第五話「絵空事じゃなかった」
南雲が手鏡を使って、フロントガラスから車内を確認する。
前から七列目の右側の席は空席だった。
ガラス片が飛び散っても被害は最小限だ。
「先輩ってかわいい手鏡使っているのですね」
「残念だったな。これは九条の手鏡だ」
からかうを躱された結城だったが、
それはそれで面白いからいいやと退いた。
南雲が慎重に警棒を構える。
警棒を構える手に、わずかな緊張が走った。
鋭く振り下ろされた一撃が、バスの窓の端を叩く。
次の瞬間、「バシィンッ!」という乾いた音とともに、
ガラスが粉雪のように砕け散った。
「靠!」
「カオ? どういう意味なのです?」
「たぶんクソとかそういうのだろ」
座席に散らばった、ガラス片を踏み締め南雲が車内に入った。
犯人の手が腰へと滑り、シャツの裾をめくるようにして、
ズボンに隠された銃を引き抜いた。
突然の南雲の来訪に、悲鳴を上げていた乗客の声が一瞬、
空気が凍りついたように、静まり返る。
南雲は犯人の銃を見た。
ベレッタM84。
素人が選ぶ銃ではないと南雲は判断する。
「滚!」
犯人が抵抗もなくトリガーを引き絞った。
正確に放たれた9ミリ弾は南雲の頭に命中することはなかった。
南雲が腕を上げたことで、頭の前に障害物ができた。
「クソいてぇ」
それは、わずか数ミリの差だったのかもしれない。
だがその一枚、隔てた腕の壁が、生と死の境を分けた。
弾丸は南雲の上腕を抉りながらも、
脳を貫くはずだった軌道にずれを生じさせた。
南雲が走った。
「我要开枪打司机!(ウォーヤオ カイチャン ダー スージー!)」
銃口の先が南雲から運転手に移った。
南雲の脳裏に過去の記憶がフラッシュバックして、
胃の内容物が逆流する。
南雲は真っ白になった世界を走った。
「先輩! 伏せて!」
H&K P2000。の銃声が響いた後に、ベレッタM84の銃声が轟いた。
伏せようとしない南雲の頬を切った、
結城の弾丸が犯人の右目を押しつぶした。
「可恶……」
脳を損傷してもなお犯人は喋るが、ふらふらと倒れた。
犯人の死体に足を取られた南雲が転倒する。
心臓を押さえて、悶える南雲の背を結城がさすった。
「運転手は無事なのです! 安心してください!」
吐しゃ物と血液の混じった異臭の中、
結城は躊躇なく膝をついた。
膝が、まだ温もりの残る液体に沈む。
靴の裏から、ぬるりとした感触が這い上がってくる。
それでも結城は南雲に寄り添った。
「
「大丈夫」
結城は一言呟き、南雲を包み込んだ。
背後から伝わる暖かな感触が南雲の色を失っていた世界に、
ひとつ、またひとつ──彩られていった。
「すまない」
「犯人を制圧したのです。人質をどうやって脱出させるのですか?」
「人質はそのままだ。犯人を脱出させる」
「へ?」
「所轄がホイール式トラクターを手配している。爆弾は犯人の体にあるからな。犯人さえ外に出してしまえば人質は全員助かる」
「ダメです! 八十キロを下回ったら爆発すると言っていました!」
「……九条。問題発生だ」
ホイール式トラクター。
金属のがっちりした車体に、
キャタピラではなくタイヤが装着されている工事車両だ。
フロントには人が四人くらいすっぽり入るシャベルのようなアームがついており、掘る押す運ぶの三役を悠々とこなす鉄の猛獣だ。
爆発から運転手を守る猛獣に問題が一つだけあった。
最高速度は特注品で、七十キロだ。
観光バスに追いつくことはできないだろうと南雲は考えた。
『八十キロ以下になったら爆発する仕組みなのか。威力はどうだ?』
「プラスチック爆弾。おそらく二キロだ。乗用車なら跡形も残らないぞ」
『所轄と特命室の全員で、信号の操作と交通規制をやっているが、限界だ。渋滞と混乱で使える道が消えつつある。街中で爆破するしかないな』
「全員の首が飛ぶぞ!」
『民間人に被害が及ぶ場所で爆破したりはしない。リスクは警察が負わないと、な。警視庁の地下駐車場までのルートは確保している』
「総理がいるってことを忘れてないよな?」
『なぁに暇を持て余してる総理のことだ。刺激的な体験に感激するだろうよ』
観光バスが八十キロを超える速度で、
ゆるやかなスロープに突入する。
壁が迫る。
N-ONEが警備員の詰所をぶっ壊して、
無理やり観光バスの真横を走った。
「九条! 受け取れ!」
南雲が犯人を窓から押し出した。
犯人がN-ONEの屋根に落下する。
観光バスがハンドブレーキを引いて、
足元のブレーキペダルを力任せに踏み込んだ。
タイヤが地面を引き裂くような音を立て、車体が横滑りする。
