【1-7r】“恋して幸せになれ”って魔法、強制力高すぎませんか?

「いい? この世界には魔法があるの」


リドリーは、目の前の少年──転生者ケンに向き直り、穏やかな口調で話し始めた。


「でも、それは単なる技術じゃない。魔法の根源は“願い”。人の“思い”なの。たとえば、あなたがパンを食べたいと強く思えば、魔法でパンを生み出すことができるわ。……ただし、それは、あなたがこの世界でたった一人だった場合に限られるの」


ケンが眉をひそめる。


「つまり……?」


「世界の“常識”を覆すには、それだけの力が必要なの。たとえば、“何もないところからパンは出てこない”というのがこの世界の常識。それを上書きするには──あなたが“パンを出せる”と信じてもらえるだけの共同体が必要よ」


リドリーの声には、どこか皮肉混じりの苦味があった。


「それは、小麦粉をこねて発酵させて焼き上げるのと、ほとんど同じくらいの労力がいるわ。魔法は奇跡じゃないの。常識という巨大な壁を一人では壊せないってこと」


 


***


 


彼女の脳裏に、古い記録と共に思いが巡りケンに伝える。

この世界では、あなたたちの世界で言う「産業革命」のようなものはなかった。けれど、似たものはあった。人々が、誰かを信じたとき──その「思い」が魔法の力を広げた。


「貴族たちが現れたのも、そう。『あの人ならできる』って、誰かが信じたからよ。そうして集まった“思い”が、血筋や家を作ったの」


まるで、信頼という土台に建てられた城。

思いのエネルギーで動く魔法の王国。今は12体の魔法使いによってその力は整えられ、王家によって統治されている。


「他の国? あるわよ、形式的には。信じる対象が異なる共同体、それが“他国”と呼ばれているの。でも、実際に起きているのは……願いのぶつかり合い。つまり、思いと信念の戦争」


ケンは言う。「じゃあ……魔王はいないのか?」


リドリーは苦笑いを浮かべた。異世界転生者は本当に魔王が好きね。知らない国の私たちの不幸をそんなに願っているのだろうか?


「“魔法の王”って意味ではいるわ。思考のリソース、つまり“人々の願い”を奪って、国から離反した貴族。彼らは共同体を作って独立しようとする……それが“魔王”と呼ばれる存在ね。謀反でも、テロでも、宗教でもなく。願いの選択なのよ」


 そう、この世界に生まれたての彼の傷一つない柔らかそうな、でも骨ばっている、凛々しい横顔を見て思う。

うーん…取り入って特徴があるわけでもないし、まぁ平凡な彫りの薄い顔だけど…

なんか好きな顔だ。

体は文字通り「生まれたままの姿」だから。私のオーグが「視覚倫理フィルタ」をかけてくれているので白く発光している四角のウィンドウでおおわれてはいるけれども。うへへ。


***


「まぁ、その話、6周目くらいですけどね……」

ケンは呆れたように言った。


リドリーは凍りつく。

6周? そんなはずは──いや、ある。おそらく彼女は、恋心が芽生えるたびに、自らの記憶を魔法で消しているのだ。


今も浮ついた感覚が脳裏によぎったらすかさず記憶忘却用の木づちを振ろうとしていた。


わたし……恋してるのか? いや、させられているのか?


ほんのり色づく頬。胸の奥でチリチリと疼く感情。

“恋”──それは誰かの“願い”だったのかもしれない。

「この二人を恋人にしたい」「幸せになってほしい」──そんな願いが、強すぎたせいで、魔法として実現されてしまったのか。


リドリーは頭を抱える。


「あーーーもう! この魔法、“恋をしろ、幸せになれ”っていう願いが強すぎるのよ……!」




彼女は思い切って言った。


「もういいわ! このチェックシート、全部“はい”にマルをつけて。どうせ全部“はい”にしないと、あなたをここから出せない仕様になってるんだから!」


「マジデ!?……RPGの序盤イベントかよ……」


ケンは渋々、チェックシートにマルをつけていく。

だが、リドリーの目にはほんのわずかに笑みが浮かんでいた。


たとえそれが魔法で植えつけられた感情だったとしても。

思いは、どこまでも人を動かす──願いは、どこまでも世界を変える。


ケンがチェックシートの最後の項目に静かにマルをつけると、リドリーはそっと目を閉じ、深く息を吐いた。


ほんのわずか、胸がちり、と疼いた。それは“誰か”の願いによって芽吹いた感情かもしれない。けれど、それでも今、確かに自分の中で脈を打っている。温かく、そして厄介なもの。


