短編 口紅の朽ちぬ鮮烈君に移し朽ち果てるまで移ろわぬ色
「
渋い松の葉色の一つ紋を押し出しも立派な身体に纏った中年婦人の嫌味たっぷりな言葉に、今まさにお見合いが始まったばかりの座敷の空気は一気に凍った。
赤坂の料亭の十八畳の広座敷に、黒檀の卓を挟んで花嫁候補と花婿候補が向かいあっている。そして仲人が会の始まりを告げるや否や、婦人は徐に唇を開いたのだ。
「お名前もですけれど、こうして実際にお会いしてみるとそのお顔立ちも少し変わっておられるようですわね」
べとりと重ねられた濃い唇が、あきらかに見下した笑みを浮かべる。
婦人はひとつ鼻を鳴らし、鳩のように厚い胸を張って卓の向こうの春紫苑を睥睨した。
時の止まった広間に獅子脅しが響く。
まず表情を変えたのは、婦人の隣に座る背広の青年だった。
「取り消してください。非礼が過ぎます」
「へえ、なにが?」
素知らぬ顔の母に青年は眉をひそめて再び嗜め、仲人の婦人は慌てて廊下に向けて呼びかけて仲居を呼んだ。用事があったからではなく、凍えるようなこの座敷の空気を入れ替えるためである。
もとより渡り廊下に面した障子は開け放たれていて、五月の陽射しは座敷へいっぱいに降り注いでいる。それでもなお、お見合いの席はぎこちなく、刺々しい敵意に満ちている。
無論、花嫁側も負けてはいない。
春紫苑の付添人である叔父の
「はい。私この名前、とても気に入っているんです」
淡朽葉よりもさらに淡く、梔子色に近い綸子の振袖には洋画の筆遣いで初夏の花々が描かれている。そのモダンな柄行は、露西亜人の父を持つ春紫苑の白い肌や西洋人形らしい目鼻立ちによく似合っていた。胸高に締めた萌黄の帯に夏薔薇を掘り出したブローチの帯留めという組み合わせも彼女が纏うと派手にならず、数えて十七の若さを際立たせている。
相変わらずにこにこと微笑む春紫苑だけが、隙間風の吹き込むようなお見合いの座敷で唯一の日向だった。だが彼女にあるのは悪意のある当てこすりなどどうでもいいという傲岸よりも、嫌味の意味が理解できていないような無邪気さらしい。
花婿側と仲人は、屈託のない春紫苑の様子に毒気を抜かれたように少し黙った。
その空白を待っていたように、叔父の嘉一が口火を切った。青白い頬がこけて、眼の下には隈が染みついている。不穏な迫力のある男だった。
「春紫苑という花、ご存じないですかね。ああ、まだ日本ではそう見られないんだったか。まあ雑草なんですが、黄色い花芯に白い花びらでそれなりに可愛らしい風情がありましてね。そうだな、白菊のように小さくて可愛い花なんですが、でも踏まれても踏まれても起き上がる健気な強さがあるんです。身内を褒めて恥ずかしいですが、こいつにはぴったりな名前だと思いますよ。それにまあ、なんですか、この縁談相成れば彼女は松尾春紫苑となりますが、そちらのお名前とも相性はいいんじゃないですかね。少なくとも、露木の名を名乗るよりは」
立て板に水といった風に語る嘉一の頬には、酷薄な薄笑いが浮かんでいる。
――てめえらの家なら雑草でも三顧の礼で迎えろよ
嘉一は暗にそう言っていた。
春紫苑の亡母の年の離れた弟である嘉一は今年二十九歳。
長台詞の意図に気づいた花婿候補はかすかに苦笑して肩をすくめ、姑候補は小鼻に汗を噴き出して真っ赤になった。
婿となる松尾治臣は大阪南地で小料理屋を営む両親のもとに生まれ、両親親戚の期待を受けて苦学して帝国大学を出た。歳は青花と同年の今年二十九歳。今こそ彼は外務省の若手官僚筆頭だが、あくまで努力でエリートに化けた叩き上げの人間だった。
一方の露木家は骨肉の御家騒動の末に没落し、いまや食うに事欠く生活とはいえ、痩せても枯れても元は平安朝の堂上家。なかば騙されるようなかたちでお雇い外国人のらしゃめんになってしまった春紫苑の母も両親を亡くすまでは華族の姫君だったし、女学生の春紫苑もまた血筋と名字だけなら姫と呼んで差し支えないのである。
つまりこの縁談は、わかりやすく双方の利害が一致した政略結婚だった。上司に言い含められた治臣はこの秋からの欧州派遣に連れて行くことのできる家柄のいい妻が欲しており、嘉一は両親がない姪に財力のある前途洋々の夫を見つけてやりたいと思っていたのだ。
