第六話「銭湯」

 警視庁の廊下の突き当たり。

 そこに、小さな休憩スペースがあった。

 白っぽい床にスチール製の長イスが三つ、壁沿いに並べられている。

 壁には東京都のイベントポスターが何枚か貼られ、

 その下に古びた自販機がどっしりと居座っていた。


「結城はオレンジジュースの方がいいか?」

「あたしもブラック飲むのです!」


 自販機には缶コーヒー、スポーツドリンク、変わり種のとろろ昆布茶も並んでいて、いかにも警察って顔をしてるラインナップ。

 南雲が缶コーヒーのボタンを二回、

 昆布茶を一回押してがこんと出てきた、缶を取り出した。


「落ち着く。この香り、やっぱり好き。安心する」


 九条が静かに缶を持ち上げ、プルタブに親指をかける。「カシュッ」と音が弾けた瞬間、昆布の香りがほんのりと立ちのぼる。


 九条が一口飲んだ。

「熱すぎず、ぬるすぎず──ちょうどいい」


 南雲が今度は結城に缶を投げた。

 結城は胸を張ってプルタブを開け、豪快に口へ運んだ。


「に゛、にがいのです」

「やっぱ無理か」


 自販機の横にはゴミ箱と紙コップ式の給茶機。

 南雲がボタンを押した。

 カップがカシャッと落ちてきて、

 お茶が注がれるあの懐かしい音が響いた。

「お茶飲む?」


「お茶飲む。はぁぁぁぁぁ日本人はやっぱりこれなのです」

「舌がおこちゃまなだけだろ」


 休憩室は、昼間よりもどこか静まり返っていた。

 照明は天井の蛍光灯ひとつだけ。

 ジジ、と音を立てながら、白い光が狭い空間をぼんやりと照らす。


 南雲が缶を傾け、苦みの強い液体を口に流し込む。

 時刻は夜の九時だ。まぶたの裏で渦巻いていた眠気が、

 苦味に引き裂かれていく感覚。


 南雲はわずかに目を細め、吐息とともに、短く呟いた。

「相変わらず、効くな」


「南雲。あかりちゃんのことはどうする?」

「今日にでも名古屋に連れていくつもりだ」

「先輩、子持ちって言ってたの思い出したのです」

「ああ、来年高校生になる娘が一人な」


「大阪の榊原さんを手伝うってことにして、申請するよ」


 そう言いながら、九条が両腕をぐいっと頭の上に伸ばし、

 背筋を鳴らすようにのびをする。


 東京都内の捜査ならある程度の融通が利くが、地方に行く場合の越境捜査はその地方を管轄する大阪なら府警に申請しなければならない。


「頼む」

「ああ。今のうちに南雲と結城は汚れを落としに行ってこい」


 九条が銭湯の回数券を財布から取り出した。

 警視庁の近くにある銭湯の券だ。


「係長も髪がちりちりになっているのです」

「へ?」


 事件のことが頭から消えた九条が髪をなぞった。

 指が、引っかかる。

 焦げた臭いと、パサついた感触。

 鏡もないのに、九条は悟った。

「終わった」


「毛先が二、三センチ焦げてるが、まぁ、切れば済む話だろ。な?」

「先輩ってフォローが下手なのですね」


「ちょ、ちょっと待って、なにこれ……え? うそでしょ?」

「しっかりしろ。九条!」


「これだけ不規則なちりちりを切りそろえて、姫カットは絶望的なのです」

「九条のメンタルHP赤だぞ! 会心の一撃は冗談じゃ済まなくなる!」


「係長ってどうして姫カットが好きなのです?」

「結城なにも言うな! 怒った九条はちょう怖いんだぞ!」


 焦げた毛先を指でつまんだまま、九条は動けずにいた。

 強気な表情はとうに消え、代わりに──かすかに潤んだ瞳が、南雲を見上げる。

 すがるような視線。

 南雲は言葉を欲していると理解はするが、

 南雲はきざなセリフが言える男じゃなかった。


 困惑して口を開けない南雲に代わり、結城が口を開いた。

「……先輩のタイプを知りたいのです!」

「頭にウジでも湧いてんのか?」

「答えてください」


 結城が迫る。

 真剣だった。からかいの気配など微塵もなく、

 瞳の奥にはまっすぐな意志の光が宿っていた。


 ほだされた南雲がつい口を開いた。


「凛としてて、ブレない子が好き。あえて言うなら、和の姫っぽい感じ?」


「あえてってことは別に和の姫そっくりな見た目の子が好きってわけじゃないのですよね。雰囲気とか心構えが凛としててブレない子が先輩のタイプなのです!」


「今、聞くことじゃないだろ。九条のメンタルを回復させないとやばいぞ」


 急に立ち上がった九条が自販機の前に立った。

 九条は黙ったまま、迷いなく選んだ。

 缶コーヒー。南雲が毎日飲んでいる、ブラック。

