第3話:ホテルの中庭の住人たち

 翌朝、紗季は予想以上に早く目を覚ました。時計を見ると、まだ六時だった。カーテンの隙間から差し込む朝日が、部屋の壁に金色の線を描いている。隣のベッドでは麗子がまだ眠っていた。


 紗季は静かに起き上がり、バルコニーのドアを開けた。朝の海は静かで、波の音だけが聞こえてくる。カメラを手に取り、バルコニーから朝日に染まる海を何枚か撮影した。


「もう起きてたの?」


 麗子が寝ぼけ眼で起き上がった。長い髪が少し乱れていたが、それでも美しく見えた。


「うん、朝日が綺麗だったから」


「そうね……」


 麗子もバルコニーに出てきて、深呼吸をした。


「今日はホテルの中庭で撮影しましょうか。ここのホテル、実は猫が何匹か住み着いてるのよ」


 紗季は興味津々で頷いた。


 朝食を食べた後、二人はホテルの中庭に向かった。中庭はアンダルシア様式の造りで、色とりどりの花が咲き、中央には小さな噴水があった。白い壁と青いタイルのコントラストが美しい空間だった。


 紗季が中庭に足を踏み入れると、すぐに動く影に気づいた。噴水の近くで、茶トラの猫がこちらを見ていた。


「あれ? 昨日海岸で会った子かしら?」


 紗季はゆっくりと近づいた。猫はしばらく動かずにいたが、紗季が近づくと立ち上がり、尻尾を立てて歩み寄ってきた。


「おはよう」


 紗季がしゃがみこむと、猫は頭を擦り寄せてきた。思わず手を伸ばして頭を撫でると、猫は喉を鳴らした。


「この子、ここに住んでるの?」


 紗季は麗子に尋ねた。


「そうみたい。ホテルのスタッフによると、数年前からここで暮らしてるんですって」


 麗子はホテルのスタッフと話した後、紗季に説明した。


「彼の名前はソル。"太陽"って意味よ」


「ソル……太陽の名前を持つ猫か。似合ってるわね」


 紗季はカメラを構え、ソルの写真を何枚か撮った。猫は撮影されることに慣れているようで、カメラを向けても全く気にする様子はなかった。


「昨日、海岸で会ったのも同じ子だったのかな?」


「それはわからないけど、この辺りの猫はみんなで縄張りを共有してるみたいよ。ホテルからビーチまで行き来してるのかもしれないわね」


 麗子は説明しながら、近くのベンチに腰掛けた。今日の彼女は淡いグリーンのワンピースに、首元には小さなターコイズのペンダントをつけていた。朝の光を受けて、その青い石が美しく輝いていた。


 紗季は中庭の様々な場所でソルの写真を撮り続けた。噴水の縁に座るソル、花壇の中を歩くソル、日が差し込む石畳の上で伸びをするソル……どの写真も光と影のコントラストが美しく、猫の表情も生き生きとしていた。


 朝食を終えた宿泊客たちが中庭に現れ始めると、ソルは人々の間を上手に歩き回り、時折足元に擦り寄っては撫でてもらっていた。


「この子、観光客慣れしてるわね」


 紗季は感心した様子で言った。


「スペインの猫は概して社交的よ。特にリゾート地では、人間からの愛情をたくさん受けて育つから」


 麗子は説明した。


 しばらくすると、別の猫が中庭に現れた。それは真っ白な毛並みを持つ猫で、優雅な歩き方が印象的だった。


「あら、新しい子だわ」


 紗季は新しい猫にカメラを向けた。白猫はプールサイドを悠々と歩き、まるでホテルの検査でもしているかのようだった。


「この子は……」


 麗子はまたスタッフに尋ね、戻ってきた。


「ルナって名前だそうよ。ソルの妹だって」


「ソルとルナ……太陽と月ね」


 紗季は微笑んだ。名前の通り、ルナはソルとは対照的な性格のようで、人間には近づかず、常に一定の距離を保っていた。それでも、紗季のカメラを意識しているようで、時折こちらを見ては、また歩き始めるという行動を繰り返した。


 紗季はルナの動きに合わせてシャッターを切り続けた。白い猫の姿は朝の光の中で幻想的に見え、その動きには計算されたような優雅さがあった。


「ルナはモデルになることを知ってるみたいね」


 紗季は笑いながら言った。


「猫はカメラを向けられると、自分が特別扱いされていることがわかるのよ」


 麗子はベンチから立ち上がり、紗季の隣に来た。


「見て、あそこ」


 麗子が指差した先には、プールサイドのデッキチェアで日光浴をしている一人の女性がいた。黒い水着を着た女性の隣では、灰色の猫が同じようにデッキチェアで寝そべっていた。


