を離した。なぜこれほど大きな反応になっているのか。鈴木のカミングアウトは、あくまで個人的な告白のはずだった。それが突然、会社の方針や価値観を示す象徴的な出来事になっている。
「ねえ、河野」田中が小声で言った。「正直、どう思う?この騒ぎ」
河野は周囲を見回してから、同じく小声で答えた。「少し大げさな気がする。鈴木さん自身は『特に大々的に公表するつもりはない』って言ってたはずだけど」
「そうだったな」田中は考え込むように頷いた。「でも、時代の流れってやつかもな。企業のダイバーシティへの取り組みが評価される時代だし」
「そうかもしれないね」
そのとき、オフィスの入り口に鈴木の姿が見えた。彼女の登場で、オフィス全体の視線が一斉に彼女に集まった。数人の同僚が立ち上がり、彼女に近づいていく。
河野は静かに見守った。鈴木は丁寧に対応し、笑顔で会話している。表面上は平静を保っているように見えるが、少し疲れた様子も見て取れた。これほどの注目を浴びることは、彼女自身も予想していなかったのかもしれない。
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10時になり、河野は会議室Cに向かった。クライアントの修正案について話し合うはずだったが、鈴木の姿はなかった。代わりに、デザイン部の中村先輩がいた。
「あれ、鈴木さんは?」
「ああ、河野くん」中村は申し訳なさそうに言った。「鈴木さん、急遽経営陣との打ち合わせに呼ばれたんだ。僕が代わりに対応するよ」
「そうなんですか」
「うん、何でも会社のダイバーシティ推進について話し合うらしい」中村は少し興奮した様子で続けた。「鈴木さんのカミングアウトがきっかけで、会社全体で何か新しい取り組みが始まるかもしれないって」
河野は黙って頷いた。ますます事態は予想と違う方向に進んでいるようだった。
修正案の打ち合わせは予定通り進められたが、河野の頭の中では別の考えが渦巻いていた。鈴木のカミングアウトがここまで大きな波紋を広げるとは。そして、それが会社の方針や取り組みに影響を与えるとは。
打ち合わせ後、河野はデスクに戻り、作業を再開しようとした。しかし、集中できない。彼は立ち上がり、コーヒーブレイクを取ることにした。
社内カフェに向かう途中、隣のチームのディレクター、佐藤真由子とエレベーターで一緒になった。
「河野さん、こんにちは」
「佐藤さん、こんにちは」
二人だけのエレベーター内で、佐藤は突然言った。「大変な朝ですね」
「え?」
「鈴木さんのカミングアウトで、会社中がざわついてるでしょう」佐藤は冷静に言った。「今、経営陣との会議に呼ばれてるって聞いたわ」
「はい、中村さんから聞きました」
佐藤はエレベーターの階数表示を見つめながら言った。「あなたはどう思ってるの?この状況」
河野は言葉を選びながら答えた。「少し…予想外ですね」
「予想外?」佐藤は河野を見た。「それとも計画通り?」
「どういう意味ですか?」
エレベーターがカフェのある階に到着し、ドアが開いた。佐藤は出ようとしながら言った。「ときどき物事は偶然のように見えて、実は計画されたものだったりするものよ」
河野は佐藤の謎めいた言葉に戸惑いながらも、彼女についてカフェに入った。二人はコーヒーを注文し、窓際の小さなテーブルに座った。
「何か言いたいことがあるんですか?」河野は率直に尋ねた。
佐藤は一口コーヒーを飲んでから答えた。「私は長年この業界にいるから、物事の裏側も見てきたの。特に大きな変化が起こるときには、表向きの理由と実際の理由が異なることも多いわ」
「鈴木さんのカミングアウトについて言ってるんですか?」
「ええ、その一部ね」佐藤は小さく頷いた。「昨日、鈴木さんが部内ミーティングでカミングアウトした直後、経営企画部の部長はすでに彼女を呼び出していたのよ。そして今朝、SNSでの反応、経営陣からのメッセージ、そして緊急ミーティング」
「それが何を意味するんですか?」
「意味するのは」佐藤は声を落とした。「これは単なる個人的な告白ではなく、会社の新しい方向性を示すための…言わば『象徴的な出来事』として利用されているかもしれないってこと」
河野は言葉を失った。佐藤の言うことが本当なら、鈴木のカミングアウトは純粋に個人的な選択ではなく、もっと大きな企業戦略の一部だったということになる。
「もちろん、これは私の推測よ」佐藤は付け加えた。「鈴木さん自身の気持ちは本物かもしれない。でも、タイミングが良すぎるのよ。業界全体がダイバーシティ推進にシフトしている今、当社も遅れをとりたくないという焦りがあるはず」
河野は考え込んだ。彼自身、昨日から感じていた違和感は、もしかするとこういうことだったのかもしれない。表面上の言葉と実際の意図の不一致。それが彼を居心地悪くさせていたのだろうか。
「なぜこれを私に話すんですか?」河野は尋ねた。
佐藤は少し微笑んだ。「あなたの目に、疑問が浮かんでいるのが見えたから。多くの人は表面的な物語にすぐに飛びつくけど、あなたはそうじゃないみたいね」
「でも、だからといって鈴木さんが不誠実だということにはならないですよね」河野は弁解するように言った。「彼女は本当に勇気を出して話したのかもしれない」
「もちろん」佐藤は頷いた。「私はただ、この状況には複数の側面があるかもしれないと言ってるだけよ。全てが純粋で単純というわけではないってこと」
二人の会話は、カフェに入ってきた別の同僚たちによって中断された。佐藤は立ち上がり、「また話しましょう」と小声で言って去っていった。
