第18話 仮初の時間
「ありがとう。じゃあ食べようか」
「はい、ありがとう。お父さん」
「ありがとうございます。いただきます」
今夜はご馳走だ。
目の前には大きなお鍋があって、茶褐色の割り下の中で、野菜や豆腐がグツグツと煮えている。
畳の上に三人で座って、グラスにシュワシュワと泡が立つ液体が注がれた。
赤身と白い脂身が入り混じったお肉を割り下にくぐらせると、さっと色が変わる。
熱が入り過ぎないうちに引き上げて、玉子の中に落とす。
「じゃあ、乾杯」
「「乾杯~!」」
グラスを重ね合わせてから、ぐっと喉に黄金色の液体を流す。
いつもながらだけど、仕事が終わった後のこの一杯は格別だ。
一日の疲れを、どこかへと拭い去って行ってくれるかのようだ。
肉を口に含むと、柔らかい歯ごたえと一緒に、肉の旨味が口いっぱいに広がる。
生玉子の甘みと割り下の甘辛さも一緒になって、味蕾を楽しませてくれる。
くたっとした野菜にも味がしみ込んでいて、玉子と一緒に食べると味わいが口いっぱいに染み渡る。
酒もどんどんと入って、三人とも頬が赤くなる。
日本酒はキリリと辛口で、喉をさっと熱くしてくれた後、胃の中へとすうっと消えていく。
「久々に、楽しい夜だなあ」
「本当に。今日はペースが早いですね。お父さん」
遠野さんがお酒を注ぐと、星宮さんは直ぐにそれを飲み干して、優しく笑みを返す。
まるで本当の親子のように見えるよ。
「本当に、息子が戻って来てくれたみたいだ」
「昔はよく三人で、こうしていましたものね」
やっぱり、そんな時間が、ここにあったんだな。
仕事が終わって、三人水入らずで笑い合って、食卓を囲っていた。
今は俺なんかが代わりで、申し訳なく想うけど。
「ありがとう、久我山さん。お蔭で楽しい夜になったよ」
「いえ、こちらの方こそ。こんなにご馳走になって、ありがとうございます」
「社会人四年目ということは、
「そうですね。大学を出てからそのまま、今の会社に入りましたから。今年で26になります」
達也というのは、星宮さんの亡くなった息子さんの名前、その呼び方に親しみと懐かしさがこもっている。
お酒が入ったこともあってか、星宮さんの口が滑らかになっている。
「……悪いことをしたな、あいつには。それに千冬さんにも。無理ばっかりさせてなあ……」
「お父さん、それはもう過ぎたことですから。私だって申し訳なく想っています。もっと早くに、達也さんのことを気遣えていれば」
「いや、千冬さんにはよくしてもらった。それに、君がいたから、あいつはあそこまで頑張れたんだ。短い人生だったけれど、幸せだったと思うよ」
「……お父さん……」
「きっと、君やみんなのために会社を良くしようと、一人で頑張り過ぎたんだ。周りが止めるのも聞かずにね。物作りが遅れているのを挽回しようとしたり、金策に走り回ったりして。俺はそれに、甘えていたんだろうな。俺の責任だ」
笑顔で語ってはいるけれど、心の内は無念に違いない。
注文を受けた品物を納品できないと、会社は信用が無くなって、取引をしてもらえなくなる。
そうなれば後は、倒産に向って一直線だ。
資金が無ければ会社を動かせず、それもまた暗い結果へとつながる。
きっと、責任感が強い人だったのだろう。
そうならないように、ずっと人知れず頑張っていたのだろう、達也さんは。
「そんな……お父さん一人の責任じゃありません。私だって、もっとあの人のことを、見てあげられていたら……」
「いや……本当に……君は良くしてくれた。だからもう……気にしなくていい。君は君で、新しい道を見つけるんだ……」
星宮さん、体がフラフラしている。
ほんわかと笑みを湛えながら、しみじみと語っている。
「……久我山、さん……」
「あ、はい!?」
ぼんやりと耳を傾けていると、急に名前を呼ばれた。
「今日は、来てくれてありがとう。千冬さんのこと、よろしく頼むよ……」
……え……?
俺が、千冬さん……遠野さんのことを……?
意外な言葉に、一瞬心臓がトルンと反応してしまった。
けれど……それはきっと、会社の先輩として、という意味なのだろう。
もちろんですよ、それもあって、今日はここへ来ています。
「はい。できるだけのことは、やらせていただきます」
「うん、うん…………」
「あ~あ、お父さん、寝ちゃった」
座ったまま目を瞑って、耳まで真っ赤に染まった頭を、斜めに傾けている。
「このまま寝かせてあげましょうか。こんなに楽しそうなお父さん、久しぶりに見たよ」
「そっか。じゃあ手伝うよ」
星宮さんを部屋の隅に寝かせて、上から布団をかけた。
買ってきた肉も野菜も半分以上が無くなって、こちらも満腹感がいっぱいで、ほろ酔い気分だ。
「これ、明日の朝におうどんを入れたら美味しそうね」
「だね。でもここまでしてもらって、なんだか申し訳がないよ」
「大丈夫だと思う。お父さん、とっても楽しそうだったし。それに私だって。なんだか本当に、昔に戻ったみたい。ありがとう、つき合ってくれて」
「いや、俺は別に。こっちこそ、こんなのは久々だったから、楽しかったよ」
誰かと一緒に家の中で飯だなんて、故郷にいる家族と若菜くらいだっただろうか。
その若菜とは、お別れをしてしまってから、もう半年ほどが経つけれど。
「お風呂入るでしょ? 沸かすね?」
今夜はホテルの部屋で一人で過ごすつもりだったけれど、想いもかけずに穏やかな時間でいられた。
沸かしてもらった湯に浸かっていると、体に残った疲れが染み出していくようだ。
達也さんという人もきっと、これと同じような景色を見ていたのだろう。
直接会ったことはもちろんないのだけど、なぜだか親近感を感じる。
ずっと、こうして過ごしたかったに違いない。
遠野さんと一緒に。
そう思うと、胸の奥をくっと握られたように、鈍い痛みを感じた。
俺は一体、何をしているのだろう。
今ここにいるのは、仕事のためだ。
けど、どこかで浮かれていなかっただろうか?
遠野さんと知り合って、お向かいさん同士になって、少し仲良くなって。
彼女の心の中には、きっとまだ、達也さんの姿があるのだろう。
そして、大事な人を失った悲しみから、立ち直ろうとしている途上だ。
なら俺がすることは、せいいっぱいそれを支えることだ。
職場の先輩としては、ほんの少しだけ経験値はあるのだから、
ここでの時間を忘れる必要なんて、全然ない。
それも一緒に一人で歩きだして、そして新しい幸せにも、目を向けられるように。
ばしゃんとお湯を顔にかけて、頭の中を少しすっきりとさせた。
「久我山さん、湯加減はどう!?」
うわわっ、遠野さん!?
薄い半透明の扉一枚を挟んで、遠野さんがそこにいる。
急に話しかけられて、心臓が飛び跳ねる。
「は、はい! 丁度いいです!」
「よかった。着替え、ここに置いておくわね」
「え、着替え!?」
「ええ。楽な格好の方が落ち着けるでしょう? 達也さんが着ていたものだけど、多分着られると思う。だからよかったら」
「ああ、はい。あ、ありがとう!」
「ゆっくり入ってね」
……いいな、こういうの……
今だけの仮初の時間に、また身を浸している自分がいた。
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