第40話(1) リビア沖

 エジプト王国の武器庫、タップ・オシリス・マグナ神殿の襲撃から戻って、アフロダイテ号はリビア沖を西に進んでいた。


 21世紀なら、リビアと言うとカダフィ少佐とか産油国で一面の砂漠とかを想像するだろう。しかし、古代リビアは、地中海沿岸では農園が広がる緑豊かな地だった。


 先史時代にはベルベル人が居住していた。ベルベル人は、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住んでいた民族である。この民族の名称は、ローマ人による蔑称である。ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来していた。東はエジプト西部の砂漠地帯から西はモロッコ全域、南はニジェール川方面までサハラ砂漠以北の広い地域にわたって居住していた。元来はコーカソイドだったようで、アラブ人やエジプト人と似ているが、内陸部の黒人と混血もしていた。


 時代が進み、ローマ時代に入ると、地中海沿岸部にギリシャ人やフェニキア人の入植が始まり、沿岸部のベルベル人は内陸部へ追いやられた。キュレネやトリポリといった植民都市が築かれた。


 キュレネは東のプトレマイオス朝によって支配され、トリポリはポエニ戦争によってカルタゴを滅ぼした共和政ローマの支配下に入り、アフリカ属州に組み込まれた。


 紀元前46年のリビアはローマのアフリカ属領である。プトレマイオス朝の衰退により、紀元前76年にキュレネもローマ属州キレナイカに組み込まれ、リビア全土はローマ帝国領となっていた。


 アレキサンドリアとトリポリの中間地点のクーリナには、アテネのパルテノン神殿を凌ぐ規模のゼウス神殿をはじめ、アポロン神殿、円形劇場、ネクロポリス、アゴラなど多くのローマ時代の建造物がある先進地帯だった。今は、アフロダイテ号、アルテミス号は、このクーリナの東の無人の砂漠の海岸を目指している。ローマ人との悶着は避けたかったのだ。


 船は目立たないように夜間航行をしていた。ムラーの作った羅針儀など持たない他の船は夜、航行することなどないのだ。羅針儀が中国人によって発明されるのは、中国の宋代(12世紀)の頃であり、中国からマルコポーロが持ち帰ったのは13世紀末なのだ。古代ローマでは、海の上では星を見て東西南北を知るほかなかった。だから、フェニキアからローマに行くつもりが、イスパニアに着いてしまったりした。海岸線が見えない航路はまずとらなかったのだ。


 アイリスは船の中を見回りしていた。ピティアスの手下の船員共は見ていないと怠けて手を抜く。手下共から、ムラーの第二夫人とみなされているアイリスだから、ときたま、ムラーやエミーの代わりに見回りをする。


 船底でビルジ(船底に溜まる水)を掻き出す手動ポンプ操作をしている船員も無駄話で怠けていた。確かに重労働だから、たまに休まないとやっていられないのはわかる。アイリスは優しく「ビルジ水、減ってないじゃない。無駄話をしてもいいから、手を動かしてね」とポンプ要員をたしなめた。「ヘェイ、アイリス様」と頭をかいてポンプの取っ手を上下し始める。見つかったのがアイリス様でよかったぜ、と彼らは思う。


 ソフィアだったら鞭が飛んでくる。ジュリアはキックで腹を蹴るだろう。エミー(絵美)だったら怒鳴られる。アイリス並に優しい時もあるのだが。船員の間では、エミー(絵美)は二重人格と思われているのだ。事実、コーカサス娘と20世紀の日本人女の二重人格である。


 その点、アイリスは優しくたしなめる程度だ。気さくに話しかけてくれるアイリスが船員の間では一番人気がある。


 灯油ランプの燃料が切れかけているなあ、補充させないと、などと思って歩き回る。保管してある野菜、塩漬けの肉の状態を見る。


 アレキサンドリアで仕入れた野菜はまずまず新鮮だった。タマネギ・ニンニク・レタスなどの野菜、ブドウ・ナツメヤシ・イチジク・ザクロなどの果実、ソラマメ・ヒヨコマメなどの豆類など。レタス、ブドウ、イチジクは、明日食べちゃわないと。


 小麦、大麦、米の籾の入ったジュート袋に手を突っ込む。湿っていたら甲板で乾かさないと芽をふいてしまう。石臼で粉にしてしまうと長持ちしないので、籾のままで保管してある。オリーブ油や亜麻仁油、胡麻油の壺も栓をとって匂いを嗅いでみる。空気に長期間触れていると酸化して悪くなるので栓はしっかり閉めないといけないが、調理の人間がたまに栓をゆるく締めてしまうのだ。


 船員を何人か捕まえてきて、タップ・オシリス・マグナ神殿の海岸から載せてきたラクダたちに餌をやって、糞便の始末をしろと命じた。犬や猫は良い匂いだが、ラクダは臭いなあ、ゲップや屁も臭いと思う。


 明日はイカ墨パスタが食べたいなあ。今晩の内に松明を焚かせて、凪になって船が止まったら、誰かにイカ釣りをさせようかしら?それから、朝、誰かを潜らせて、船底についているカラス貝をむしらせて、アクアパッツァも作ろうかしら?などと考える。


 キャビン下の船員の住まいを覗く。船員で、病気になっている者、シラミがわいている者など、健康衛生状態を見て回らないといけない。休んでいる船員はカードゲームで暇を潰している。灯油ランプのおかげで、1日が長くなって、昼間眠くていけねえや、などと言っている。寝ている者もいた。ナツメヤシを食べている若い船員にひとつ頂戴と言って分けてもらう。その船員が木の椅子をもってきた。気が利くね。船員はアイリスの前の床に座った。部屋の奥の方のカーテンで仕切った場所から、エジプトの女奴隷のくぐもった声が聞こえた。


 若い船員が「アイリス様があの三人にエジプト女六人をご褒美で与えたもんですから、こちとらあぶれちゃって、悶々としてまさあ」とアイリスに言う。


「あら、悪かったわね。奴らがグレネードで敵を吹っ飛ばしたからだけどね。それで、こっちも命拾いできたと思いなさいな」と彼に言う。

「まあ、海賊船は女なんか乗せねえし、女奴隷がいても商売もんだからって、手をつけねえんですが、今回の航海は違いますからね」話好きの船員らしい。


「そうよね。確かに。私もエジプトから拐われてきた時の船では犯されなかったわ」

「それにね、アイリス様、今回は、あなた様、エミー様、ソフィアにジュリア、侍女四人が乗ってるじゃないですか?八人ですぜ!もちろん、この八人は手をつけられませんぜ。で、あなた様やエミー様が腰布だけで歩き回るもんだから、もうこちとら悶々ですよ」

「あら?ダメだったかしら?」

「そうですよ。今もそう」

「え?どこが?」

「椅子に座って、右脚を立て膝にするもんだから、腰布の間からあそこが丸見えですよ。まあ、好い目の保養ですがね」


 古代ローマ世界だ。21世紀とは違う。アイリスも古代エジプト娘で、別に胸をあえて隠したり(絵美様は隠すけど)、見られて恥ずかしがることはない。別に、見て減るもんじゃないと思っている。

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