──こんな魔法、誰が仕掛けたのかしら。


「……はい、転生儀式はこれで完了です」


「なるほど……これで、私はこの世界の一員というわけか」


ケンはどこか芝居がかった丁寧さで言った。だが、その声音に漂う不安と困惑は隠しきれなかった。異邦人の戸惑いを、リドリーはもう何度も見てきた。けれど、彼のそれには、どこか異質な透明さがあった。


「それで……このあとは、どうすれば?」


リドリーはわずかに黙った。言葉を選んでいる、というよりは、感情に整理をつけようとしていた。


この感情は“誰かの願い”が発現した魔法──だとしても。


それを否定するのは、どこかで“この時間”を否定することに思えて。


だから、彼女はあえて軽く肩をすくめてみせた。


「……しょうがないわね。あなた、本当に何も知らないのね」


「ええ。まるで絵本の中に入り込んだような気分だよ」


「絵本ほど甘くないわよ。少なくとも、読み手があなたの幸せを願ってくれる保証はないもの」


リドリーは立ち上がった。ローブの裾がふわりと揺れる。彼女の姿が逆光に淡く透けて、まるでその背と跳ねた髪が、見えない光の羽が広がったように見えた。


「でも、あなたがここに来たこと──それ自体が“誰かの願い”による魔法なのよ」


「……願いが、魔法になる世界」


ケンは静かに繰り返した。その言葉に、ほのかな震えがあった。


「そう。たとえば、誰かが“あなたがこの世界で生きていけるように”って願ったなら……あなたが知らないうちに、必要な知識も力も、すでにあなたの中に宿っているかもしれない」


「それは……あまりにも、都合が良すぎる気がするな」


「都合のいい魔法ほど、代償は大きいのよ。だから、忘れないで。“願い”は力になる。でも同時に、それは責任でもあるの」


リドリーは、ケンを振り返らずに歩き出した。けれど、その声はとても静かで、優しかった。


「……この世界の歩き方、案内してあげる。まずは、あなた自身が何を願っているのか、そこから確かめましょう」


ケンはその背中を見つめていた。まるで、深い霧の中に立つ一本の灯台のような、確かな輪郭。


「……もしも、私が誰かの願いでここにいるのなら。せめてその願いを、無駄にしたくはありません」


その言葉を口にした瞬間、彼の足元に小さな光が灯った。


“パンをください”と願えばパンが現れるというのなら──

“彼女と共に進みたい”と願った今、この光は、その第一歩なのかもしれない。


リドリーは、その足音が近づくのを聞いて、小さく微笑んだ。


「じゃあ、はじめましょ。道中、退屈はさせないわ。楽しんでもらえたら幸いね」


リドリーの声が、どこか遠くから聞こえたように響いた。


そのとき、ケンの背後で何かがふわりとほどける音がした。

長い眠りのあいだ閉ざされていた、感情のカーテンが、そっと揺れたような──


 


窓も、扉もない。世界と断絶された、安全な閉じ込められた、引きこもった空間。


だが今、その見えない壁に、亀裂が走る。


「平和省三級事務職員リドリー7310が宣言します。転生者ケン1301対象のログラインを再構成、完了しました。転送願います。」


リドリーが囁いた瞬間、部屋の中心に浮かぶ転送陣が音もなく輝きを増した。

床が、壁が、天井が──まるで霧のように薄れてゆく。


“物語”という名の魔法が、閉じた世界を壊しにかかっていた。


 


重力のない宙を、二人の身体が浮かび上がる。

光に埋もれ薄れゆく部屋の断片が、過去の亡骸のように粉となり、遠くに消えていくような感覚。


ケンは、ほんの少しだけ目を細めた。


「これは……転送魔法?」

なるほど、窓も扉も無い


「ようこそ、女王さまが統べる王国オルフェリアへ」


そのとき、ふたりを包む空間の奥深くで、確かに聞こえた。


――カチリ。


心のどこかで、閉ざされた鍵が音を立てて外れた気がした。


 


次の瞬間、すべてが光に包まれる。


 


これは、まだ誰も知らない物語の始まり。

願いによって織られ、思いによって動く世界へ──


そして彼らは、“部屋”を抜け出した。


 


光の向こうには、きっとまた、まだ名も知らぬ風景が広がっている。

遠く、まだ見ぬ扉の向こうから、世界がこちらを覗き込んでいた。


 


──次の章が、ぼくたちを待っている。

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