壁が犠牲になって、巨体を止めた。
N-ONEはブレーキペダルは踏まなかった。
ハンドブレーキとハンドルの回転だけで車体を曲げて車体を空中に浮かせる。
壁を避けたN-ONEが署員の車が止まっている駐車場を飛翔していた。
空気に押される犯人もフロントガラスに熱烈なキスをしながらN-ONEとともに飛翔していた。九条がGに逆らって、車内から出る。
コンクリートの床を九条が転がった。
空気に蹴られ殴られる九条を所轄の刑事が受け止めた。
九条の目に退避する警察官とコンテナが映った。
「頼む」
九条が祈る。
コンテナには土嚢が敷き詰められている。
中央にはN-ONEが入る空間があった。
コンテナとコンクリの床を繋げるように、
ボルトが打ち込まれている。
爆発を封じ込めることはできないが、
破片からは守れるかもしれない。
そんな拙い防爆コンテナに命を預けた、
九条と退避する警察官が息をのんだ。
「結城! 顔を出すな!」
「あたしのN-ONE!」
オレンジ色に光ったと同時にN-ONEがコンテナの中に入った。
ボディが歪み、タイヤが宙を舞い、
車内の空気が爆風で一気に押し出される。
一泊遅れて――ドォンッと轟音が鳴り響いた。
破片が土嚢を貫いて、土を外に押し出す。
車体を包み込んだ炎を弱らせた。
「消火、急げ」
「はい!」
消火器のノズルが車体の下に向けられ、
粉末が勢いよく噴射される。
炎は一瞬引いたかと思えば、再びフロントを舐めるように広がる。
「まだくすぶってるぞ! 下っ側に回れ!」
警察官が叫び、仲間と交代しながら噴射角を変える。
数十秒後、火はついに沈黙し、
N-ONEは焦げた残骸だけを残して静かになった。
「南雲……死者はいるか?」
「軽傷者は多数だが、全員無事だ。彼に感謝しないとな」
「警察を代表してお礼を申し上げます」
九条が敬礼をする。
南雲と結城も続いた。安堵と照れ臭い感情が入り乱れるバスの運転手がふらふらと乗降ステップを下った。九条が支える。
「係長。犯人を射殺――」
「犯人の死因は自爆だ。射殺じゃない」
九条が結城の声を遮って、明言した。
公式の記録に射殺ではなく自爆と書かれる。
そう理解した結城が反論しようとするが、南雲が口を塞いだ。
「むぐ」
「正しさだけでやっていける組織じゃないんだ。新人」
「か、管理官!」
所轄の刑事がざわめいた。
「上の名前も分からないのか?」
「失礼しました!」
黒塗りのセダンから管理官が降車する。
バスジャックの最前線にいた刑事たちが一斉に敬礼をする。
管理官が現場に立った瞬間、騒がしかった現場が嘘のように静まった。
指揮権を持つ者の背中に、人は自然と従う。
そんな空気が、そこにはあった。
九条の前に立った管理官は、低く、
だが有無を言わせぬ口調で問いかけた。
「三の可能性は消えましたね」
「香坂管理官は三がお望みでしたか?」
「その発言は聞かなかったことにしましょう。我々に残された選択肢は一つだけになりました。ビルを見つけ、阻止する。失敗すれば警察は終わります」
「どういう意味ですか?」
「言葉の通りですよ。電話がありました。犯人の試算では十万人が死ぬ」
「……虚偽の可能性が高いと考えます」
「わたしも最初はそう思いましたよ。ですが、相手は試算だけでなく、住所まで提示してきた。そこにあったんです。
QRコードが印字された可搬式小型核爆弾。『同じものを都内のどこかに仕掛けた』と書かれた置き手紙。笑えない冗談でしたよ」
「科捜研の結果は出ていますか?」
「警察には調べる手立てがない。秘密裏に自衛隊が米軍に協力の要請をしている。現状、本物と断定はできないが、高線量の放射線が検出された」
「テロの規模が大きすぎる」
「ポータル核弾頭が発見されたアパート周辺を所轄に調べさせているが、犯人の手掛かりは発見されていない。九条警部、樹霊会の残党は本気で変えるつもりだ」
「バスジャックの犯人は血牙幇(シュエヤーバン)のメンバーです」
「傭兵部隊の黒牙(ヘイヤ)を飼ってる連中が関わっているとは考えたくはないな」
「柊楽響也が関与している可能性もあります」
「柊楽、か。九条警部これから捜査会議を行う。すぐに来い」
「被害者の救護が残っています」
「消防庁には連絡済みだ。それに所轄も大勢いる」
「……はい」
けがの治療も汚れを落とすこともできないまま九条と南雲そして結城が捜査本部に入った。捜査員が心の中で敬礼をする。
三人が席に座ったことを確認した、管理官がテレビ電話を繋げた。
プロジェクターが専門家を映し出す。
