私がアイドルになりたいと思った理由
恋みぞれ雨
私がアイドルになりたいと思った理由
私がアイドルになりたいと思った理由は、たぶん普通じゃない。
華やかな世界に憧れたわけでも、スポットライトの下で輝きたかったわけでもない。
ただ――会いたかった。名前も知らない、今どこにいるのかもわからないあの人に。
それでも、どうしてももう一度会いたかった。
◇
あの日、私は泣いていた。何が理由だったのかはもう思い出せないけれど、子どもだった私は、たぶん世界の終わりみたいな気持ちでしゃがみ込んでいたんだと思う。
そんな私に気づいて、しゃがんでくれた人がいた。
「どうしたの?」
優しい声だった。あたたかくて、どこか懐かしい響きのする声。
顔を上げると、制服を着た中学生くらいのお姉さんが私を覗き込んでいた。
何を言われたのか、どんな風に慰められたのか、あまりよく覚えていない。それでも、今でも鮮明に思い出せることがある。
お姉さんはスマホを取り出して、私に画面を見せてくれた。そこには、アイドルが笑顔で歌い踊っていた。
「これね、元気が出るんだよ」
お姉さんはそう言って、画面の中の彼女たちと同じように柔らかく笑った。
その笑顔が、とてもきれいだった。どんなに涙で曇っていても、私の目にはその笑顔だけがまぶしく映った。
それからどれくらいの時間、一緒に画面を見ていたのかはわからない。気づけば私はもう泣いていなくて、お姉さんは「よかった」と言ってまた笑った。
別れ際、私はお礼を言えなかった。言葉が喉の奥に引っかかって、どうしても出てこなかった。
それがずっと、心に残っていた。
◇
だから、私はアイドルになろうと思った。
お姉さんが見せてくれた、あのアイドルたちみたいに。
どこかの誰かの涙を止められるように。
そして――いつか、お姉さんが私を見つけてくれるように。
いつか、このステージの上から。
お姉さんに届くように。
そうしてアイドルとしての夢を追い続け、私はついにここまで来た。
無名の研究生から始まり、少しずつ知名度を上げ、気づけばセンターを務めることも増えた。握手会には長蛇の列ができるようになり、たくさんのファンが「大好きです」「応援しています」と言ってくれるようになった。
そんな今日、この握手会の列の中に、あの人がいた。
視界に入った瞬間、心臓が強く跳ねた。
一瞬だけ、夢を見ているのかと思った。
でも、目の前にいるのは間違いなくあの日のお姉さんだった。
幼い私の涙を止めてくれた、あの優しい人。
大人になって変わってしまった部分もある。制服姿ではなくなったし、髪も少し違う。それでも、私はひと目でわかった。ずっと心に残っていたから。ずっと、探していたから。
「はじめまして」
お姉さんはそう言った。
違う。
私たちはもう、出会っている。
でも、お姉さんは私のことを覚えていなかった。
何度も夢に見た再会。何度も思い描いた瞬間。
私が名前も知らないこの人を忘れられなかったように、お姉さんも私を覚えていてくれたら――そんな都合のいい奇跡を、どこかで期待していたのかもしれない。
けれど、現実は違った。
お姉さんは、ただのファンとして私の前に立っている。
「応援しています」
そう言って、お姉さんは笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸が詰まった。
知っている。
この表情を私は知っている。
あの日、スマホの画面を見つめながら楽しそうに笑っていた顔。アイドルのパフォーマンスに心を動かされ、元気をもらっていたあの時の表情。
私は――お姉さんを笑顔にできたんだ。
あの頃のアイドルたちと同じように、お姉さんの心に何かを届けることができたんだ。
それがどれほど嬉しかったか、言葉にできなかった。
でも、その嬉しさと同時に、胸の奥に別の感情が湧き上がるのを感じた。
いけない。
こんな気持ち、抱いちゃいけない。
アイドルはファンを幸せにする存在であって、ファンに特別な感情を抱くものじゃない。
何百、何千という人の前でパフォーマンスをして、たくさんの人に笑顔を届ける――それがアイドルの仕事で、それ以上を望んではいけない。
それなのに。
私の心は、ただの「ファンの一人」としてお姉さんを見られなかった。胸が苦しくなるほど強く惹かれていた。
恋だと、すぐにわかってしまった。
握った手を離したくなかった。
この瞬間が終わってほしくなかった。
でも、お姉さんは時間が来ると、名残惜しそうに手を離し、次の人のために一歩後ろへ下がった。
「また来ますね」
そう言ってくれた声が、痛いほど優しかった。
まるで、特別な感情なんて一切ないみたいに。ただ、純粋にファンとして。
私は笑顔を作った。
プロのアイドルとして。ファンをがっかりさせないために。
でも、本当は――
心が泣きそうなくらい、お姉さんの姿を目で追ってしまっていた。
アイドルはみんなのものだ。
誰か一人のために歌うわけじゃない。誰か一人のために輝くわけじゃない。
だから、私は今日もステージの上で笑顔をつくる。
誰の心にも届くように、誰もが私を「好きだ」と思えるように。
でも――本当は違う。
私はただ、お姉さんだけのアイドルになりたい。
その想いを抱えたまま、私は歌う。
その感情を押し殺したまま、私は踊る。
だって、ファンとの恋愛なんてご法度だから。アイドルは、ファンに夢を見せる存在だから。
でも――だったら、私はどうすればいい?
この気持ちをどうすればいい?
答えなんて、とうに決まっていた。
アイドルの頂点に立つ。誰もが私の名前を知るくらいの、伝説的な存在になる。
そうすれば、誰も文句なんて言えない。
どんなスキャンダルも、引退してしまえば関係ない。
そして――その瞬間、私はすべてを手放す。
マイクを置いて、ステージを降りて、誰でもないただの私に戻る。
そして、あの日伝えられなかった言葉を、ようやく伝えるんだ。
「あなたに会いたくて、アイドルになりました」
「あなたの笑顔が、ずっと忘れられなくて」
「あなたが好きです」
それまでは、私はアイドルを続ける。
誰よりも輝くアイドルであり続ける。
お姉さんが私から目を離せなくなるくらいに。他のアイドルに目移りなんてさせないくらいに。
こんな気持ちでアイドルを続けるなんて、間違っているのかもしれない。ファンのためじゃなく、ただ一人のために歌うなんて、きっと邪道だ。
でも、それでもいい。
どんな理由であれ、私は今、ステージの上で輝いている。それが間違いだとしても、この想いだけは揺るがない。
私が笑顔にしたいのは――生涯、お姉さんただ一人だから。
私がアイドルになりたいと思った理由 恋みぞれ雨 @glislily1111
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