序幕『それは昏く美しい光』②
扉をくぐると、閉じ込められて冷たく湿った空気が肌に触れた。外とは異なる大気がうっすらと漂っている。それに混ざってかすかな鉄臭がした。背筋を滑り落ちた冷気に、青年は思わず身震いした。
小さな扉──隔離牢獄への連絡通路を通ると、鉄格子が見えてくる。閂や南京錠では飽き足らないらしい。頑丈なそれが囚人を守っていた。
徹底ぶりに戸惑いながら、将校について歩いてきた青年はぽかんと口を開け放っていた。将校が鍵を開けていくのを待ちながら、うそうそと落ち着きがない。
独居監房は不気味だった。
暗くて湿っていて、音一つない殺風景な空間に錠前が外される無機質な動作が重なって、薄気味悪いばかりである。
やがて最後の鍵が開いた音が低く轟いた。
「此処だ」
将校は入牢を促した。
青年は自分が面会をしている間は鍵を一つだけ掛けておくという条件に合意して、鉄檻の中へと足を踏み入れた。
そこは連絡通路の先の地下牢だった。天井の隅を仰ぐと、冷たいコンクリートの打ちっ放しで、一筋の日の光さえ届きそうになかった。
照明はなかった。青年は将校から蝋燭の入ったランプを借りた。
鍵が閉まる音に続き、将校が退出する足音が遠ざかっていく。
じめじめとした空気にランプの光をかざして、青年は暗闇に浮かぶ影に近付いた。黒洞々たる闇の中、懐かしい姿がそこにはあった。
美貌の青年公爵。
魔性のように美しく深遠で、人の匂いがしない人だった。
端正で氷の彫像のような麗貌は見る人全てに恐怖そのものを彷彿とさせる、不吉な冷たさに包まれている人だった。
初めて会った時は青年も、その黒緑色の髪と深海色の瞳の深遠な美しさや、一度も日に当たったことがなさそうな白い肌、美神のような美貌と整った長躯を前に限りなく恐怖に近い感情を抱いたのを覚えている。
仮に悪魔というものが存在するのなら、創造主はこのような姿を与えるのだろう。見る者にそう思わせるほどの剥がせない美の仮面の持ち主であって、美という異形に生まれついた者であった。
だが今は違っていた。面影こそあったものの、変わり果てた姿に青年は息を飲んだ。
目の前の彼は力なく体重を壁に任せて座っていた。床に投げ出された長い脚には重い足枷が、細く綺麗な手には堅固な手錠が掛けられている。指輪に彩られていたはずの骨細な指は全て指錠で固定され、口元はきつい拘束具で覆われていた。
目隠しの布まで巻かれていて、青年の来訪を知る由もなく、近付いてきた足音に耳をそば立てているようだ。
何かの際に怪我をしたのか、それとも暴行されたのだろうか。
牢に入ったとき、鼻先に血の臭いがぷんと漂ってきたのを思い出す。
彼、改め友人は酷い出血をしていた。体中が錠と拘束具だらけだったが、雑な手当てのあとが窺える。
血の染み込んだ包帯。滴る赤が透けるような肌に映えるのが、何とも切なく、心苦しかった。
銀髪の青年は友人の目隠しを外してやった。外が見れるようになった友人は髪と同色の艶やかで長い睫毛を数回瞬かせる。銀髪の青年を見るなり、鋭い目をぱちくりさせた。
ランプを足下に置くと、銀髪の青年は手の中から鍵を一つ取り出した。入牢を許可した将校から預かった、友人の閉口具の鍵であった。
小さな鍵穴にそれを差し込んで回せば、錠前が床に落ちて、閉口具は外れた。
友人は冷たい空気で肺を満たしてから、唇の端に笑みを浮かべた。小さく息をついて、長い睫毛をそっと伏せる。
「…………やあ、お前か」
友人は別段嬉しそうにもせず、口元に笑みを刻んでいるきりだった。
「……何してんだよ、コラ」