河野は一人残され、冷めかけたコーヒーを見つめた。佐藤の言葉は彼の頭の中で反響していた。これは単なる偶然なのか、それとも計画されたことなのか。そして、もし計画されたことだとしたら、それは悪いことなのだろうか。ダイバーシティ推進は良いことだ。だが、それが何か別の目的のための手段になっているとしたら…
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昼過ぎ、河野がデスクで作業をしていると、会社全体にメールが届いた。差出人は社長室となっていた。
「全社員の皆さまへ」
メールの内容は、会社としてのダイバーシティとインクルージョン推進に関する声明だった。そして、新たなプロジェクトチームの立ち上げが発表されていた。
「当社は多様な価値観と個性を尊重し、全ての社員が自分らしく働ける環境づくりを目指します。そのための第一歩として、『ダイバーシティ&インクルージョン推進プロジェクト』を発足します。リーダーにはデザイン部アートディレクターの鈴木美咲が就任します」
メールにはプロジェクトの概要と今後の予定も記載されていた。社内セミナー、ワークショップ、情報発信活動などが計画されているという。
「おい、見たか?」田中が河野のデスクに駆け寄ってきた。「鈴木さん、プロジェクトリーダーになったんだぞ!」
「ああ、今メール見てたところだ」
「これはチャンスかもな」田中は興奮した様子で言った。「もし俺たちもこのプロジェクトに関われたら、会社全体に名前が知られるぞ」
河野は黙って頷いた。彼の頭の中は佐藤の言葉でいっぱいだった。「物事は偶然のように見えて、実は計画されたものだったりする」
午後3時頃、鈴木から河野と田中宛てにメールが届いた。明日の午前中、二人と話したいことがあるという内容だった。場所は会議室D、時間は10時からと指定されていた。
「なんだと思う?」田中が小声で尋ねた。
「わからない」河野は首を振った。「でも、おそらくこの新しいプロジェクトに関することじゃないかな」
「マジで?俺たちが選ばれるとか?」田中の顔が輝いた。「それは最高じゃないか!」
河野はただ微笑むだけだった。彼の中には複雑な感情が渦巻いていた。新しいプロジェクトに参加することは、確かにキャリア的には良いことだろう。しかし、佐藤の言葉を聞いた今、彼はこのプロジェクトの背景に疑問を感じていた。
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その日の終業時間、河野はデスクでの作業を終え、鞄をまとめていた。オフィスはだいぶ静かになっていたが、まだ何人かの同僚が残っていた。
「お疲れ様、河野くん」
振り返ると、鈴木が彼のデスクに近づいてきていた。彼女は少し疲れた表情をしていたが、それでも微笑みを絶やさなかった。
「お疲れ様です、鈴木さん」河野は立ち上がった。「おめでとうございます、プロジェクトリーダーに」
「ありがとう」鈴木は小さく頷いた。「今日は忙しい一日だったわ。朝から会議の連続で…」
「大変でしたね」
「ええ」鈴木は少し間を置いてから言った。「河野くん、明日の話だけど、少し先に言っておくわね。実は私、このプロジェクトのコアメンバーとして、あなたと田中くんを推薦したの」
河野は驚きを隠せなかった。「僕たちを?」
「ええ」鈴木は頷いた。「二人とも若手だけど実力があるし、新しい視点を持っている。特にあなたは、静かだけど鋭い洞察力を持っているわ」
河野は言葉に詰まった。鈴木のプロジェクトに参加するということは、彼女のカミングアウトを支持し、会社のダイバーシティ推進に積極的に関わることを意味する。それ自体は悪いことではない。しかし、佐藤の言葉が頭を離れなかった。
「どうして僕なんですか?」河野は思わず本音を漏らした。「デザインスキルなら、他にも優れた人はいますよね」
鈴木は少し驚いたように河野を見た。「あなたが持っているのはデザインスキルだけじゃないわ。誠実さ、思慮深さ、そして…」彼女は少し言葉を選ぶように間を置いた。「時には、質問を投げかける勇気。それが必要なの」
河野は鈴木の言葉の意味を理解しようとした。彼女は彼の中にある疑問や違和感に気づいているのだろうか。
「明日、詳しく話しましょう」鈴木は微笑んだ。「今日はお互い疲れてるし」
「はい、わかりました」
鈴木が去った後、河野はぼんやりとデスクに座り込んだ。窓の外では、東京の夜景が輝き始めていた。一日の出来事を振り返ると、全てが早すぎる展開だった。昨日の鈴木のカミングアウト、今朝の社内の反応、そして会社のプロジェクト発足とリーダー就任。そして明日、彼自身もそのプロジェクトに関わることになるかもしれない。
河野はスマホを取り出し、「LGBTQ+ 企業 戦略」と検索した。多くのヒットがあった。記事を読み進めると、企業がダイバーシティを推進する背景には、社会的責任だけでなく、ビジネス上の利点も多くあることがわかった。従業員のエンゲージメント向上、イノベーションの促進、そして企業イメージの向上。
河野は画面を暗くして、鞄を手に取った。帰り際、彼は佐藤のデスクの前を通りかかった。佐藤はまだ残業していたが、河野に気づくと小さく手を振った。彼女の表情には何か意味深なものがあるように見えた。
オフィスを後にする河野の頭の中には、様々な思いが交錯していた。鈴木のプロジェクトに参加すべきか。その背景にある意図は何なのか。そして何より、自分の中にある違和感の正体は何なのか。
彼が地下鉄に乗り込むころには、東京の空は完全に闇に包まれていた。車窓に映る自分の顔を見つめながら、河野は思った。明日、彼の前にどんな選択肢が示されるのだろう。そして、自分はどんな選択をするのだろう。
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