わたしはいつもえがおで

 私はいつも笑顔でいました。

 母親とおぼしき女性は父親らしき人に怒ったために死んでしまったし、おばあちゃんも「いつも笑顔で、人に優しくするんだよ」と繰り返し教えてくれましたから。

 両親のいない私、おもちゃや雑誌のことをよく知らない私、年を経るにつれて寝込むことが多くなったおばあちゃんに代わり家事をする私。皆のように遊べない私を、同年代のこどもたちはからかったり遠ざけたりしました。それでも笑顔で親切にしていたら時々はコンビニのおかしというものを分けてくれるのだから、おばあちゃんの教えは正しかったと思います。

 笑顔を作る筋肉はもう溶けて魚のお腹の中。名残惜しそうに頬にキスする小魚がかわいらしくて私は今も笑っています。

 頬にキス。幸せな思い出はそこから始まりました。


 大学に入学するのを機に都会へ出ました。私の背を押してくれたおばあちゃんには今でも感謝しています。

 あの人との出会いは確か新入生歓迎コンパ? 人の紹介だったでしょうか? 覚えてはいないけれどとにかく夜でした。

 私の地元ではバスが来るのは一時間に一回。辺り一面が田んぼで、夜九時を過ぎると地上には街灯が点々と並ぶ以外の光はありません。

 それなのに街は、満天の星空を切り取って地面に敷き詰めたみたいに明るい場所でした。スリとか通り魔とかが出るのだとテレビで見たことがあったから、私はおばあちゃんにもらった鞄を両腕でしっかり抱きしめて歩きます。待ち合わせ場所は駅前の広場。改札を通りすぎたらまっすぐ歩けばいいから迷子にはならない、幹事の人はそう言っていたのですが、電車のドアと広場の間には濁流が横たわっていました。

 人、人、人、人。

 昔おばあちゃんが話してくれた洪水のようだと、当時の私は呆然としながら思いました。自由に形を変える水でさえ洪水になれば車や家を押し流してしまうというのに、水より固い人体が寄り集まりてんでばらばらに動くのならどうやってまっすぐ進めばいいのでしょう。

 戸惑っているうちに背中を押されます。肩を小突かれます。まっすぐよりはだいぶん右に流されて、もとの位置に戻ろうとすると舌打ちまで飛んでくる始末。遠ざかっていく目的地が涙でにじみました。


「大丈夫?」


 ふとそんな声が降ってきました。

 もみくちゃにされていた体が楽になります。誰かが私の背後にいて濁流から守ってくれている。がちがちにこわばった肩を誰かが優しく抱いてくれている。

 見上げると茶髪の男の人と目が合いました。


「君も■■■に行くんでしょ。一緒にいこう」


 私と同年代らしき男の人。どこかで会ったでしょうか。思い出せない私を気にもとめず、そのひとは私の前に立ち、私の手を引いて歩き出しました。

 私ひとりではどうにもならなかった濁流が、そのひとがいるとまったく重さを感じさせません。魔法のような光景に呆然としていると男の人が振り返って笑いました。

 目的地に着くまで私たちの手は離れず、時折男の人は私の様子を確かめてくれ、私はぎこちない笑みで応じました。

 集合時間ぎりぎりで目的地に着くとその手は離れてしまいます。居酒屋に移動した私は初めての場所におっかなびっくりで、でも気づくと男の人を目で追っていました。

 自己紹介の場所だからいろんな人が話しかけてきます。私も私なりに一生懸命話しましたが、皆私から去っていって別の人どうしでグループを作っていきました。


 ひときわ大きな輪の中心にはあの男の人がいます。


 私にとってはおなじみの光景。私の世界には私とおばあちゃんだけがいて、家の外にいる人は皆別世界の人間。私が人の輪に入れないのは違う世界の住人だから仕方がない。

 なのに私はあの人から目が離せませんでした。別世界にはいつも華やかな人がいて話題の中心になっていたのに、今まではそんなの気にも留めなかったのに、あの世界に私がいないと思うと胸がしめつけられるようでした。

 繋いだ手のぬくもりにすがるように拳を握って、でも私は隅っこの席から動けないまま。誰かにお酒を勧められたような気がしますがよく覚えていません。

 気がつくと人の声がずいぶん遠ざかって、あたりは真っ暗で、お座敷は公園のベンチに変わっていました。ペットボトルを差し出す手は大きくごつごつとしていて、でも爪がきれいに磨かれていました。


「送っていくよ。家どこ」


 あの人の声。

 私はあの男の人にもたれ掛かっていたのです。

 目を丸くする私にあの人は微笑みかけ、


「かわいいね」


 そっと頬にキスをしてくれました。

 佐竹トシヤ。

 それがあの人の、私の運命の人の名前でした。


 魚の群れが陽光を受けてきらめいています。水の底で見上げるそれはとても綺麗だけど、そこに混じりたいとは思いません。

 私はここでいい。水の流れも魚の群れももうあのホームの濁流みたいに私を押し流すことはありません。真っ白できれいな骨は半ば砂に埋まり岩に支えられ、しっかりとここでとどまっています。



 ………………

 ■日に発見された遺体の身元が■日、警察の調べにより佐竹ノリコさん(27)と確認された。遺体の一部は近隣のごみ捨て場で、残りは山中で発見された。佐竹さんは夫から行方不明として捜索願が出されており、警察は事件の詳細な経緯について捜査を勧めている。

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