短編小説「おつかれさま、だけで」
セクストゥス・クサリウス・フェリクス
「お疲れさま、だけで」
東京の空は、鉄の皮膚のように冷たかった。
星の光でさえ、その硬さに弾かれて、夜の底に沈んでいた。
新宿駅南口。午前4時17分。
終電はとうに過ぎ、タクシーの灯りも見当たらない。
ガラスとコンクリートの森に、人の気配だけが影のように漂っている。
コンビニ前のベンチに、一人の男がいた。
西川雄太、28歳。スーツは皺だらけで、ネクタイは緩み、シャツの襟元には汗の跡。
指先は震え、頬には過度な疲労からくる痙攣が走る。
手にしているのは、まだ開けていない缶コーヒー。
その触感だけが現実を繋ぎとめる錨のようだった。
「もう何日目だろう」
誰にも聞こえないように、砕けた声で呟く。
先週の企画から連日の徹夜。客先との打ち合わせ。数字の精査。
携帯には未読のメール三十件。返信すべき連絡が山のよう。
帰りは常に終電を逃し、朝帰りが続いている。
目の奥がじんと痛み、視界がぼやける。
「明日も、いや今日も...8時には会社だ」
その言葉は霧のように虚空に溶けた。
そのとき——
くたびれたリュックを背負った女性が、同じベンチに腰を下ろした。
30代半ばだろうか。制服の胸元には「介護センター」の名札。
「佐藤美津子」と読める。
白いナースシューズは泥で汚れ、髪は簡素にまとめられている。
目の下のクマが、長時間の勤務を物語っている。
美津子は立ち止まることなく缶コーヒーを取り出し、開けた。
「カシュ」という音が、ガラス張りの世界に小さな亀裂を入れるように響く。
ほんの一口だけ飲んだ後、つぶやくような、けれど意思の込められた声。
「お疲れさま」
雄太は驚いて振り返った。
まるで別の惑星から来た言葉のように、その一言が耳に残る。
美津子は特に雄太を見つめるわけでもなく、ただ夜明け前の空を見上げている。
それ以上は何も言わない。
缶を両手で包むように持ち、その温もりを顔に近づける。
小さな湯気が彼女の疲れた顔を淡く揺らし、ほんの少しだけ柔らかく見えた。
沈黙が二人を毛布のように包み込む。
雄太の目の奥から、熱いものが押し寄せてきた。
いつから誰にも「お疲れさま」と言われなくなったのだろう。
上司からは「まだ終わってないのか」。
同僚からは「次はよろしく」。
客からは「当然の結果だ」。
嵐の中で張り詰めていたロープが、静かにほどけていく感覚。
あと少しで何かが壊れるところだった。
力なく手元を見ると、まだ缶コーヒーを握りしめていた。
指の関節が白くなるほど強く握っていたことに、今更ながら気づく。
雄太はゆっくりとプルタブを引いた。
「カシュ」
「……ありがとうございます」
それだけを言って、缶を口に運ぶ。
冷えていたはずのコーヒーが、冬の日差しのようにあたたかい。
美津子がリュックを背負い直す音。
立ち上がる足音。
何も言わないが、別れ際に小さく頷いた。
雄太はその背中を見送った。
涙がひとすじ、二すじ、頬を伝う。
拭おうとした手が途中で止まる。久しぶりに感じる自分の感情に、ただ身を委ねた。
東の空が、少しずつ色を変えていく。
最初は鋼鉄のような灰色から、やがて薄紫へ。
ビルの谷間から、砂糖水が浸み込むように新しい光が差し込んでくる。
美津子の姿はもう見えない。
でも、彼女が残した言葉は、空気中に溶け込んだままだった。
「行こう」
雄太は立ち上がり、空の缶を捨てた。
冷たかったコンクリートの地面が、今は少しだけ温かく感じる。
都会の朝が、ガラスの隙間からこぼれる光のように、
静かに、でも確かに、彼の心に触れていた。
(終)
短編小説「おつかれさま、だけで」 セクストゥス・クサリウス・フェリクス @creliadragon
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます