閾(しきい)

寛久

第1話

「閾」≪しきい≫     寛久

ポカリと水から浮かび上がるように.意識を取り戻す.

暗い…

目を開けているはずなのに,いつも点けっぱなしの常夜灯も見えない.

再び,目をとじてみる.


暗い廊下を,早く,できるだけ早く歩く.

 両側に、白い襖が並ぶ.

試しに開けてみると、暗い空間が広がるだけ.

ひたすら、白い襖がぼんやり浮かぶ暗い廊下を歩き続ける.

襖が、ぼんやり白く浮かんで見えるのはどこかに光源があるから?

そんなことを考えながら、ひたすら歩く.


突然、右から真昼のような光が差し込む.

明るさに視界が奪われる.

闇に慣れた目には耐え切れず,思わず立ち止まる.

手で光を遮り,目をすがめながら光が差し込む方をゆっくり見やる.

畳敷きの広間の先に、板張りの廊下.そして,そのさらに奥に庭が見える.

庭は,あまり手入れされていないようだ.枯れた羊歯や,茶色に干からびた枯れ葉が,幾重にも灰色の苔の上に積もっている.

ふらふらと冷たい畳を踏みしめ,庭の方へと向かう.

まるで,灯火に、惹かれる羽虫のように.

暗いところより,明るいところのほうが安全に違いない.

そんな,半ば本能的な判断で,わたしは、また廊下を歩きだす.

どちらの方向に向かうか?もちろん,さっきと同じ方向だ.

また,足取り重く,歩き始める.

やはり,明るいほうが断然気持ちいいと,考えながら.

それにしても,果てしなく長い廊下が続く.相変わらず,右手には庭が広がる.


突然,空気が変わった.

先ほどまで,冬枯れだった木々に,今は新芽が小さくふくらんでいる.

灰色の苔の切れ目には,ところどころにフキノトウも小さく芽吹いている.

季節が変化している?

そんなことを考えながら,構わず,ずんずん廊下を歩いていく.

木々の芽がよりふくよかになり,そして,ほんのり白やピンクの色をまといだす.

しばらくすると,前方から,得も言われぬ香りがただよってきた.


と,突然,太い幹がうねうね曲がりくねった梅の巨木が現れた.

その梅の巨木は,うねりながら左右に分かれ,右側の幹には紅梅が.左側の幹には白梅が,競い立つように咲きほこっている.ああ,これは本で見たことがある.

えーぇっと,『光琳の紅梅図』.

あたりは,甘い香りに満たされている.

これは,現実?

しばし,呆然とする.

わからない.

でも,先に行こう.進まなければ,歩くんだ.

決然と歩きだす.

いつの間にか,あたりは薄墨色に染まっている.

進むにつれどんどん墨色が深まり,

ついに,黒が極まったとき,


突如として,満開の枝垂れ桜が圧巻の質感とボリュームを伴って現れた.

それは,揺らぐかがり火のあかりに照らされているかのように,淡く浮き立つように光ったかと思うと,また,赤黒い闇の陰に沈みこむということを気まぐれに繰り返している.

息をのむ.しばし,歩みを止めて見とれる.

つと,前を向く.板屏風に書かれた,青い不動尊の姿が目に入る.憤怒の顔で,こちらを真っすぐ見据えている.

なにげなく,その足元を見る.

市松模様の着物を着た人形が,後ろ向きに立っている.

人形が,居る! なぜ?

ふいに,人形の首だけがグルリとまわり「あら,みつかった?」と,しゃべる.

その瞬間,わたしは,回れ右をして全速力で元来た廊下を走りだす.

左手に,暗くなったり明るくなったりする庭の存在を感じながら.


  =================

 気が付くと,部屋の中央に炉が切られた板張りの部屋にいた.

炉の前には,着物を着た初老の男性が座っている.

足の裏に感じる無垢の床板が気持ちよい.

わたしも,いつの間にか着物姿で,裾を軽く払って,老人の斜め左向かいに,行儀よく正座をする.

「人間,金だけじゃないよ」と,その人はぽつりと言う.

そして,傍らの煙草盆を引き寄せ,キセルでその端をポンと叩く.

煙草を詰めると.一服してフー,と,煙を吐き出した.


 コレハ,ゴセンゾサマカラノ,ワタシヘノジョゲンカシラ?


  =================

 視界に入るのは和服姿の女性の腰や,ズボンをはいた男性たちの足がせわしなく行きかう様子.

