【1-5n】世界樹の影

 どこまでも澄み渡る蒼穹を、一本の白き巨木が真っ直ぐに貫いていた。


それはまるで、天へと捧げられた祈りの柱のように、地平から空の果てへと伸び、その先端は視界の及ばぬ雲海の向こうへと消えている。


白銀の樹皮は陽の光を受けて淡く輝き、まるで世界そのものが光へと導かれているかのような錯覚を抱かせる。幾億、あるいはそれ以上の枝葉は風に揺れ、優しく大気を震わせながら、遥かなる天空へと意識を誘う。


そして、さらにその先。


大樹の頂を超えた先に、黄金の太陽があった。


光は枝葉の隙間から零れ、無数の細かな光条となって降り注ぐ。その輝きは、まるで大樹が天へと手を伸ばし、太陽を掴もうとしているかのようだった。


白と金が交わるその光景は、まるで世界の理そのものを象徴するかのように、静かで、崇高で、どこか夢のように美しかった。


その視界を引き締めるように、遠くの空に、静かに浮かぶ艦隊の姿が見え始めた。巨大な飛空艦の群れは、まるで天空の海を航行する船団のように、悠然と広がっていた。蒼穹を滑るその艦隊は、白銀の輝きと青い空の対比で、どこか聖なる光景を成しているように見える。


艦隊の中でも最も目を引くのは、旗艦「アルベルト」。


そして、その艦の中で、最も重要な人物——それが彼だった。


 「せめて、グリーヴを外したらいかがかな?」


 穏やかな声が、甲板に響いた。    


 艦首に立つ彼は、視線を空の中央に据えていた。


 「この高度では、指の先、足の先から冷えますぞ」


 王国海軍・外周第二艦隊の旗艦「飛空母艦アルベルト」。その艦長は蓄えた髭を厚手の手袋で撫でながら、優しく彼に語りかけた。


 「ありがとうございます。しかしまぁ……この鎧の中に、あまり肉体は残っておりませんので」


 それは悲しい言葉のはずだった。しかし、彼の声音には哀愁の色がなかった。ただ、申し訳なさそうに響くだけで、感情の奥行きが見えない。靴先を覆うサバトン、脛あてのグリーブ、太ももを守るクウィスと同じくつけたままの兜のバイザーはこの艦に乗艦して以来一度も上がることなく、くぐもった声がそこから零れるだけだった。


 「それは失敬」


 艦長は、彼の言葉に軽く頷いた。そして、次の瞬間には膝を折り、甲板に跪いていた。


 「魔王討伐……さぞ、大変な戦いであったでしょうな」


 そう呟くと、艦長は首元の厚手のスカーフをゆっくりと解く。上等な布地には精緻な刺繍が施され、燦然と金糸が光る。彼が身にまとうそれは、王国からの威厳の証。しかし、今その布は彼自身の手により、彼の具足を拭うために使われようとしていた。


 「お待ちください、艦長殿! そんなこと……!」


 彼は慌てて足を引こうとする。しかし、艦長はそのまま彼の足をしっかりと支え、膝の上にそっと載せた。大空を巡るこの巨大な飛空母艦の揺れを見極めて航行する男にとって、ただの人の足を扱うことなど造作もない。


 「騎士の旅路を労う際、足を湯で洗う習わしがあるとか。あいにく湯は用意できませんが、せめてこうして……」


 そう言いながら、艦長は丁寧に具足を拭い始めた。しかし、布にはすぐに汚れが滲み、血と泥が何層にも染み付いた鎧は、元あった輝きを取り戻すことはない。ただ、わずかに積もった埃が取り払われるのみだった。


 「……しかし、なぜここで停船を?」


 気恥ずかしさを紛らわすように、彼は問いを投げかけた。艦長の手を止めることもせず、ただ目の前の世界樹を見上げながら。


 「効率化ですな。合理的で無駄のない運用を──それが軍の至上命令規範でしょう」


 艦長は微かに笑い、今度はもう片方の足を手に取る。


 「王都で、転生が行われたそうです。我がアルベルトは異世界からの情報転送の踏み台として指定され、停船命令が下りました」


 拭き終えた布を広げると、そこには黒ずんだ赤色が汚く広がっていた。


 「……転生、でありますか」


 かつて、彼のために王国が総力を挙げた時も、こうして幾千の人々が動いていたのだろうか。


 「それでも、あなたの召喚の時はこの五倍は動員されておりましたよ、勇者さま」


 艦長は立ち上がり、背を伸ばし、腰を軽く叩いた。そして、拭った布をふたたび首に巻いた。


 「……」


 彼は言葉を発しようとしたが、やめた。汚れた布を巻く艦長を止めようとしたが、その満足そうな顔を見て、野暮なことは控えることにした。それを察したのか、艦長が生まれ持って携えて、磨いてきたユーモアを携えた軽口が彼にそっと渡された。


「凱旋ですな。王都に着いたら王の謁見や、貴族様たちのねぎらいやらきっと大変なことでしょうな、魔法使いたちまで出てくるかもしれません。いやはや…」お偉方の相手は気をもむのだろう、穏やかな老人は蓄えた髭をさすりながら言った。


「ああ、最高に 地獄のような夜 になるでしょうね…」勇者は答えた。バイザーに隠れやはり表情は読み取れない。


地獄のような夜。艦長はまるで聞いたことのないような言葉を受けたように目を丸くして口をつぐんだ。


 蒼穹の下、世界樹の影が広がる中で、彼はふと、自分の帰るべき場所について思いを馳せた。


 飛空母艦アルベルトは、王都へ向けて静かに漂う。

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