気持ちとは裏腹な質問が口をついて出る。
友人は静かに応じた。
「聴いていたんだ……最期の鐘の音」
「んなもん聴こえねーよ、バカ」
「自分で訊いたくせに……」
友人は呆れたように溜め息をついた。
銀髪の青年は眉間に皺を穿ったまま、座ったままの友人を見下ろした。やがてへたりこむように友人の向かい側にしゃがみ込むと、血まみれの美貌をまっすぐ見つめる。
染めるのは彼自身の血だった。かつては返り血でその全身を朱に染めていた男の最期が自らの血での水葬だと思うと、神は存在するのかもしれないと、無神論者のくせについつい思ってしまう。
銀髪の青年が居たたまれない思いで手錠の掛かった細い指に触れると、冷たさが指先に染み込んだ。凍えた指先を温かい手で握りしめて、青年は呟いた。
「何で捕まってんだよ……お前なら逃げられんだろ……?」
友人は何も言わずに俯いている。目は虚ろに開いたまま、青い瞳は閃かない。
曖昧な態でいる友人の真意が掴めず、複雑になった感情が絡まっていく。
銀髪の青年は怒鳴っていた。
「黙って殺されるってのか!?」
気付けば友人を連れて逃げようと、彼の細い手首を乱暴に引いていた。
しかし、細い長躯は彼本来の体重より遥かに重く、動かない。
薄暗くて分からなかった。手枷と足枷だけだと思っていたら、手錠には長い鎖がついていて、その先の闇に繋がれた鉄球がぼんやりと沈んでいた。足も同様である。
「いいんだ。僕はもう疲れたから」
†††
逃げることは、叶わなかった。
掴んだ手からは自然と力が抜けた。手を離すと鎖が床を叩くやかましい音が続いた。
「お前……」
かさついた唇は上手く言葉を紡げない。呆然としたまま、暫し沈黙を強いられる。
友人は言葉を次いだ。
「……やっと僕は終われる。誰かに絶望するのも、自分に苦しめられることも」
迫りくる死を前にしながらも、友人はひどく穏やかに構えていた。遠い目をして誰の目にも見えない世界をぼんやり眺める姿には、恐怖を覚えているようには感じない。
取り乱しもしない友人に対して、その友人、銀髪の青年は避けられない絶望に涙を浮かべていた。
囁くように紡がれる言葉に痛々しく胸を引き裂かれ、気がつかないうちに頬が涙で濡れていた。
どうしてこの美しいひとはこんなにも残酷で、それだけで人を殺める毒を囁くのか。
なおも友人は遠い場所を瞳に映して微笑んでいる。銀髪の青年にはきっと分からない、何処か遠い所を。
「良かったんだよ、これで……」
友人はずっと合わさずにいた目を青年に向ける。銀髪の青年が泣いているのを見て、くすくすと笑い出す。
「何、泣いているのさ」
「バカ、泣いてねえよ」
目の回りの黒が少し滲んで、頬に黒い筋を残している。
銀髪の青年はしゃがんでいた場所に座り込んで、ごしごしと頬を擦った。
その様子を見て、友人は場違いなのにも気にせず、笑みを絶やさない。
「泣くと化粧が落ちちゃうよ?」
「うるせー、黙れよ」
「変な顔」
「うるせーっつってんだろ……」
目の周りを飾る化粧を気にしつつ、銀髪の青年は大人げなく怒鳴り返す。
いつものように、今までのように。
寂しく悪態をついて、鼻をすすった。
「うるせえよ、バーカ」
他愛ない会話。こんなやりとりがどういう訳か今は愛おしくて仕方がない。
友人は長い睫毛を伏せてくつくつ喉を鳴らすと、あまり自由の利かない手を何とか伸ばして、銀髪の青年の癖の強い長髪に触れた。
まるで聞き分けの悪い子供に言い聞かせるような口調で語りかける。
「ほら、男の子だろう? 泣かないの」
「うぜえな、この野郎……」
