感熱紙のラブレター

戸波ミナト

わたしはかなしくない

 両親との思い出はほとんどありません。目の前を行き過ぎる泡のように私から抜け出たのかもしれないし、最初からなかったのかもしれません。

 大人の男女といっしょにいる一番古い記憶は夜のアパート。女の人が男の人に詰めより、男の人が怖い顔をして女の人を突き飛ばします。女の人は長い髪を揺らめかせて階段を転がり落ち、そのまま動かなくなりました。両親だといって見せられた写真にはあの男女そっくりのふたりが写っていたからあれが私の両親だったのでしょう。

 三歳くらいだったと思います。私はテレビを見ていました。うるさい怒鳴り声より着ぐるみが歌う童謡のほうが好きでした。

 どんな歌だったでしょう。ちょっと思い出せません。

 何かのはずみで私の顎がかくりと開かれ、小さな泡が光に向かって昇っていきます。


 私が大人になるまで育ったのはアパートではなく古い一軒家でした。全体的にちょっと斜めになった家は近所の子供たちからお化け屋敷と呼ばれていたし、私が玄関から出てくると知らない人が『こんなところに人が住んでいたの!?』みたいにぎょっとする事もあったけど、私は自分の家が大好きでした。

 私の世話をしてくれたのはおばあちゃんでした。いつもにこにこしていて、しわしわの細い手でおやつもごはんもみんな作ってくれる優しい人。お金の管理もきちっとしているしっかりした人でした。

 私が学校から帰ってきたとき、おばあちゃんはテーブルに細い紙切れをいっぱい並べてノートになにかを書いていました。

 何をしているのと聞くと、おばあちゃんはにこにこして答えてくれます。


「これはレシートっていってね、お買い物をしたら何にいくらお金を使ったかを覚えておくためのものだよ。忘れないよう、使いすぎないよう、ちゃんととっておかないと」


 おばあちゃんは私の頭を撫でてくれて、レシートに書かれた文字を指差してくれました。

 これは遠足の前日に買った鶏肉。ほんとうは唐揚げが良かったけど揚げ物は体に悪いっていうし、おばあちゃんが筑前煮を作ってくれました。

 これはお友達と遊ぶ時に持っていくおやつ。いつもは手作りの干し芋や干し柿を自分のぶんだけ食べているけれど、大きな袋入りのお菓子が半額の時だけは買ってもらえます。特別なおやつの記録が残っているとうきうきした気持ちがよみがえりました。

 何十枚というレシートのなかに私たちの生活の記録が詰まっている。それが子供心に不思議というか、これは特別な紙なんだという思いが胸に刻まれました。


 おこづかいをもらうようになると私もレシートを取っておくようになりました。その習慣はずっとずっと変わりませんでした。

 あの細長い紙切れに一番最初に記されたのはなんだったでしょう。

 お菓子? 漫画? 鉛筆?

 こぷこぷと上っていく泡とともに記憶が抜け落ちていきます。

 かなしくはありません。

 私は海の底。泡の行く先は光に満ちた水面。その光景はとても美しいのですから。


 ……………

 ■月■日、■市内のごみ捨て場で女性のものと思われる指が発見された。発見者は近隣住民で、散歩中に不審な物体に気づき警察に通報した。

 発見された指の身元は不明。警察は近隣住民への聞き込みを進めている。

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