第17話 いつかあった日常

 星宮工機は、古い下町の景色の中にある。

 薄暗くなりつつある空が、西の方向にある朱色を、だんだんと黒く塗りつぶしつつある。

 たおやかに流れる風が頬を撫でて、さやかに心地よい。


「いつもここで、買い物をしていたの」


 遠野さんが指をさす先にも、昔懐かしい佇まいがある。

 車一台が通れるほどの広さの通りを挟んで、いくつもの小さな店が並んでいる。

 買い物袋をぶら下げた女の人と、その脇を走り回る男の子。

 会社帰りだろうか、中年の男の人が、店の軒下であれこれと物色している。

 お店の人とのんびりと雑談をしているお婆さんもいる。

 ここの商店街の景色は、下町情緒に溢れている。


「そっか。色んなお店があるね」


 ずっとコンビニ通いが続いていた俺には、新鮮でどこか懐かしい。

 昔に母さんに手を引かれて、歩いた道程を思い出す。

 たまにねだって、揚げたてのコロッケを買ってもらったりしたっけな。


「お肉、いっぱい買って帰ろうね」


 星宮社長のご厚意で家に泊らせてもらうことになって、今夜はすき焼きを振舞ってくれるという。

 申し訳ないなと思いながらも、断るのはもっと申し訳がなくて、今は遠野さんと二人で買い物中だ。


 お肉屋さんの前で立ち止まって、ショーケースの中をじっと見る。


「100グラム1080円のすき焼き用を、1キロ貰えますか?」


「はいよ。牛脂は入れとくかい?」


「ええ、お願いします」


 なかなかに豪快な買いっぷりだ。

 こんな量の牛肉、あまり見たことがない。

 星宮工機を出る際に、星宮社長が遠野さんに、お札を渡していた。

 多分そのお陰なのだろう。


 それから商店街を巡って、野菜や豆腐、そして玉子や糸蒟蒻、うどんを買い揃えた。

 右手に抱える買い物袋は、ずしりと重たい。

 酒屋さんもあったので、そこでビールや日本酒も買った。


 食材を揃えて工場まで戻っても、何人かの工員はまだ残っていて、作業を継続中だ。

 やることが無い俺は、遠野さんの手伝いを買って出た。


「じゃあ、野菜を切ってくれる? 私は割り下を作るから」


「はい、了解」


 台所に並んで、慣れない包丁を握る。

 白菜やネギ、それに椎茸などを、不器用に切っていく。

 形はまずくても、食べたら味は同じ。

 そう信じたい。


 野菜を切り終えて、ご飯の炊くための炊飯器のスウィッチをONにした。

 遠野さんが作った割り下の中に、切ったばかり野菜が投入される。

 ぽこぽこと煮立ってくると、じんわりと甘辛い匂いが漂ってきて、鍋の中でゆらゆらと野菜が揺れる。


「うん。後は待つだけね」


 随分と手慣れている。

 きっと遠野さんはこうして、いつもここで、ご飯を作っていたのだろう。

 微笑ましく思う気持ちと、自分がそこにいなかったことへの寂しさ、そして今こうしてここにいる罪悪感、そんな気持ちが入り混じる。


 お鍋全体が煮立って野菜がくったりすると、一先ず完成だ。

 あとは肉を入れるだけなんだ。


 星宮社長に声をかけてから戻った遠野さんは、肉を何切れか鍋に入れて、お茶碗に白ご飯を山盛りにした。

 そしてお椀の中に玉子を割り入れて、熱々の野菜や肉を沢山入れた。


「ちょっと、挨拶してくるね」


 何も言わないけれど、どういうことなのか、直ぐに理解ができた。


「それ、お供えだよね? よかったら、俺も行っていいかな?」


「……うん。大丈夫だと思う」


 板造りの廊下を踏みしめて向かった部屋には、立派な仏壇があった。

 綺麗な生花が添えられていて、お線香を添える仏具の中は、真っ白い灰でいっぱいだ、

 きっといつも欠かさずに、お線香を上げているのだろう。


 そこには、二枚の写真が飾られていた。

 一枚は中年の女の人、もう一枚は若い男性のものだ。