両家ともに"ご挨拶"をしたところで、この見合いは今日を迎える前から八分通り決定している。その後も治臣の母と嘉一だけはちくちくとやり合っていたが、結納の日はすでに来月六月の大安に決められ、切符や宿泊先も手配済みだった。
「先ほどは母が失礼をしてすみませんした」
料亭からの帰り際、実母と嘉一が仲人と打ち合わせをしている隙を見計らって、治臣は春紫苑にそう声をかけた。
「悪い人ではないんですが……あまりにも下劣な振る舞いをして、身内として恥ずかしいです。今後は慎むよう、よく言っておきます」
春紫苑は青みがかった瞳を丸くして、それから顔を綻ばせた。いいえ、と言った声が弾んでいる。
不思議な間が少しあって、春紫苑はおずおずと唇を開いた。
「あの……私はずっと叔父と二人暮らしでしたから、良い奥様になれるか不安なんです。だから、できたら松尾さまのお母さまに、良い奥様としての作法をこの先たくさん教われたら嬉しゅうございますわ」
流暢だが、聞き覚えた経を読んでいるように実感のない言葉だった。治臣はまた苦笑する。
「叔父さんに口上を習ったでしょう」
「あ……」
はなやかに整った顔が、見抜かれた羞恥に一瞬で薔薇色に染まった。陽の差し込む座敷の日陰で、結い上げた焦茶の髪の艶がくっきりと光る。
お見合いの髪型に、せっかくだから島田を結ってみたいと春紫苑は言った。だが膨らませて束髪を作り、粒の細かい真珠のネックレスを髪飾りにするよう美容師に指示したのは嘉一だった。嘉一のいう通りにした髪型はとてもモダンで斬新で、そして春紫苑にはよく似合っていた。
「松尾さま……あの」
伏せてしまった目を上げ、春紫苑はまた逡巡した。
「……あの、叔父もとても失礼なことを言っていたと思うんです。本当にごめんなさい」
細い首まで赤く染め、春紫苑はやっと自分の言葉を話した。
「春紫苑さん」
その様子を見て、治臣の目元にはあたたかな微笑を浮かんだ。
治臣は上背のあるすらりとした体格に、誠実そのものの引き締まった顔立ちの青年だった。春紫苑は数ヶ月後に夫となる男の凛とした風情に、痩せて小柄な叔父との差異ばかりを見出した。
「私と結婚してくださいますか」
「……はい。……こんな私で、よければ」
その答えを聞いて、治臣は微笑んだ。
「それは私の台詞です」
晴れ間の庭から涼やかな風が吹き込んだ。
仲人との打ち合わせはすんだらしく、治太郎の母が息子を呼んだ。
春紫苑も濡れ縁に立つ叔父を見た。
見つめる春紫苑に気づいているのに、嘉一は黙って煙草をふかしている。
*
陽当たりのいい六畳間の丸い座卓を囲んで、
ふたりで揃って女学校から下校して、そのまま春紫苑の家に寄った。学校帰りはちょくちょく、ふたりであてどなく散歩をしたりお互いの家に遊びに行ったりしている。今日は大阪のお土産を渡したいからと言われたので、朱鶴が親友の家にお邪魔していた。
「きっと、やさしい人だと思うの」
松尾家が持たせてくれたというドライフルーツのケーキを切りながら、春紫苑は来月からの夫をそう表現した。
「気が合いそう?」
訊ねる朱鶴は、きっとこの見合いの本人よりも強い興味を持って花婿候補について調べていた。彼女と合わないことはないのだろう。
だって、あの男が姪のために選んだ相手だから。
「まだわからないけれど、でも松尾さん、算盤とペンのたこが指にあるの。それで、一生懸命な人なんだろうなと思ったから」
松尾治臣という男が苦労の人だという評判は、朱鶴も別の方面から耳にしていた。だがはたしてこの親友が婚約者に見出したものは、努力で掴んだ前途洋々の将来や、生真面目な優しさなのだろうか。
手にたこがあれば誰にでも、春紫苑は最初の心の扉を開いたのではないか。それも、とくにペンだこがあれば。
朱鶴は座卓に置いていた自身の手をこっそりと見て思い、醒めた。黒い座卓に置いた手は、白くて細いが手指の形はそう美しくない。
そう、美しくない。とりわけ目の前の春紫苑の琴線には響かない手だろう。
「松尾さんは外務省でも期待されているらしいものね。では、それもあちらからの贈り物?」
どことなく硬質な雰囲気のあるつめたい美貌を崩さず、朱鶴は春紫苑の手にある陶器の容れ物に話を振った。
