私はどこでも異邦人 -except in NYC-
灰崎凛音
第1話:らしくない
この国で求められるのは如何に多数派に入るかであり如何に「右に同じ」と言えるようになることであり如何に「本音と建前」という独特で湿度の高い伝統を遵守するかである。
「出る杭は打たれる」という警句以前に「出る」という選択肢すら頭に浮かばないよう教育され、しかしながら同時に「個性」という他者との線引きも持ち合わせよと要求されるが、この「個性」が大多数から掛け離れ過ぎていたり余りにも独自性の高いものだと、それらは職人技のように伐採されてゆく。
だが、中にはそのシステムに早々に勘付き構造自体から逸脱する人種も少なからず存在し、
一華にとって手痛かったのは今のアルバイトで要求されるのが単なる英語力と事務のスキルだけではないことと、彼女が何よりも忌み嫌う『日本人特有の陰湿さ』が頻発することだった。
東京都内と言われても疑念を抱いてしまう古い住宅地の英会話教室で、一華は講師兼事務として採用され現在試用期間中だ。
「青野さん、ちょっといい?」
事務の先輩でありマネージャーでもある
「昨日ね、青野さんが事務の間、緊張もあると思うんだけど、笑顔が足りないかなぁって思って。特に子供は大人の表情に敏感だから、今日から気をつけて」
無言で首肯したものの、一華はとある保護者の顔を脳裏に浮かべていた。一華は昨夜ギリギリまで残業して帰ったのだ、吉原に文句を言えるのは最後のレッスンを受けていた男児の母親しかいない。
——笑顔が足りない? なんで私に直接言わないの?
日本人のこういうところが嫌いだから私は見限って出て行ったのに、と一華は歯軋りしたい思いだった。早く自分の街に帰りたい、といくら祈っても、それは容易なことではい。
今日、午前中は吉原が別の教室に行くので事務仕事に徹し、午後にキッズ英会話が一コマ、中学生のクラスが二コマ入っている。それが終わればちょっとした雑用と閉店作業だが、事務の間、つまり他の講師が授業を行っている間も別案件があって、それが最も苦痛であり胃が重くなる仕事であった。
朝十時に教室が開き、一番手の子供たちが三名、まだ日本語ですらない声を挙げながら入室してくる。その音塊には堪えられるようになった。問題は、その次に入ってくる彼らの保護者——母親群だ。
「Good morning, everyone!」
一華はとびきりの笑みを浮かべて子供らに声を掛け、
「おはようございます!」
と保護者には一礼した。
「せんせーおはよー」
「ぐんもにんぐーせんせえぇ」
内心で『Speak English!』と叫びながらも、一華は笑顔を保ち、生徒の児童三名が手渡してきた出席カードにスタンプを押していく。程なくして教室のドアが開き、カナダ人のスザンヌという白人女性が手招きしたので、児童らはわーだとかぎゃーだとか声を発しながら雪崩れ込んでいき、扉は閉められた。
——ここからがキツいんだよな。
一華は胸の奥底で呟き、簡単な事務作業に戻った。午後のキッズ英会話の教材の確認、前回までの進捗の確認、中学生の二組は生徒のレベルに差が出てきているので同僚に相談したかった。
同時進行で、電話対応をしたり、近隣の小中高で何かがあれば適宜フレキシブルに対応しなければならないのでローカル・ニュースも確認しなければならない。
「えーと、青野先生、でしたっけ」
遠慮がちな、しかし猜疑心に満ちたトーンでカウンター越しに声を掛けられた。
必死に仕事をしていたからまた表情が硬くなっていたかもしれない、と思ったので即座に余所行きの笑みを浮かべた。
「はい、青野一華と申します」
「先生はアメリカに留学されてたんですよね? TOEICは何点ですか?」
ぽとり、と音がした気がした。顔面から表情が落ちた音だ。聞いてきたのは化粧の濃い三十代前半の女性だったが、おそらくはまだ二十三歳の一華が頼りない子供のように見え、ましてTOEICがビジネス英語のレベルを測るテスト、対してTOEFLが一華のようにアメリカの大学への進学を希望する者が受けるテストであることを知らないのだろう。
しかし、直前まで全神経を事務に注いでいた一華はこの突然の変化球に言葉を失ってしまった。
「あの、TOEICは受けていません」
ようやく出てきた言葉はほんの少し震えていた。目の前の女性のブラウンのアイラインにばかり目が行ってしまう。
「TOEIC受けずに英会話講師ってできるの?」
後方から少々荒い声が飛んできた。ソファに座っていたもうひとりの保護者だ。
「わ、私はニューヨークの大学からその東京キャンパスに編入し、きちんと卒業しています。TOEICを受けたことはありませんが、英検準一級でのスピーキングテストは満点で合格しました」
「でも英検って、準一と一級のレベルに随分差があるらしいじゃない」
物知り顔で難癖をつけてきたのは目の前のブラウンのアイラインを引いた保護者だった。
一華は少し俯いて考え込んだ。何とかこの場を切り抜けて、日本人らしく、そう日本人らしく事なかれ主義で彼女たちを自分の英語話者・講師としてのレベル、或いは資格をしめやかに証明しなくては。
「確かに英検の一級と準一級には他の級とは違う格差があります。しかし、私はアメリカの大学を卒業し、この英会話教室での面接をパスして今ここに居ます。もしも私が講師として未熟に見えたりお子様を預けるに値しないとお考えなら、吉原マネージャーか他の講師、もしくは室長に伺っていただけますか?」
一華としては、「自分が何を言っても無駄だろうから、どうか客観性の高い意見を聞いてください」という意図でこの発言をしたのだが、『一般的な日本人』である彼女たちはそうは受け取らなかった。カウンターまで迫っていた女性もソファに戻り、何やら三名でひそひそと囁き始めた。
——なに? 私また変なこと言った?
