第4話:フエンヒロラの猫たち
トレモリーノスでの二日間があっという間に過ぎ、紗季と麗子はフエンヒロラへと移動した。レンタカーでの移動は約30分。海岸線に沿って走ると、次第に景色が変わっていくのが分かった。
「フエンヒロラは少しこじんまりとした町だけど、長期滞在する欧米人に人気があるの。特にイギリス人が多いわ」
麗子はハンドルを握りながら説明した。彼女は今日、淡いブルーのリネンシャツにホワイトジーンズというさわやかな装いで、髪は一つに結んでいた。
「イギリス人が多いの?」
「そう。退職後に温暖な気候を求めて移住してくる人が多いのよ。だからフエンヒロラには英国パブやティールームもあるわ」
紗季はその話に興味を示した。日本とは全く異なる文化の混ざり合いが、この地域の特徴なのだろう。
フエンヒロラに到着すると、彼女たちは海岸近くのアパートメントタイプのホテルにチェックインした。部屋は小さなキッチン付きで、バルコニーからは地中海が見渡せた。
「今日はまず周辺を散策して、猫がいそうな場所をチェックしましょう」
麗子の提案に、紗季は頷いた。カメラを用意し、二人はホテルを出た。
フエンヒロラの海岸沿いのプロムナードは、トレモリーノスよりも静かで落ち着いた雰囲気があった。カフェやレストランは多いものの、大きなホテルは少なく、代わりに長期滞在者向けのアパートメントが並んでいた。
プロムナードを歩いていると、リゾートホテルの中庭が見える場所に出た。高い塀に囲まれているが、入り口から中が見える。その中庭に、何匹かの猫が日向ぼっこをしていた。
「あそこよ」
麗子が指差した。紗季はすぐにカメラを構え、塀越しに猫たちを撮影した。
「近づいてみましょうか」
紗季が提案すると、麗子は頷いた。二人はホテルの入り口に向かい、フロントで簡単に事情を説明した。幸いにも、ホテルのスタッフは快く中庭への立ち入りを許可してくれた。
中庭に入ると、陽光が差し込む明るい空間が広がっていた。色とりどりの花が咲き、中央には小さな噴水があった。その周りで、三匹の猫が思い思いの場所でくつろいでいた。
「あの子、独特のポーズね」
紗季が指差したのは、背中を丸めて日光浴をしている茶色い猫だった。普通の猫が日向ぼっこをする時は伸びをするものだが、この猫は体を丸めて、まるでパンのように見えた。
「猫パン! 日本でも人気のポーズよね」
麗子が笑いながら言った。
紗季はその猫に近づき、様々なアングルから撮影した。猫は人間の気配に気づいたものの、そのまどろみを続けていた。陽光を浴びた毛並みは艶やかで、まるで金色に輝いて見えた。
「この子、本当にリラックスしてるわね」
紗季は感心した様子で言った。
「ここはお気に入りの場所なんでしょうね」
麗子は答えた。
しばらく撮影を続けた後、二人は中庭を出て、町の方へ歩き始めた。フエンヒロラの街並みは、海岸から少し離れると住宅地になっていた。小さな白い家々が坂道に沿って並び、窓辺には色とりどりの花が飾られていた。
住宅地を歩いていると、ある家の入り口に猫用の小さな出入り口を見つけた。その瞬間、黒と白のまだらの猫がその出入り口から頭を出していた。
「あっ!」
紗季は思わず声を上げ、カメラを構えた。猫は人間の気配に気づき、しばらくじっと見つめていたが、やがて完全に外に出てきた。しっぽだけが出入り口に残っていた姿が何とも言えない可愛らしさだった。
紗季はその猫の写真を何枚か撮った後、猫が去っていくのを見送った。
「この町の猫たちは、みんな自分の家を持ってるみたいね」
紗季は感心した様子で言った。
「スペインでは、多くの人が外猫を温かく見守っているわ。餌を与えたり、時には獣医さんに連れて行ったりね。でも完全な室内飼いではなく、自由に出入りできるようにしている家が多いの」
麗子の説明に、紗季は頷いた。日本とは違う猫との共存の形があることを知り、興味深く感じた。
昼食後、二人は再び海岸に戻り、日差しが強くなった午後の様子を観察した。海岸沿いのカフェのテラス席から、紗季は足元に集まる猫たちを撮影した。暑さを避けるために日陰に入った猫たちは、人間からの施しを期待してテーブルの周りをうろついていた。
「この子たち、観光客からもらえる魚に慣れてるみたい」
麗子がコーヒーを飲みながら言った。
テーブルの下では、黒い斑点のある猫が日陰でくつろいでいた。紗季がカメラを向けると、猫は一瞬カメラを見つめ、それからすぐに目を閉じた。その様子は、まるで「撮るなら撮れば?」と言っているようだった。
「この子、ポーズを取ってくれてるみたい」