「ええ、これから紅を指すときにって」
九谷焼らしいはなやかな容れ物。たしかに紅入れらしく、浅い丸型に蝶番で蓋がついている。色とりどりに描かれた小菊は、春紫苑の花を模したものだろうか。
お見合いからひと月経ち、先週末は大阪で結納を交わしたという。そして再来月の七月には挙式が予定されていて、朱鶴は級友のなかでただひとり式と披露宴に招かれている。
式の日はどんどん近づいているのに、朱鶴はまだ親友が女学校を退学して人の妻となり、夫に付き添って英国へ行くなんて信じられなかった。
いつかは互いに結婚するだろう。でもそれがこんなにも早く、しかも遠い外国へ行ってしまうとは予想もしていなかった。
あの男がそんなことを許すなんて。
いま朱鶴のいる春紫苑の私室は先週訪れたときと同じままだった。女学生の部屋らしく設えられた座敷に、嫁入りの荷物は見当たらない。
開け放された窓からは、ところどころ壊れたこの家の板塀が見えた。おそらく嘉一は自身の部屋で執筆しているのだろう。この古めかしい平屋には春紫苑と叔父しか住んでいない。
「容れ物だけで、口紅はまだ選んでいないのね」
「そうなの。好きな色を入れてくださいと言われたけれど、もったいなくて」
「イギリスに行けば、パリは目と鼻の先でしょう。きっと素敵なお色がたくさんあるわ」
松尾さんに選んでもらえばいいじゃない。
心にもないことを言って、朱鶴は微笑んだ。
私が春紫苑と一緒に紅を選べたら、さぞ楽しかっただろう。だけど……。
なぜ誘うひとことが口に出せないのか、自分でもわからない。理屈のつかない心を持て余す朱鶴と対照的に、春紫苑は名案を思いついたように華やいだ声で「そうだわ」と言った。
「朱鶴ちゃんなら、深みのある赤やはっきりした紅色が似合うでしょうね。それと、ワインのような渋い色も」
朱鶴には、春紫苑の言う色をつけた自分をうまく想像することはできなかった。
「そう?」
真面目な女学生である朱鶴もまた、日常的に化粧をすることはない。それでも大切な人から教えられた色なら、すぐにでも試してみたい気になってしまう。
「じゃあ、最初の口紅はそうしてみようかな」
「ね、そうしてね。でも、なにもつけなくても朱鶴ちゃんは綺麗よね」
春紫苑は名前の通り春のように笑った。そして彼女が春なら、私は冬だろうと朱鶴は思う。
あまり好意的に受け取られることのない出自や、西洋の血が混じっていることのあきらかな外見から、春紫苑は女学校で浮いた存在だった。だが彼女には後ろ指を指され謂れのない蔑視を受けても陰ることのない明るさがある。その春の日向のような暖かさが朱鶴は好きで、そしていまはどうしてか少しつらい。
この人は、私と離れても寂しくはないのかしら。
そう思った瞬間に、寂しくはないのだろうと醒めた声が耳元で囁く。春紫苑が惜別を感じているとしたら、それは叔父の嘉一に対してのみに違いない。
その当の嘉一が、今回の性急な縁談の立役者なのだが。
「再来週の有栖川伯爵邸のパーティー、朱鶴ちゃんも行く?」
有栖川伯爵邸で五月に行われるそのパーティーは、格式高い社交の場として毎年宮様方も来場するような初夏の風物詩だった。
「父からは一緒にと言われているけれど、はなやかな席だから気後れして」
朱鶴の父、橘徳之進男爵は下級士族の出ながら御一新の際の特別の働きが認められ、まず実父の先代当主が男爵位を得て華族に列せられた。今では男爵位は譲られて徳之進のものとなり、さらに彼は財務大臣の地位にもある。朱鶴の実家は零落した春紫苑の露木家と反対に、御一新以降留まることなく昇り調子だった。朱鶴はその橘男爵家の次女にあたるが、正妻の娘ではない。実母は生きているようだが、諸々特別の事情があるらしく朱鶴は橘邸の離れでひとり寝起きしている。毎週日曜日の夜は本宅で一家揃って夕食をとるし、義母はなにくれとなく気を配ってくれて、朱鶴も不自由は感じていない。父の徳之進は厳格だが公平で、義母はとてもやさしい人だ。それでもやはり、家の中では何事につけて遠慮してしまう。
自身の縁組についても、朱鶴は春紫苑の見合いにたいして持っているような興味も関心もなかった。ただ、命じられた相手に素直に嫁いて夫に尽くすつもりでいる。これまでの日々を、橘家の意向に沿って生きてきたように。