「あのね、青野先生」
初めて三人目の保護者が声を挙げた。
「いくらアルバイトだからって、仕事してお金を貰う以上そんな風に自分のことを責任転嫁するのはこの社会ではあんまり歓迎されないわよ」
愕然として目を見開くと、教室のドアが開き、三人の子供たちがわらわらと各々の母親にまとわりついていった。スザンヌも見送りに出口まで来ていたので、保護者三名は先ほどとは打って変わって輝くような笑顔で「失礼いたしますぅ」と深く礼をしながら去って行った。
暗澹たる気分のまま昼休憩を終えたが、最初のキッズ英会話は何とかこなした。午後からは吉原が事務作業をこなすので、講師業務に集中できる。懸念であった中学生クラスの問題も、ジョージという同僚に相談したところ、一華の裁量でメンバーチェンジをしていいと言われ安堵した。
だが、決定打はそのレッスン後に起こった。女子中学生の生徒が三名、受付前で吉原と話し込んでいて、一華はその間レッスンの振り返りを済ませ、そろそろ終業作業に入ろうか、と考えていた頃合いだった。
「ガチで焦ったよー! スマホ忘れたと思ったもん!」
ふと、中学生の甲高い声が一華の鼓膜を突いた。思わず頭を上げるとその生徒と目が合ったので微笑んだ。そこで吉原がこう言ったのだ。
「青野先生、今忘れ物の話をしてたんだけど、『忘れる』って英語でなんて言うか、この子たちに教えてあげて?」
即座に一華は背筋を伸ばし、自然な笑みで、しかしニューヨーク訛りで『forget, forgot, forgotten』と快活に発してしまっていた。
アメリカでは「T」が『落ちる』とよく言われる。イギリス英語ではきちんと発音されるのだが、アメリカ英語は時に「T」の音が日本語で言う「ラ行」に近いくらい緩くなってしまう。特にニューヨーク・アクセントとなると、ラ行すら通り越し、消えてしまうことも多い。
最初からニューヨークに行くことを目的に英語を勉強し始め、二年以上をニューヨーク州ニューヨーク市で過ごした一華が放った『forget, forgot forgotten』をあえて片仮名にするのであれば、
「フォーゲッ、フォーガッ、フォーガッンン」
となり、当然ながら中学生三人はぽかーんとしてしまった。一華もその表情を見てはっとしたが遅かった。吉原がすかさず、
「青野先生はネイティブ発音だから今みたいになるのよ。フォーゲット、フォーゴット、フォーゴットゥンなら分かるわよね?」
と完全な片仮名で言うと、彼女たちは納得し、笑顔で帰って行った。
——レッスン中は気を付けてるのに!
一華は悔いたが、そんな隙も与えずに、吉原に声を掛けられた。
「青野さん、ちゃんと生徒さんに分かるように発音してくれる?」
その眼差しには明らかな侮蔑が孕まれていた。なお、吉原の英語レベルは中学か高校生レベルだ。
「発音に自信があるのは分かるけど、まずは生徒さんに聞き取れるようにしないと」
耳を疑った。
——ここは英会話教室でしょ? ネイティブの発音に慣れるための場所じゃないの?
教室内を清掃しながら、一華は先ほどの吉原の発言に疑念を通り越して怒りを爆発させていた。
——確かに私はニューヨーク訛りがあるけど、ジョージだって南部訛りが強いしスザンヌだって……
『イチカ、ちょっと話せるかな?』
後ろから英語で声を掛けてきたのは、室長にして講師でもあるここの責任者、トーマス・ハワードだった。長身の白人男性で年齢は四十代半ば、本人曰く日本人の血も入っているらしい。
『大した話じゃないし、強制ではないんだけどね』
バックヤードまで行き、二人きりになった途端、トーマスが声のトーンを全く変えずにそう切り出した。一華はただえさえ怒り心頭だった。話の展開も大体読めていた。
『イチカはTOEICを受けたことがないんだよね?』
『ないです。履歴書に書いた通りです』
『受けてみるつもりはない?』
『ここの生徒さまに、ビジネス英語は必要ないかと』
『でも、日本ではTOEICを持ってると有利なんだよね』
吐き気がした。どこまでも柔らかいトーマスの猫撫で声と、その内容に。
『辞めます。これまでのお給料は日割りでいただければ』
『イチカ、どうした急に!』
『どうしたもこうしたもねえよ‼ 私はイングリッシュを教えるために雇われたんだ、ジャングリッシュやカタカナじゃない! 資格でしか人を見極められないファッキン・ジャパニーズなんかこっちから願い下げだ‼』
愕然とするトーマスや、大声を耳にしたであろう吉原を尻目に、一華はすっきりした様子で手早く身支度をして教室を辞した。
このようなスタンス、言動、アティチュードの一華に対して皆が口を揃えて言うのが、
——日本人らしくないね
というフレーズであった。
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