夢の世界
hiromin%2
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N氏の診療所に、奇妙な患者が訪れました。
男は、ボサボサ頭で不精ひげを生やし、茶色のシミが付いたチノパンと、色あせたセーターを着ていました。何より、持参の品が麻のトートバックだけで、それを大事そうに抱えながら入室したのです。何だか年だけとった子供みたいだと、N氏は思いました。
「本日はどうされましたか?」
「実は、睡眠に関して困ったことがございまして」
神妙な面立ちで、男は切り出しました。緊張のためか声が上ずっていたので、N氏はつい笑いそうになりました。
「寝つきが悪いとかですか?」
「いえいえ、まずはこれを見ていただきたいのです」
すると男は、トートバックをガサゴソと捜索しだしました。N氏はその様子を不信がりましたが、指摘するわけにもいかず、じっと見守ることにしました。しばらくして、男はバックの中から1冊のスケッチブックを取り出しました。
「何でしょう、それは」
「スケッチブックです」
「そんなことは分かっているのですが」
「ちょっと待っててくださいね」
男はパラパラとスケッチブックをめくり出しました。一向に症状を言わないので、N氏はだんだんと腹が立ってきました。
「どういった要件で?」
「見ていただきたい絵があるのです」
「絵、といいますと?」
「ちょっと待ってくださいね、あっ、ありました!」
男は突然、はしゃいだような大声を出したので、N氏はびっくりしました。
「やや、病院なのであまり大きな声は出さないでください」
「すみません。こちらなのですが」
男は1枚の絵を指し示しました。絵といっても、画用紙いっぱいを、黒い水彩絵の具で塗りつぶしただけです。大のおとなが、病院で、なぜこんな絵を? N氏は気味悪がりました。
「あれえ、何だか深刻そうですな。ストレスで悩んでいるのですか?」
「まあ、部分的にはそうかもしれません」
「それより、いったい何の絵ですか?」
「夢日記って知ってますか?」
「あれでしょう、夢で起きたことを文字で記すという」
「そうそう。僕はそれを絵で実践しようと思いましてねえ」
「なるほど。つまり夢で見たことを絵で表現しているのですね」
「そうです」
「ただ、真っ黒な絵ですな。悪夢にうなされた、ということですか?」
「いえ、その逆なんです」
「といいますと?」
「実は最近、夢を見なくなってしまったんです。就寝時、目をつぶったと思った次の瞬間には、もう朝になっていまして」
N氏には男の悩みがよく分かりませんでした。
「それの何がいけないんです?」
「とんでもありません! 見れないんですよ、夢が」
N氏は少々考え込みました。
「ええと、私たちが眠っているとき、レム睡眠とノンレム睡眠という、二つの周期が訪れるんですな。簡単に言うと、レム睡眠が浅い眠り、ノンレム睡眠が深いで眠りです。レム睡眠の方が鮮明な夢を見るので、つまりあなたはよく眠れているということですなあ」
「そうだったんですか」
男はがっくりと肩を落としました。N氏はその様子をいぶかしがりました。
「夢が見たいんですけどねえ」
「そういえば、お仕事は?」
「フリーターです、実家暮らしの画家です」
「なるほど」
このとき、N氏はあることをひらめきました。
「良い解決策がありますよ、夢を見るための」
「本当ですか!」
男はしみったれた目をらんらんとさせました。本当に子供みたいだと、N氏は思いました。
数か月後、男は診療所へ再び来院しました。今度は上下スーツ姿で、ひげをそり、身なりが整っていました。ずいぶんと大人らしい恰好でした。ひげのせいで気づきませんでしたが、頬がいくぶんかこけていました。
「お久しぶりです、調子はどうですか?」
「はい、あなたのアドバイスに従ったら、毎日夢を見るようになりまして」
「それはよかったです」
N氏はにこやかに笑いました。男はボンヤリとしています。
「絵はどうでしょうか」
「ああ、ちょっと待ってくださいね」
男は仕事カバンから、けだるそうにスケッチブックを取り出しました。
「昨日の作品はこれです」
「おお、きれいじゃないですか」
家族づれがお花見をしている絵でした。以前とちがって、赤、青、黄など、カラフルな色彩で楽しげな様子が表現されています。何より笑っている子どもの表情が、はっきりと分かりました。こんなに絵が上手かったのかと、N氏は驚いたのです。
「すばらしい絵ですね」
「はい、そうですか」
「さぞ喜ばしいことでしょう? 良い夢を見るようになって」
「そうかもしれませんね」
男はずいぶん白々しいのです。N氏はだんだんと腹が立ってきました。
「ところで、今日は絵を見せるために、わざわざここまで?」
「いえ、そうではないのです」
「といいますと?」
「実は、あなたに言われた通りサラリーマンになりまして、もう三週間になります。どうも最近、寝つきが悪くって」
夢の世界 hiromin%2 @AC112
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