「This is Emily from the Nuclear Emergency Support Team. I'm here to provide assistance. Please stay calm and listen carefully. The portable nuclear device received from the JSDF is real」
「日本語でお願いします」
「えいごが分からないのですか? NESTのエミリーデス。にっぽんの軍隊からもらった情報とQRコードみた。小さい核へいきは本物。支援しろ命令あった」
「NESTって確か核専門の特殊処理部隊だよな?」
「ああ。米軍じゃなくて政府の部隊が正式に来たってことだ」
南雲と九条の会話が耳に入った、捜査員にどよめきが走った。
政府の部隊が動いたということはアメリカが本物だと認めたことになる。
「絵空事じゃなかった」
「自衛隊の爆発物処理班が展開できるように、自衛隊上層部と政府が協議しているが、期待はできない。防衛大臣もその他の主要な大臣も全員、人質だ」
ザッ、と捜査員の一人が立ち上がる。
全員の視線が一点に集まり、誰もが言葉を失った。
会議室の時計の針の音だけが、異様に響いていた。
「処理はNESTが担当するのでしょうか?」
「日本政府の正式な要請がなければNESTは動くことができない。専門家としての意見を聞く。これが現状できることだ。よって処理は警視庁の処理班が担当する」
結城以外の捜査員が全員、絶句する。
警察が対応している爆弾は個人でも作成可能な簡易的な爆弾だ。
軍事目的それも戦略レベルの爆弾を処理する能力はない。
「警察がたんとうするのですか! 液体窒素で、こおらせて安全なんてチルドレンだましな方法はつかえない。運よくドンってするユニットは無力にできても核のはんのうは無理デス。運がない人がやったら誤さどうで、ドンデス」
「……見つけても解除できる可能性はないに等しい」
沈黙に耐えられなかった捜査員が声を荒げた。
「ど、どうすることもできないということですか!」
釣られるように他の捜査員も立ち上がる。
「本物かどうか判明したわけではない。NESTチームの現地到着も、詳細分析の開始時期も未定だ。ただし、二日以内には到着できるよう手配するとの連絡が政府から入っている。エミリーさん、必要な分析の日数を教えてください」
「さっきエミリーさん、本物って言っていたのです」
「政府からはまだ不明と聞いていた……分析が終わったのですか!」
「ぶんせきやってない。QRはほんものデス、到着したらすぐぶんせき開始デス」
「犯人が提示した猶予は三日だ。内閣の意思決定を事実上無効化し、アメリカの介入を遅らせる狙いだとすれば、本物はない可能性も残る……祈るしかない」
「あったら、どうするつもりなんです! 犯人は樹霊会の残党です!」
「もちろん。あると仮定して捜査する。動かしても爆発しない仕組みだとすれば海上に運び、爆破処理することは可能だ。その時間も見越して見つけなければならない」
「不可能ですよ! ヒントも教えてくれないのに、どうやって見つけるんですか!」
「香坂管理官。ヒントがないのですか?」
真っ青になった九条が恐る恐る尋ねた。
ノーヒントで見つける場合、監視カメラを手当たり次第に調べ、
犯人の関係者らしき人物を見つけなければならない。
その後、無数の関係者らしき人物の行動を一つ一つ辿る必要があった。
この方法で、タイムリミットも分からないのに、
探すなど不可能と九条は理解してしまった。
「そうだ。爆発の十分前に教えると犯人がふざけたことを言っているんだ」
「戦術レベルの爆弾ならどっかの軍から盗んだってことになるのです。公安とかCIAなら知っているのではないのですか?」
「公安は知らないだろうな。CIAは出所くらいは知っていてもおかしくはないが、あっちはあっちで動くはずだ。情報は下りてこない」
「CIAに丸投げもあるのです」
「……東京が止まったら、日本の主権はどうなる?」
「はい?」
「結城。空白地帯になった日本を望まないとも限らないってことだ」
南雲が言わんとしたこととは違うが、
世紀末を思い浮かべた結城が固まった。
「南雲巡査部長。新人の教育はしっかりとな。ヒャッハーな世界じゃない」
「よかったのです!」
「……過労でおかしくなっているのか。結城巡査、休め」
九条と南雲はバカなだけですという言葉を飲み込んだ。
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