「あの人はマリア。このホテルの常連客で、作家らしいわ。あの猫はグリスっていうの。スペイン語で『灰色』って意味ね」


 紗季は三匹目の猫を見つけて興奮した。カメラを構え直し、デッキチェアで寝そべる猫の写真を撮ろうとした時、マリアが彼女に気づき、手を振った。


「おはよう! あなたがカメラマンなのね」


 マリアは流暢な英語で話しかけてきた。四十代半ばぐらいの女性で、短い黒髪と知的な雰囲気を持っていた。


「おはよう。はい、日本から来た写真家です」


 紗季も英語で返した。


「この子がグリスね。とても美しい子だわ」


「ありがとう。七歳になるのよ。ここのホテルに来るときはいつも連れてくるの。グリスもここが大好きなのよ」


 マリアは優しく猫の背中を撫でた。グリスは目を閉じたまま、喉を鳴らした。


「撮ってもいいかしら?」


「もちろん! グリス、ほら、カメラよ」


 マリアは猫に話しかけた。グリスはゆっくりと目を開け、カメラを向けた紗季を見つめた。その瞬間、紗季はシャッターを切った。猫の瞳に朝日が反射して、まるで黄金色に輝いているようだった。


「素晴らしい瞳をしているわね」


 紗季は感動したように言った。


「グリスは特別な猫なの。私の小説の主人公のモデルになった子よ」


 マリアは誇らしげに言った。


「小説家なのですか?」


「ええ、ミステリー小説を書いているの。グリスは『灰色の探偵』シリーズの主人公のモデルよ」


 マリアの言葉に、紗季と麗子は驚いた顔を見合わせた。


「日本でも翻訳されてるかもしれないわ。エレナ・マルティネスというペンネームで書いているの」


「ああ! 知ってる!」


 麗子が声を上げた。


「日本でも人気よ! 私も読んだことがあるわ」


 マリアは嬉しそうに微笑んだ。


「あなたたちは何日ここにいるの?」


「トレモリーノスにはあと一泊です。猫の写真集を作るために、コスタ・デル・ソルを回っているんです」


 紗季が説明すると、マリアは興味深そうに頷いた。


「それなら、今夜一緒に夕食をどう? 地元の人しか知らないタパスバーに連れて行ってあげるわ。そこには看板猫がいるのよ」


 紗季と麗子は喜んで申し出を受けた。新しい出会いが、この旅をさらに豊かなものにしてくれそうだった。


 その後も、紗季はホテルの中庭で撮影を続けた。昼過ぎには、小さな子猫のグループが現れた。どうやらルナの子供たちらしく、みんなレモンクリーム色の毛並みを持っていた。


「赤ちゃん猫!」


 紗季は思わず声を上げた。三匹の子猫は、まだ少しおぼつかない足取りで中庭を探検していた。母猫のルナは少し離れた場所から子供たちを見守っていた。


「ホテルのスタッフによると、生後二ヶ月ぐらいだって」


 麗子が説明した。


 紗季は子猫たちの無邪気な姿を夢中で撮影した。小さなあくびをする瞬間、兄弟で追いかけっこをする様子、母猫に甘えに行く姿……どれも心温まる光景だった。


 一匹の子猫が紗季の足元に近づいてきた。警戒心のない瞳で見上げ、小さな声で鳴いた。紗季はしゃがみこみ、そっと手を差し出した。子猫はしばらく手の匂いを嗅ぎ、それから頭を擦り寄せてきた。


「なんて可愛いの……」


 紗季は思わず微笑んだ。子猫の体温と柔らかな毛並みが、彼女の心を暖かくした。


「ねえ、紗季。この光、すごくいいわ」


 麗子が中庭の一角を指差した。午後の日差しが白い壁に反射し、猫たちを柔らかな光で包み込んでいた。紗季はすぐにその光の美しさに気付き、カメラの設定を調整した。


 子猫たちが光の中で遊ぶ様子を撮影していると、ホテルのスタッフの一人が近づいてきた。彼女は子猫用のミルクの入った小さな皿を持っていた。


「お昼ごはんの時間です」


 若いスタッフは笑顔で言った。彼女が皿を置くと、子猫たちは一斉に駆け寄ってきた。


「牛乳ではないのですか?」


 紗季は興味を持って尋ねた。


「いいえ、これは特別な子猫用ミルクです。牛乳は猫の消化には良くないので」


 スタッフは説明した。


「実は、宿泊客の中には猫に牛乳をあげる人もいるので、それを防ぐために私たちがこうして定期的に餌をあげているんです」


 紗季はその言葉に感心し、ミルクを飲む子猫たちの写真を撮り続けた。一匹の子猫が飲み終わった後、口元にミルクの滴を付けたまま満足そうに伸びをする姿が特に印象的だった。