目線が低い.

わたし,子供なの? そういえば,わたしの右手は,大きな手につながれている.

奥の和室には,人に囲まれて誰かが布団に横たわっている.

傍らの人が,そっと白い布でその人の顔を覆った.


 ぬかるみに草鞋を履いた足がとられ,泣きべそをかいているわたしを,こうもり傘を片手にした人が抱き上げてくれる.足は気持ち悪くなくなったけど,傘を伝って時おり肩先を濡らす雨だれが気にかかる.

 抱かれたまま振り返ると,先ほど布団に横たわっていた人が,今は布で綺麗にくるまれ地面に掘られた穴に,ゆっくりと下ろされていく.

穴の底には,雨水が少したまっている.

あの人,あんなところに寝かされて冷たくないかな,と,心配になる.

相変わらず,肩を濡らす雨だれが鬱陶しい.

じんわり,胸のあたりまで湿ってきて気持ち悪い.


  =================

 覚醒する直前の,もやもやとした,まったくもって意味が分からない物語の中にいる.

いきなり,

「   … ヲシナイト,コロスゾ」と,声が響く.


その声で飛び起きる.

首周りにべっとりと汗をかいている.

心臓が,バクバクと脈打っている.

何をしないと殺すって?

肝心なところが聞こえなかった… 

なにをしたらいいの?


ナニヲスレバ…

コロサレナイノ……


 再び,意識を手放してしまう….


  =================

一週間前から,午後になると原因不明の38度越えの発熱で寝込んでいる.

夜中,目が覚めたので水を飲みにキッチンへいく.

なにげなく,窓のほうを見る.

車高の高い車が家の前に停まっている.

「?」

「チノシンエンニイケ」 声が響く.

「知の深淵に行け」

それとも,

「死の深淵に行け」


どっちなの? と,迷いながら,

わたしは,やっと歩き始めたばかりの子供,ユウがいるから,一緒に行くことはできない,と,告げる.

母が,大丈夫.わたしがユウちゃんを見ておいてあげる,と,いう.

でも,わたしは,絶対行かない,と,告げる.


イク,ト,イッタラドウナルノ?

  =================

睡魔に耐え切れず,転寝をする.

懐かしくも暖かい古書のような空気に包まれる.

ここは,学生時代の大半を過ごしたT研究室だ.

午後遅くの淡いオレンジ色の光を背に浴びながら,窓際の定位置に,T先生がいつものように座っている.パソコンで何やら作業をしつつ,「研究は順調だよ.相変わらず忙しいけど」,と,愛嬌のある丸顔を笑顔でクシャクシャにしながら,機嫌よさそうに話しかけてくる.

そして,当たり前のように,わたしの向かいの席には先輩のMさんがいる.

わたしが,最後に会ったとき,ポスドクの空きを探していた,Mさんも,元気そう.

就職,うまくいったみたいね.

Mさんに,急に来たわたしに,驚いたか,と,問う.

「全然」

「人間は,意識下で,みんなつながっているからね,こんな風に集まることもあるさ.」と,いつも冷静なMさんらしく,さも当たり前のように言う.

ここは,わたしの無意識下なのに,こんなことを,さらりと言うMさんは,すごいな.

T先生と,けんか別れのようになって研究室を辞したことが,ずっと気になっていた.

二人が普通にわたしを迎えてくれたことが,無性に嬉しかった.


デモ,Tセンセイハ,3ネンマエフリョノジコデナクナッタ,ト,キイタヨウナ…


  =================

と,ある日,人がたくさんいる.ここは,日本庭園?

ざわざわとした気配を感じるが,話し声は聞こえない.

日よけの傘を立て,緋毛氈をひいた茶屋の桟敷のようなところに,こちらに背中を向けてたくさんの人が座っている.男性も女性もいる.様々な年齢層,様々な服装の人が入り混じっている.

みんな,何かの順番を待っているかのようにじっとしている.


ふいに,見覚えのある帽子を被った,横顔に気が付く.

ひと月前に亡くなった,父だった.

お気に入りのあの帽子は,棺に一緒に入れた.


「お父さん,どこに行くの?わたしも,ついてゆくよ」と叫ぶ.

父は,振り向きもしない.

もちろん,返事もない.


オトウサン,ドコニ,イクノ?

  =================

あれ,いつの間にか,神社に居る.

拝殿の横に,大きな陶器の皿が飾られた,この神社を,わたしは知っている.