 ボタンを押す指に、ほんの少しだけ力がこもっていた。


 ガシャン、と缶が落ちる音に被せて、九条は自分に小さく舌打ちをした。

「勘違いか。ずっと姫カットにしてたのに……バカみたいだ」


「九条?」

「ほら。どうせこれしか飲まないんでしょ」


 九条がそれだけ言って、すぐに目をそらす。

 いつもなら冗談をつけ加えるのに、今日はそれすらない。

 ただその横顔に怒ってるような、でもどこか照れているような、

 不器用な空気だけが残っていた。


「一本で十分――」


 その言葉が南雲の口をついた瞬間、結城がそっと前に出た。

 滑らかな指先が、迷いなく南雲の唇に触れる。

 囁くような声だった。


「やぼなのです」


「助かる。運転のお供に眠気覚ましが欲しいと思っていたんだ」

「係長も銭湯に行くべきなのです! あたしが切ってあげます」

「私は申請が終わったら行くよ」

「一緒に行くのです!」


 最悪なタイミングで、

 缶コーヒーを買いに来た管理官が眉間のしわをもみほぐす。


「はぁ。九条警部、申請はわたしがやっておくから行け。耳障りだ」

「ありがとうございます」

「礼はいい。静けさを取り戻したいだけだからな」


 休憩スペースの隅。

 椅子に腰を下ろした管理官は、

 指先でプルタブを立て静かに「カシュ」と開ける音だけを響かせた。


 傍から見れば、ただ缶を開けただけなのに。

 そこには場の空気すら変える大人の余裕があった。


 結城が管理官のものまねをして言った。

「惚れるなよ」


「それはない」


 青筋が、こめかみにひと筋。

 管理官のこめかみに浮かぶ血管が、

 己の未熟さを嘲笑っているかのようだった。


 怒りはある。苛立ちも、呆れも。

 だが、それを見せたら終わりだ。

 管理官は心の中で言った。

「大人とは、こういう時に笑える奴を言うんだろ?」

 管理官は自分に言い聞かせながら、口角だけをわずかに持ち上げた。


「南雲巡査部長! ご家族が来庁されています。至急ご対応をお願いします」


 管理官が口を開きかけた、その瞬間だった。

 廊下の奥から、職員の声が響く。

 南雲が振り向くと、影が一つ。

 職員が小さく手招きしていた。


「来るように連絡していたのか?」

「してない。急に来たんだ」


 南雲と九条がロビーへ急ぎ、

 結城も置いていかれまいと小走りになる。


 取り残された管理官は、長く握っていたせいで手の体温を吸った甘いコーヒーを口に含んだ。胃の奥が重く、思わず手でさすった。



 ロビーに足を踏み入れた南雲の姿を見つけるや否や、

 あかりがぱっと表情を輝かせた。

 そのまま駆け寄り、勢いそのままに南雲の胸へ飛び込む。


 南雲は思わずよろめきながらも、

 その小さな体をしっかりと抱きとめた。


「お父さん臭い。それにここ、破れてる。そろそろ新しいの買ってよ」


 眉をひそめながらも、あかりは南雲を押しのけず、

 その腕の中にとどまっていた。


「忙しくて洗う暇がなかったんだよ」


 バスジャックでついた汚れは拭き取られていたが、

 衣服にはまだ微かに臭いが染みついていた。


 あかりは破れ具合を確かめるように、

 父親のスーツの袖口をそっと引っ張った。


 引くたびに「ぶちっ、ぶちっ」と音がして、

 そのたびにあかりの胸の奥がざわついた。


 ふと、テレビに映った父親の姿が脳裏をよぎった。

 バスジャックの現場で険しい顔をしていたあの表情と、

 背中にまとわりつく緊張感。

 その記憶が、今の音と重なり合って離れなかった。


「小学生?」


 結城はゆっくり腰を落とし、

 あかりと視線の高さを合わせた。


「来年高校生になります。お姉さんはパパの同僚ですか?」

「そうなのです」

「本当に同僚なんだ。若くて捜査一課なんて、すごい! 憧れちゃいます」

「先輩に似なくてよかったのです! 天使みたいなのです!」


 結城は、口元を緩めると、そのままあかりを両腕で包み込んだ。

 抱きしめた勢いのまま頬をすり寄せ、「かわいいのです〜」と囁く。

 あかりの髪がくすぐったく頬をかすめ、ほのかにシャンプーの匂いがした。


「背、伸びたんじゃない?」


 九条が声をかけると、

 あかりの顔がぱっと明るくなった。


「九条さん!」


 あかりは弾かれたように駆け寄り、

 九条の胸に飛び込んだ。


 あかりを抱きしめていた結城の腕の中が、ふっと軽くなる。

 視線をやれば、九条の腕にすっぽり包まれたあかりが、