どうにか涙を抑えて、強がりを言う。優しく触れてきた友人の骨張った手を払いのけた。
友人はやはり笑っていた。錠と鎖で重い手を床におろして、銀髪の青年を楽しそうに見つめていた。
銀髪の青年は唇を噛んで言葉を失っていた。口を開こうとすると、念頭には思いとは裏腹な雑言ばかりが浮かんでくる。
青年は友人の襟首を掴んでいた。涙が伝うのも忘れ、面前にある仮面めいた友人の顔に迫る。流れた涙が一滴、友人の白い頬に落ちる。
「……死んじまえ、お前なんか」
「…………そうだね」
はっとした。
友人は薄笑いを浮かべていたが、言ってはいけない言葉だったと後悔した。
自分は動転している。さっと頭が冷えた瞬間、銀髪の青年は思った。自らの失言にぞっとしたのも束の間、嫌になるくらい血の気が引いていくのが分かって、取り繕う言葉さえ出てこなかった。
自分は友人を救えない。
死そのものは恐怖でも何でもなかった。ただ、たった一人の友人の死が、この上ない恐怖で、悲しかった。
仲間で、親友で、兄弟。
それなのに、今日彼は死ぬ。得体の知れない正義に殺されてしまう。救うことが叶わないことで、青年の正義は折れたのだ。
襟首を掴む手に力が籠もる。残酷な無常感に打ちひしがれて、頭の中が白んでいく。
「……構わないさ」
考えていたことが顔に出ていたらしい。友人は気を遣った一言を呟いた。
力の籠もっていた手から力が抜けて、腕がだらりと垂れる。
「……悪り」
「だからいいってば」
一拍の間をおいて、友人は続ける。
「僕は……人殺しだから仕方ないさ。僕が死ねば喜ぶ人がたくさんいる……気にしなくていいよ」
「……俺は泣いちゃうぞ」
「もう泣いてるじゃないか」
「喜ぶ人がたくさんいる? 殺してやる、そんな連中俺がブチ殺してやる」
血走った碧眼から大粒の涙が流れる。やりきれなさに言葉が詰まり、噛みしめた前歯が唇に刺さる。
銀髪の青年は大きな存在を失ったばかりだった。その足でこの街へ駆けつけた。
これでやっと見つけた親友まで奪われてしまったら、これ以上自分に何が残るというのだろう。
きっと何も、残らない。
銀髪の青年は力なく片手を床についた。ばさりと落ちた長い髪の間で、碧い瞳が不安げに影色を滲ませる。
震える口元から、心許ない声が漏れた。
「……お前がいなくなったら……俺は、俺は何を信じて死に損ってりゃいいんだよ……?」
「……いいかい?」
諭すような心地よい低音が高ぶった気持ちをなだめる。穏やかすぎる声音からは微塵にも死への恐れは感じ取れない。
自分は死の淵にありながら、友人を案じて、優しく囁きかける。
「……お前は永遠を生きなければいけない、望んでいなくても。そうだろう? でも、この瞬間も永遠なんだよ。例え短くても、共有した時間は永遠なんだ。だから僕たちはこれきりじゃあないんだ」
謳うような言葉に目を見張る。
「……何だよ、それ」
「いいから聞くんだ」
滴り落ちた涙がコンクリートの床に染みを幾つもつくった。
顔を上げるとすっかり涙で地崩れを起こした青年の表情に、友人は可笑しくなって吹き出したが、すぐに改まる。
銀髪の青年は慌てて涙を拭うと、友人の前に座りなおした。
元々聞き分けのいい訳ではないのだが、友人が何か大切なことを言おうとしているような気がして、化粧の滲んだ顔をつくろっていた。
友人の、手当ての施された美貌をまっすぐ見据えた。
銀髪の青年が落ち着いたのを見ると、友人はにこやかに頷く。銀髪の青年はまじろぎもせず、友人の言葉を待った。
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