消極的に曖昧な朱鶴の返事を聞いて、春紫苑は反対に表情をぱっと明るくした。
「それなら、朱鶴ちゃんも参加しましょうよ。松尾さんからぜひと言われているのだけれど、私はそういう場所に出たことがないからなんとなく怖いの」
「先生はなんて?」
「声がかかったのなら行ってくるようにって」
春紫苑は別段表情を曇らせるでもなく言ったが、内心叔父の返答を心細く思っているのだろうことはわかった。
あのプライドばかりが高くて偏屈で口が悪く、しかもひねこびたような外見の男のどこがいいのかは不明である。だが春紫苑は叔父を語るとき、いつでも「叔父さんはやさしい」と言う。婚約者について「やさしい人だと思う」と言ったのとは違う。自分を納得させるための仮定ではなくて、わかりきった自明の理として断定するのだ。
小説家としてほそぼそと暮らしの糧を得ている嘉一は、師匠が
いやな男。
さっき顔を合わせたときも恒例の嫌味を言ってきた嘉一の表情が蘇って鬱陶しく思いながら、朱鶴は春紫苑に微笑した。
「そうね、じゃあ、私も参加したいと父に言ってみようかしら」
「よかった。誰かいないと怖いのでは、この先やっていけないのだけれど」
「パーティーに先生は来ないの?」
「ええ、松尾さんは叔父にもどうかと言ってくれたけど、いらないんですって」
「そうなの」
まあ、行かないでしょうね。朱鶴は冷徹にそう思った。
この露木家ほど、見事なまでに没落した家はなかなかない。ただ嘉一の場合はずかしくて顔を出せないというよりは、浮き沈みのある社交界というものを心底馬鹿らしいと思っているのだろう。そしておそらく、これから春紫苑の伴侶になる男と顔を合わせていたくない。
この親友のそばには、常に保護者として叔父がいた。親友がこよなく頼りにしていた叔父とは、結婚を境に離れることになる。
松尾治臣という人は、露木青花にとって代われるだろうか。
朱鶴はひそかにそう考えた。その答えの一端を、有栖川伯爵邸で得られるかもしれない。
松尾という男が紅入れを贈ったのなら、私は彼女の唇に触れる紅筆を贈ろう。
中身がまだの容れ物だけを渡すのは、未来を約束された婚約者のずるい逃げだと朱鶴は思った。松尾はまだ彼女が好む色を知らないし、さらりと聞けるほどスマートでもないから紅そのものは渡せなかったのだ。
春紫苑はきっと、人からもらったものはどんなものでも、嬉しいと言って微笑むだろう。だが彼女が好むものも身に着けるものも、本当はあの偏屈な叔父が選んだものだけだ。
親友の家を辞した帰り道、朱鶴は銀座で紅筆を探したが、良いと思う品は女学生の小遣いでは手の届かない値段ばかりだった。
*
式の日は初夏らしい陽気だった。
落ちぶれたとはいえ公家華族の露木家と、将来有望な外務省官僚の縁談である。披露宴は名高い料亭を貸し切って行われることになった。
白・赤・黒の三枚襲を着付けられた春紫苑は、美容師に髪を結いあげられている。挙式での髪型は基本の型は乙女島田にして、だが春紫苑の顔立ちに合わせて鬢の張り出しを調整するようにと、嘉一が事前に美容師に指示していた。
春紫苑には、鏡の中に出来上がっていく自分の容姿の良し悪しはわからない。うつくしいのか不細工なのか、これが花嫁として正しいのか正しくないのかもわからなかった。
「どうですかしらね」
中年の美容師が鏡越しに春紫苑に訊く。
「ええ、ありがとう。叔父に訊いてみませんと」
またか、というため息を、美容師は作り笑顔で堪えた。この子はなにを訊いても、叔父に訊いてみますと言う。裁可を下すのが洒落た伊達男ならまだしも、このお嬢の叔父というのは頬のこけた貧相な男で、学生の頃から散々着古したような絣を三十近くなった今も着ているような野暮天だ。それなのに不思議と、この少女の装いに関してのみあの不細工の言うことが当たっている。
「そういえば、口紅も叔父さまが持ってくるのでしたわね」
支度部屋の鏡台には化粧道具が揃えられている。だがなぜか口紅だけはなやかな九谷の入れ物といかにも肌触りのよさそうな紅筆があるだけで、肝心の紅がまだ来ていない。
「はい、叔父が持ってくると言っていたのですけれど……」
