第2話:居場所

 最初は驚いた。何しろ一度すれ違った見ず知らずの人間がダッシュで戻ってきて声を掛けてくるのだから。

——なあ! その靴どこで買った?

——え、東京の原宿って所だけど……

——マジかよ、こっちでは売ってないのか? 超かっけーじゃん!

——ありがとう。あなたのブーツもクールだよ

——だろ? じゃあな!

 スカイブルーの髪を立てた男は、笑顔で去って行く。


 ニューヨーク市マンハッタン区、正確にはマンハッタンのダウンタウンに来てから、こんなことばかりだった。

 青野一華が日本以外のどこかに『脱出』しようとした時、ニューヨークは候補のひとつでしかなかったが、決定打となったのが十六歳の時のホームステイだった。宿泊先はニューヨーク市クイーンズ区だったが、サブウェイに十五分も揺られればすぐマンハッタンに行ける。

 最初に英語学校の仲間とタイムズ・スクエアに赴いた時は、正直どうしようと恐怖すらした。何故なら、憧れていたニューヨークに対して、何の感慨も湧かなかったからだ。無論、世界一有名な電飾、多くの観光客、ストリート・パフォーマー、ドラマや映画で幾度となく目にしたあの光景を目の当たりにしている、という感動はあれど、からだ。

 しかしクラスメイトの案内でダウンタウン——正確にはユニオン・スクエアから徒歩で徒歩で南下していくにつれて、一華は全身の肌がびりびりとするほど空気と雰囲気の違いに圧倒されていった。


 そんな中、横断歩道を待っている最中に、向かい側のがたいのいい白人男性が妙に自分を見ているように思えて小首を傾げていたら信号が変わったので歩を進めた。すると件の男性が距離を詰めてきて、軽く手を上げ、

——俺もそいつら大好きだぜ!

 と、つられて挙手した一華の手のひらをぱちんと叩いて歩いて行った。その時初めて一華は彼が自分が着ていたイギリスのバンドのTシャツを見ていたことに気づいた。思わず笑みがこぼれる。


 そろそろ帰ろうか、という流れになりサブウェイに乗り込むと、ライトブラウンでセミロングの髪にスーツ姿の白人女性が一華を見て目を見開いた。

——ちょっとあなた!

 物凄い剣幕だったので、一華は彼女が激昂していると思い込んで震え上がった。

——その白いハイライト、ブリーチしたの? 凄くきれいな色じゃない!

 英語で所謂「メッシュ」を「ハイライト」と呼ぶことは知らなかったが、質問の意味は分かった一華は、その女性が怒っているどころか自分のヘアスタイルを評価してくれているのだと悟り笑みを浮かべた。

——これはエクステです、ピンで着脱可能の。ほら。

 と言って、パチンと一房の白いメッシュを外してみせると、彼女はオーマイガーッシュ! と大声で叫び、

——こんなにキュートで便利なものがあるなんて知らなかったわ!

——東京で買ったんです。こっちでは見たことないですけど……

——ネットで探してみるわ! ありがとう! 良い夜を!

 その次の駅で、彼女は降りていった。



 高校を卒業し、正式にニューヨークにやって来て、英語学校を経てからニューヨーク市立大学の一校に入学、二年生ソフモアに進級する頃には、一華は完全にこの街の住人となっていた。

 街で声を掛けられることは日常茶飯事になっていたし、逆に一華からも積極的に声を掛けるようになっていった。

 また、飲食店などで細かい注文をする癖も身についた。さもなくばいい加減な品を出されるからだ。

 他にも一華が感動したり美しいと思った事象は多々あったが、パンクスを筆頭に若者が多くたむろする地区を、数え切れないほどのスタッズの打たれた革ジャンに革のパンツを穿いた五十代と思しき禿頭の男性が、肩に大きなラジカセを担いで大音量で「アナーキー・イン・ザ・UK」というパンクソングを流しながら闊歩しているのを目にした時、そしてそれを周りの人間が自然と受け入れていると気づいた時、


——私はここで生きるために産まれてきたんだ


 という想いを確固たるものにし、NYCニューヨーク・シティを自らの居場所として愛していた。

 セカイジョウセイなるものが悪化し、両親から帰国命令が出されるまで。 

 

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