「この子たち、本当に幸せそう」


 紗季は感慨深げに言った。


「ここのホテルは猫に優しいことで有名なのよ。だから猫好きの観光客にも人気があるの」


 麗子は説明した。


 午後は、ビーチに戻って海辺の猫たちを撮影し、夕方にはホテルに戻って休憩した。紗季はベッドに横になり、その日撮影した写真を確認していた。子猫たちの写真に特に満足し、何枚かを編集して保存した。


「今夜マリアと会うのが楽しみね」


 麗子はシャワーを浴びた後、髪を乾かしながら言った。


「うん、地元の人しか知らないタパスバー……想像するだけでわくわくするわ」


 紗季も心から楽しみにしていた。撮影の合間の思いがけない出会いが、この旅をさらに特別なものにしていた。


 夜八時、マリアと待ち合わせた場所に向かうと、彼女はすでに到着していた。カジュアルな黒のパンツスーツに、首元には大きなトルコ石のペンダントをつけていた。


「お待たせ」


 紗季と麗子が近づくと、マリアは笑顔で手を振った。


「素敵な場所に連れて行くわよ。ついてきて」


 マリアに導かれて、彼女たちは狭い路地を進んでいった。トレモリーノスの旧市街は、観光地とは違う静かな雰囲気があった。石畳の路地には、地元の人々が談笑する姿が見られ、窓からは夕食の匂いが漂ってきた。


 しばらく歩いた後、マリアは小さな入り口の前で立ち止まった。「エル・ガト・ネグロ(黒猫)」と書かれた古びた看板がかかっていた。


「ここよ。あまり観光客は来ないけど、地元では有名な場所なの」


 店内に入ると、温かな照明と活気のある声が二人を迎えた。壁には様々な猫の写真や絵が飾られていた。カウンター席に座ると、すぐに黒い猫が現れ、マリアの足元にすり寄ってきた。


「ネグロ、久しぶり」


 マリアは猫を抱き上げた。真っ黒な毛並みと金色の瞳を持つこの猫は、店の名前の由来だった。


「こちらが噂の看板猫ね」


 紗季は早速カメラを取り出した。ネグロはマリアの腕の中でリラックスし、カメラを気にする様子もなかった。紗季はいくつか写真を撮った後、カメラをしまった。


「今夜は仕事抜きで楽しみましょう」


 麗子が提案した。


 三人はスペインワインとタパスを注文した。テーブルには次々と小皿料理が運ばれてきた。オリーブとアーモンド、ハモン・セラーノ、チーズの盛り合わせ、そして海老のニンニク炒め……どれも素朴ながら風味豊かで、ワインとの相性も抜群だった。


「マリア、あなたの小説のことをもっと教えてくれる?」


 紗季は興味津々で尋ねた。


「私の『灰色の探偵』シリーズは、グリスという名の猫が主人公なの。彼は人間の言葉を理解し、飼い主のマリアーナと一緒に事件を解決するのよ」


 マリアは目を輝かせて説明した。


「面白そう! 猫が探偵なんて」


 紗季は感心した。


「実は、猫は優れた観察者なの。彼らは人間が見落とす細部に気づくし、感情の機微も敏感に感じ取る。だから探偵に最適なのよ」


 マリアの言葉に、紗季は深く頷いた。彼女自身、カメラマンとして同じような視点を大切にしていた。


「あなたは? どうして猫の写真を撮ることにしたの?」


 マリアが紗季に尋ねた。


「私はもともと風景写真家なの。でも、最近は人物や動物にも興味が出てきて……特に猫は不思議な魅力があるわ。独立した存在なのに、人間との絆も持っている。その二面性が面白いと思って」


 紗季は少し照れながら答えた。


「素敵な視点ね」


 マリアは紗季の手を取った。「あなたの写真集、完成したら是非見せてね」


 三人は夜遅くまで話し込んだ。マリアはスペインの文化や歴史について話し、麗子はスペイン在住の日本人としての体験を語り、紗季は日本の猫事情について説明した。会話は自然と流れ、あっという間に時間が過ぎていった。


 マリアは自分のホテルに戻る前、紗季と麗子にメールアドレスを渡した。


「連絡を取り合いましょう。もしかしたら、次の小説であなたたちをモデルにするかもしれないわ」


 マリアは微笑みながら言った。


 ホテルに戻る道すがら、紗季は麗子に言った。


「素敵な人だったわね。こんな出会いがあるなんて思わなかった」


「旅の醍醐味よ。予期せぬ出会いが、新しい物語を生み出すの」


 麗子の言葉に、紗季は心の中で同意した。この旅で出会う猫たちだけでなく、人々との交流も、彼女の中に新しいインスピレーションを呼び起こしていた。

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