化粧は仕上がって、顔にはあと紅を指すだけになっている。白粉をのせて眉を引いたうつくしい面差しを曇らせて、春紫苑は障子戸をかすかに振り仰いだ。
「お客さんの相手で忙しいのかもしれませんね。ちょっと見てきます」
そう言って、美容師は白い上っ張りのまま支度部屋を出て行った。
衣装に焚き染めた香の香りが充満する部屋で、春紫苑はふとどうしようもなく途方に暮れた。三枚襲の絹の重さが畳に腰を下ろす身体を拘束しているようだ。誰もいない場所にたったひとりで放り出されて、忘れられてしまった幼い子どもの気持ち。
それは春紫苑自身の遠い過去の記憶でもある。母がいきなり首を括って死んでしまって、わけもわからずに庭先でへたり込んでいたあの時と同じ震えを花嫁衣裳の下に感じる。
「なんだ、ひとりかよ」
軋む音を立てて戸が開かれる。黒紋付を着た嘉一は手に袱紗を持っていて、障子戸は足で開けたらしい。
「のっぺらぼうみたいになってるじゃねえか。髪結いは?」
鏡台の側にどさりと腰を下ろした叔父の姿に、春紫苑は土の中で息を吹き返したような気になった。ほっと顔をほころばせる。十五年前のあの時も、助けてくれたのはこの叔父だった。名前のなかった彼女に、春紫苑という名前をくれ、温かい食事とぐっすり眠れる寝床をくれた。悪意に晒され攻撃を受けたら、矢面に立って守ってくれた。
大好きな人と結婚できないと知ったのはいつだっただろう。春紫苑にわかることは、叔父は自分が知るよりも先にそのことを知っていたということだけだ。
「叔父さんを探しにいかれたのよ。髪のかたちはこれでいいかって」
「あ? まあ及第点だな。よく似合ってる」
この叔父が春紫苑を手放しでほめることはあまりない。だからやっと褒められて嬉しいのと、最後だから褒めてくれたのかと邪推してしまう気持ちの両方がある。
嘉一は木賊色の袱紗から、黒い紅入れを取り出して蓋をとった。
やわらかく、金色めいた朱が輝いている。
「それ……」
真珠のようになめらかな光沢を持つ紅の色に、春紫苑は引き込まれた。
その表情をちらりと見て、嘉一は春紫苑の顎に手をやって顔を上げさせた。美容師の手で丁寧に拵えられた顔を点検するように眺める。
文句が見つからなかったのか、嘉一は真新しい紅を薬指でとった。左手で春紫苑の顔を固定し、紅を載せた指でそっと唇に触れる。
器用な指はゆっくりと唇をなぞった。花嫁衣装に似合う形に唇を整えると、嘉一は顎を支える左の指で唇を小さく開かせる。より血の色に近い内側にも慎重に紅を指し、しっとりと馴染むよう唇を開け閉めさせた。
春紫苑は叔父の指に素直に従った。まっすぐに叔父を見つめる瞳の縁にも、肌の硬い指が別れの紅を指す。
鏡台にあった晒で、嘉一は指の紅を拭った。晒で拭うだけでは紅は落ち切らない。ペンの持ちすぎで歪み、たこのできた手の先には、ほのかに色が残った。自らが飾った花嫁と同じ紅の色。
名残の指の色を見て、春紫苑は胸の奥に鈍い痛みが生まれるのを感じた。いつものように微笑みたいのに、微笑み方を忘れてしまった。
「……この紅は持って行けないわね」
紅の蓋を締めながら、嘉一は「そうか」とだけ言った。
「指す人がいないのでは、持っていっても指せないわ」
ふたりを写す鏡には、治臣の贈った紅入れと朱鶴のくれた紅筆も写り込んでいる。ひと目で上質な品とわかるそのふたつの道具は、まだ一度も春紫苑に触れていない。
「持っていかねえほうがいいだろうさ」
蓋を締めた紅入れを、嘉一は無造作に縁側に投げた。流れるように放たれた紅入れは、軽い音を立てて中庭の池に落ちる。
黙ったまま、嘉一は自分が指図して職人に作らせた簪たちを春紫苑の結い髪に刺していた。戯れのような仕草なのに、大小の簪は結い髪に導かれるようにちょうど良い位置に収まる。島田に結った髪に銀細工が飾られて、鏡の中にはみるみるうちに花嫁人形が出来上がった。
「……こうやって完璧に仕上げさえすれば、迂闊に触れねえからな」
自らの手で支度をした花嫁から眼をそらし、嘉一はどうでも良さげにつぶやいた。
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