紗季は微笑みながらシャッターを切った。
夕方近くになり、陽光が和らいできた頃、二人はホテルに戻る途中で小さな公園を見つけた。公園のベンチには年配の女性が座り、その周りには何匹もの猫が集まっていた。
「あの人、餌をあげてるみたいね」
麗子が指差した。年配の女性は小さな袋から猫用の餌を取り出し、猫たちに与えていた。
紗季は少し離れた場所からその光景を撮影した。猫と人間の交流の瞬間を捉えることは、この旅の重要なテーマの一つだった。撮影を終えた後、二人はその女性に近づいた。
「こんにちは」
麗子はスペイン語で挨拶した。年配の女性は優しい笑顔で二人を見上げた。
「こんにちは、観光客?」
女性は訛りのある英語で尋ねた。
「はい、日本から来ました。猫の写真を撮っているんです」
紗季が答えると、女性は嬉しそうに微笑んだ。
「この子たちはみんな私の家族よ。毎日ここで餌をあげているの」
女性の名前はイザベラ。地元の元教師で、十年以上前から町の野良猫の世話をしているという。彼女の話によると、フエンヒロラには猫の保護活動をしている地元のボランティア団体があり、野良猫の不妊手術や健康管理を行っているそうだ。
「素晴らしい活動ですね」
紗季は心から感心した。
「猫は町の一部よ。彼らがいることで、町はもっと豊かになる」
イザベラの言葉に、紗季は深く頷いた。
二人がホテルに戻ると、フロントで若い女性スタッフが声をかけてきた。
「あの、猫の写真を撮っていると聞いたのですが……」
彼女の名前はエレナ。実は、ホテルの裏庭に子猫の家族がいるという。母猫が最近子猫を産み、スタッフが世話をしているのだという。
「もし良ければ、見に来ませんか? 明日の朝がいいと思います。母猫が子猫に朝日を浴びさせる時間があるんです」
紗季と麗子は喜んでその申し出を受けた。フエンヒロラでの滞在は、思いがけない出会いに恵まれていた。
その夜、紗季はバルコニーに出て、夜の海を眺めながら考え込んでいた。今日撮影した猫たちの写真をチェックしていると、彼女はある共通点に気づいた。
「どれも幸せそうな表情をしてる……」
フエンヒロラの猫たちは、皆それぞれの場所で、それぞれの形で幸せに暮らしているように見えた。人間との距離感も、猫それぞれが自分で選んでいるようだった。
バルコニーから見える月明かりが海面に反射し、銀色の道のように輝いていた。紗季はその景色にインスピレーションを受け、三脚を設置して夜景の撮影を始めた。
フラッシュを使わず、長時間露光で撮影すると、海と空と月の神秘的な姿が浮かび上がった。紗季は数枚撮影した後、ふと顔を上げると、隣のバルコニーに一匹の猫が座っているのに気がついた。月明かりに照らされた猫のシルエットは幻想的で、思わずカメラを向けた。
シャッターを切る音に、猫はこちらを振り向いた。その瞬間、月の光が猫の目を捉え、緑色に光った。紗季はその神秘的な瞬間を捉えることができた。
「素敵な写真が撮れたわ」
紗季は小声で呟いた。この写真は、太陽の光の中の猫たちとはまた違う魅力を持っていた。月の光の下での猫の姿は、より神秘的で、古来から人々を魅了してきた猫の不思議な魅力を表現していた。
紗季はその夜、バルコニーで長い時間を過ごした。猫たちとの出会いを通じて、彼女自身の中にも何かが変化しているのを感じていた。日本での忙しい日々では忘れていた、じっくりと物事を観察することの大切さを思い出していた。
部屋に戻ると、麗子はすでにベッドで本を読んでいた。
「素敵な写真が撮れたわ」
紗季はカメラの画面で月夜の猫の写真を麗子に見せた。
「これは素晴らしいわね! 神秘的な雰囲気が出てる」
麗子は感心した様子で言った。
「明日の朝の子猫たちが楽しみね」
「うん、本当に。この旅は予想以上に実りあるものになりそう」
紗季はラップトップを開き、その日の写真を整理し始めた。彼女の心の中では、すでに写真集のイメージが形になりつつあった。太陽の海岸の猫たちは、それぞれに個性的で魅力的だった。その姿を通して、この地域の文化や人々の暮らしも見えてくる。
写真を整理しながら、紗季は自分の中に湧き上がる新しいアイデアに気づいていた。単なる猫の写真集ではなく、猫と人間の共存の物語、そして光と影の中で生きる生命の輝きを伝える作品にしたいと思った。
その夜、紗季は久しぶりに充実感を持って眠りについた。明日はどんな出会いが待っているのだろうか。そんな期待を胸に、彼女は夢の中へと落ちていった。
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