La maison de noir 魔術師の柩
剣城かえで
序幕『それは昏く美しい光』
序幕『それは昏く美しい光』①
〝客が望むものを何でも売る店〟と〝店主〟が生まれる少し前のこと。
街は喪に服したように静かだった。街路の人影はまばらで、その人々も皆、下を向いてせかせかと家への道を急いでいる。
もうすぐ夜がやってくるのだ。人々に直接関係はないが、もうじきたった一人の男のために世界が喪に服すのだ。
その為だけの夜がやってくるとでもいうように、小焼けの空は遥か遠く、夜の足音はすぐ傍まで近付いてきている。
冬だった。雪の降らない、凍てつくような鈍色の空だった。このとある冬の某日は、一人の殺人鬼が、黒い英雄が、処刑される日であった。
崩れゆく封建制の中、跋扈する犯罪者の頂点に君臨していた男を、政府は十年以上追い続け、ようやく捕らえることに成功した。
その男とはタナトス、即ち死の象徴であり、その存在を消し去ることは政府・警察にとっての大きな一歩であり、平穏を愛する人々にとっての安寧であった。
何でもない人々にとって、この日はめでたい日の筈だった。
けれどもどうしたことだろうか。花の都は歓喜の叫びどころか、安堵の吐息一つさえ聞こえない。沈黙は死のように昏く、重苦しかった。
悪人が死ぬのは好ましいことに違いないが、果たして『彼』は本当に死ぬのだろうか。
そんな疑問を抱かせるほど、男の名前からは血が滴り落ちていた。悪魔を殺してしまっては何か凶事が起こるのではと、人々は思っていた。
死そのもののような冬の日。銀の長髪、碧い目の青年は拘置所の中を走っていた。その風貌からして、何処の血が流れているのかは分からないが、余所者である。
この青年はとある吉報、彼にとっては凶報だったのだが、それを受けて水の街から花の都へとやって来た異邦人であった。
前述した容姿に加えて、耳はピアスで穴だらけ。顔は化粧を施してあって、切れ長の目の縁が染め抜かれたように黒く、目の周りはぼかした紺が塗られている。どうみても素行がいいとは思えない男だった。
銀髪の青年はひた走った。暗く湿った牢獄を、乾いた足音が駆け抜ける。すれ違う人々から、嫌な緊張を感じ取れる。
一抹の不安に唇を噛むが、時間はない。人波をかき分けて走り、誰かにぶつかっても長い髪が乱れても気にかけはしなかった。
何がここまで自分を動かしているのかはよく解らなかったが、来なければいつか必ず後悔するという意識だけが、疲労で重たい脚を前へ前へと押し進めていた。
(もう少しだけ、待ってくれ……!)
心の内で誰へのものか分からない懇願をしていた。
在りもしないピアノが奏でる昏冥の葬送曲が遥かに漂い始める。今までになかった恐怖が冷や汗と共に全身から滲んだ。
ピアノの鍵盤が沈む音に混ざって、何か酷く恐ろしいものの足音が、聴こえる。
†††
青年は歯を食いしばった。付きまとう幻聴はしだいに穏やかになって、果てた。
青年が拘置所に来たのはある人に会う為であった。その人は友人だった。甘えて言えば親友かもしれなかった。
夥しい数の人間を殺し、屍を足蹴に神になった男だった。
その彼が今日殺される。今までの報いを一身に受けて、死ぬ。死んでしまう。
「何だおまえは! 今日は立ち入り禁止だぞ、今日は──」
「退け!」
目の前に立ち塞がる警官。青年は指先を拳に押し込むと、歩調も緩めず突っ込んだ。固く握った拳が役人の頬の窪みにぴたりと当たる。
転瞬、拳打された男はきりもみしながら床に転がった。
青年は男に一瞥もくれずに走った。
不審なくらい警備は手薄だった。拘置所入口で面会希望の受付をしていた者と、今斃した男の他に人は見られない。否、『彼』の元に集結しているとあらば、おかしくはなかった。
立入禁止区域に受付から侵入してから、まださほど時間は過ぎてはいなかった。青年は図らずも唇を真一文字に結んでいた。
(頼む……!)