この神社の境内を,わたしは結婚前に働いていた会社に行くための近道として,毎日のように使っていた.

「あのねぇ,ぼくね,おかあさんがここを通った時,一緒にいくことに決めたの.

だから,ぼく,お母さんの後ろにくっついてお家に来たんだよ.知ってた?」と,

かわいい声で,得意そうに3歳児姿のユウがいう.

「そうだったの,嬉しいな.おかあさんはそんなこと,全然,知らなかったよ」と,言いながら,幼い姿のユウを,ぎゅっと抱きしめる.

ユウは,わたしの胸に顔をうずめて,満足げにキャハハと笑う.


イトオシイ…


  =================

ぱちりと目が明く.

枕もとの時計は,2時50分.

さっきまで,この部屋を見下ろしていた.

床には,寝る前まで読んでいた,雑誌が広げたまま投げ出され,日中着ていた服がだらしなく丸められて,ベッドの足元に無造作に置かれている―――その様子を,ベッドの上からではなく,もっと真上から.

そう,天井近くから,見下ろしていた.

そして,なによりも,足に先ほどまで浮いていたかのような「ぶらぶらとした感覚」が,まだ,生々しく残っていた.


クウチュウヲ,フユウシテイタ? マサカ…


  =================

なぜか,前に住んでいた家の,玄関に,わたしは佇んでいる.

玄関が暗い家だった,と,思いだす.

下駄箱の前の薄闇に,何やら黒い物がある.

はっとして,

「黒いヘビがいる」と,わたしが叫ぶ.

「捨ててあげるよ」と,どこからか声がする.


その日から,あれだけわたしを苦しめていた午後の熱が,嘘のようになくなった.


それは,

クロイヘビヲ,ステタカラ?


  =================

 ある日.

母とおぼしき人と二人で,並んで温泉の湯船につかっている.

「失礼します」と年配の女性が,かけ湯をして湯船につかる.

温泉からの帰り,母とさっきの温泉で一緒になった女性と,古びた一両編成の電車に乗る.

夕方のせいか電車の中は薄暗い.

駅に停車する.この駅は,大きな霊園があることで有名だ.

「ここで失礼します.お世話になりました」とお辞儀をして,その人は降りてゆく.

わたしは,軽く会釈しながら,お墓に行くのね,と,ぼんやり考える.

ドアが閉まると,電車はまた走り出す.

ガタン,ゴトンと乾いた音を立てながらのんびり,電車は走る.

やがて,電車は右手に野原が広がる川沿いに差し掛かった.

 川の向こう側には,幹が棒みたいに真っすぐな木が何本も立ち並んでいる.

木々には,大きな黄色の花が無数に咲いている.向こうの川岸には,白い小さな花が群生し,木の根元には,丈のある青い草がおい茂り,風が吹くたびに海のように波打っている.

美しい,お花畑.


ウツクシイ,オハナバタケ.


いつの間にか,わたしの視線はその木の近くにいる.

わたしの両腕を広げたよりも大きい黄金色の花は,アールヌーボーさながらに流麗な渦を巻く枝から音もなく離れ,真横に花芯を見せながら,ゆっくりとわずかに回転しながら少しずつ少しずつ落下していく.

それを,合図にしたかのように,あちらこちらの枝から,大きな黄金色の花が,次々と

枝から解放されてゆく.自由になった花たちは,重力と戯れるように,優美に,しずしずと降りていく.

わたしは,この花を知っている.

名前も知らないけど.

この光景を,前に,見たことがあった,と,唐突に思う.

それは,とてつもなく,とてつもなく,懐かしく温かい記憶だ.


  =================

 やがて,電車は終点の駅についた.

ぞろぞろと降りるほかの乗客とともに,プラットホームの階段を下りてゆく.

薄暗い地下道を通り,そこだけがぼんやり明るい有人の改札口を,通り抜けようとする.

わたしは,切符を渡しながら,どうやったら,もう一度,さっきのお花畑に行けるのだろうかと考えていた.

なんとしてでも,もう一度行きたい,と,


ドウヤッタラ,モウイチド,アノオハナバタケニイケルトオモウ?


  =================

安寧と静寂に満ちたあの場所へ.

きっと行くことができると思う.

前に居たところだから.

そして,わたしが,来たところだから.

また,必ず,行くことができるよ.


デモ,ソノトキ,マタ,コチラニモドレルノカナ?

(了)

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閾(しきい) 寛久 @hana_hana77

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