 どちらも生き生きとした笑顔を、こちらに向けてくれている。


 遠野さんがお線香に火を付けてから、おりんを棒で叩いた。

 鈴の音のような響きが部屋の中に広がってから、そっと両手を合わせた。

 俺も同じように手を合わせて、両眼を瞑った。


 いくらかの時間が流れてから、遠野さんが口を動かす。


「ここにいるのは、星宮のお母さんと、その息子さんなんだ」


 しみじみとしていて、そして、何かを噛み締めるかのように。


「お母さん……それって、星宮社長の、奥さん?」


「ええ。お母さんは10年前に、病気で亡くなったの。それからお父さんは一人で、息子の達也たつやさんを育てたの」


「達也さん……」


 訊くのが少し怖い、でもきっと、そういうことなんだ。


「その人も、亡くなったんだね?」


「ええ。そこに写真がある人がそう。ここで働いている時に急に倒れて、救急車で病院に運ばれたの。そこで検査をしたのだけど、その時にはもう……」


 ぐすんと、鼻をすする音が鳴った、

 白くて綺麗な横顔に、輝く雫が流れ落ちる。


 どう声をかけていいのか、分からない。

 けど、その人が大事な存在だったのだろうことは、彼女の姿が如実に語ってくれている。


「この人が、遠野さんの大事な人だったんだね?」


 コクンと頷くと、彼女の膝の上に、ポトリを涙の雫が落ちた。


 写真の中の彼は、俺と同じような年格好に見える。

 健康的で清々しい笑顔だ。


 遠野さんには、結婚まで考えていた相手がいたと聞いた。

 きっと彼が、その人なのだろう。


「きっといい人だったのだろうね。俺はこの写真でしか分からないけど、でもそんなことが伝わってくるよ」


 写真一枚を見ただけで分かることなんて、ほとんどないだろう。

 けどこれは、心が素直に感じたことだ。


「ありがとう。そんなふうに言ってくれて」


「大好きだったんだね?」


 当たり前に感じたことを口に出すと、遠野さんの頭がぐっと深く、下に向いた。


「うん……うん、大好きだった。でも、一つだけ、許せないところがあるんだ……」


「……そうなんだ。何かあったの?」


「…………何もなかった、だから許せないの。会社が大変なのも、自分の体がしんどいのも、何も話してくれなかった。私はただ無邪気に、彼の傍にいただけだった。もっと早くに話してくれていたら、もっとできることがあったかもしれないのに……」


 …………


 言葉が出て来ないよ。

 彼が何を考えていたのか、それは俺なんかに分かるはずはない。

 けどきっと、心配をかけたくなかったんじゃないかな。

 多分自分がそうだったら……そんなふうには思うんだ。


 きっと彼だって、遠野さんのことが、大好きだったに違いない。

 そんな彼女には、ずっと傍で、笑っていて欲しいと思っていたはずだから。


「そっか……遠野さんの気持ちは、分かるつもりだよ。でも俺は達也さんの気持ちだって、分かる気がする。きっと遠野さんに、心配をかけたく無かったんだ。お互いを思いやってのことだったんじゃないかな」


「……久我山さん……」


 顔をくしゃくしゃにして、大粒の涙を流す遠野さん。

 こんなに沢山の綺麗な涙、見たことがないよ。


「お~い……あ、二人とも、お供えをしていてくれたのかい。ありがとう」


 星宮社長だ。

 にこにこと、優しい笑顔をたくわえている。


 きっとこんな日常が、かつては普通にあったのじゃないだろうか。

 俺じゃなくて、達也さんが、ここにいて。


「あ、ごめんなさい、お父さん。すぐに支度をしますね!」


 遠野さんはすくと立ち上がって、ぐっと両目を手で拭った。




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