『彼』が今日殺される。ひどく曖昧な正義の元に。何故それが赦されるのか、罷り通るのかが分からなかった。
死んだような街に着いたとき、通りすがりの者に尋ねたら、何か忌まわしいものでも見るような目で見られて愕然とした。
ただ自分は、彼のことを何も知らない人間に彼を処分する権利などないと思っていた。少なくとも自分の中では、彼は好ましい人物で、ただ一人の友人だったのだ。
侵入禁止の牢への道を探り探り走っていると、焦る視界に重い鉄扉が映った。
(あった!)
それは隔離された独居監房だった。恐らく、彼が閉じ込められている部屋である。閂(かんぬき)と南京錠が幾重にも掛けられた独居監房は洞然と重々しく、威厳さえあった。
牢に続く寒々とした一本の廊下は、両端を警備兵に固められて殺気立っている。考えなしに走ってきて足を止めた瞬間に、耳敏く立ち止まった音を捕捉した衛兵たちが一斉に青年の方を見遣る。
彼らの内に飛び入った青年の足が震えた。胸の奥で心臓が跳ねる。
周囲の刺すような視線が、息の上がった躯を射抜いた。
「何の用だ、此処は立入禁止の筈だが」
一人の将校が立ち塞がるように扉の前に立ち、冷たく質問する。巌のように佇立して青年を通さない。
青年の方はというと、息を整えながら、三白眼で将校に笑いかける。碧い瞳がさっと閃いた。場違いに悪戯っぽい声を裂けた舌先に乗せる。
「だって面会希望したら門前払い食ったんだもん。勘弁してくれや……で」
兵士たちが銃の引き金に指をかける幾つもの小さな音が、ざらりと鼓膜を撫でた。
全身からこみ上げる焦燥を圧し殺しながら、青年は将校を見下ろして言う。
「……面会に来た。あいつに会わせろよ」
沈黙が走った。
青年の言葉に警備兵たちは一様に目をしばたたき、銃口を下げる。隣の者と顔を見合わせながら、まるで青年がおかしいことを言ったのを聞いてしまったように眉をひそめる。
戯言(けげん)を吐いてしまった後のような反応に、青年はぞっとした。
それは紛れもない否定の情感であった。『彼』に関わってはいけない、『彼』の味方であってはいけない。常識のような壁が、青年と衛兵たちの間に確かに存在した。
将校は自分より背の高い訪問者を見上げ、じろじろと眺めた。一通り外見を凝視すると、
「汚い格好だな。お前、奴の仲間か?」
ぼさぼさで軋んだ長髪と擦り切れた衣服を見て、怪訝そうな眼差しが濃くなっていく。
お世辞にも品行のよろしくなさそうな顔を睨み据えて、将校は唇を結ぶ。
けれども青年は退かなかった。その場に踏み留まり、切れ長の目で恐らく二回り以上年上の将校を睨み返す。ぶつかった視線が弾ける音が聞こえるようだった。
短い眉を吊り上げて、青年は答えた。
「只の知り合いだ……」
取り合う気すらなさそうな高官に激しい苛立ちを覚えて拳を握りしめる。
黒のエナメルを塗った爪先が掌に沈んでぷつりぷつりと珠のような血が滲んだが、今の青年にそれしきの痛みは感じ取れなかった。
思うようにいかない憤りのあまり、青年は問に応じたきり何も発さなかった。青年は自分の中で何かが切れるときに自分がどうなるか知っていた。籠もった熱が零になったように、冷たく静まり返るのである。
腹立たしいお役所仕事に足踏みしている時間などないのだ。青年はその奥行きのない碧眼に絶対零度の灼熱を灯して黙りこくる。
暫くの間将校は腕を組んで黙考していたが、訪問者から何を感じ取れたのか、おもむろに鉄扉についていた小さな扉を示した。
「……そこから入れ」
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