 満面の笑みを浮かべていた。


 結城は「え?」と小さく呟き、

 取り残された両腕を半端に宙に浮かせたまま固まる。


 さっきまでのぬくもりが消え、

 胸の奥に妙な空白がぽっかり広がった。


「寂しいのです」

「あかりにとって九条は、親戚のおばさんみたいなもんだからな」


「……おばさん?」

 九条の眉がぴくりと動く。


 南雲は一拍置いて、

 視線をそらしながら短く言った。

「すまん」


「あかりちゃんと仲良くなるために銭湯に行くのです!」

「結城には言いにくいんだが、あかりはもう風呂済ませちゃってる時間だな」

「九条さんも行くの?」

「ああ。結城にちょっと髪を整えてもらう予定だからな」

「九条さんが行くなら、あかりも行きたい!」

「二度風呂なんてしたら、風邪ひくぞ」

「パパ、お願い!」


 あかりはぱっと両手を胸の前で合わせ、体を少し前に傾けた。

 上目づかいでぱちぱちと瞬きをしながら、

 頬をほんのり染めて声を弾ませる。


「しょうがないな」

「え? ダメって言うと思ったのに、意外なのです」

「南雲は娘には甘いからな」


 警視庁から歩いて十分ほど、

 路地を抜けた先に白梅湯しらうめゆはあった。


 木造二階建ての古びた銭湯で、

 瓦屋根の端には黒い鬼瓦が睨みを利かせている。


 入口の上には、白い梅の花が染め抜かれた暖簾のれんが風に揺れ、

 その下からは湯気と石鹸のやわらかな匂いが漂っている。


 軒下には小ぶりな提灯が二つ、夜になるとぼんやりと赤い灯りを落とす。

 入り口脇には大きな鉢植えの白梅があり、

 冬の終わりには甘い香りを放って客を迎える。


 暖簾をくぐれば、

 番台のおばちゃんの「おかえり」という声が必ず聞こえてくる。

 そんな下町の銭湯だ。

「今日はタダでいいわよ」


 番台のおばちゃんが、

 親指をぐっと立ててテレビの方を指し示した。


 テレビにはハイジャックされたバスに入って、

 犯人に突っ込む南雲と、

 その背後で拳銃を構える結城の静止画が映っていた。


 映像の中の一コマだ。

 映像は手ぶれがひどく、

 顔を知っている者でなければ判別できないほどだった。


「自爆したなんて、よくそんな話を信じろと言えますねぇ。映像を見れば一目瞭然、引き金を引いてるじゃないですか」


 番台のおばちゃんがテレビを切った。

「陰謀だの捏造だのって、ほんとマスコミって適当よね」


「陰謀って話があるのです?」

「日本を乗っ取るために、大国が裏で糸引いてるって話もあるのよ。警察の幹部が資産を金とドルに換えてるって話もあって、怖いねぇ」


 番台のおばちゃんの口ぶりからして、

 核に関する情報はまだ外には洩れてはいないらしい。

 銭湯の中にも、緊迫感やざわめきといった混乱の色は見受けられなかった。

 混乱しているのは金融と株の世界で、日常は保たれていた。


「あからさますぎる。情報を知らされてない警官だって感づく」


 九条が、唇の端で毒を吐くように小声で言った。


「……そのうち、本当に東京から出られなくなるぞ」


 警察幹部たちは、資産を金とドルに換え始めていた。

 そんなあからさまな動きを見れば、情報を知らされていないはずの警官たちも、いずれ感づく。警官が一斉に逃げ出せば、マスコミだって異変に気づく。


 そうなれば、未曾有のパニックは避けられない。

 しかも、その場に警官がいなければ誰も止められない。

 犯人のたった一声で、

 均衡は簡単に崩れる状況に南雲と九条が舌打ちをする。


「パパ?」


 不安げに眉を寄せたあかりが、

 そっと南雲の袖をつまむ。


 娘を東京の外へ出せる幸運が、

 今の南雲には喉に刺さった小骨のようだった。


 番台のおばちゃんになにも言えない。

 そんな迷いを悟らせまいと、南雲が笑みを作った。


「大丈夫だ、ちょっと仕事で疲れてるだけだよ」

「……パパ、いなくならないでね。約束だよ」


 あかりは、昔の南雲がそうだったように、誰かのために自分を犠牲にしてしまう、

 その危うさを肌で感じ取っていた。


 あかりにとって南雲は、世界でただひとり残された家族だ。

 南雲の袖を掴むあかりの指先に、ぎゅっと力がこもっていた。


「約束だ」


 南雲はあかりの髪をそっと撫で、

 穏やかな笑みとともに静かに答えた。

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