素直になれない私たち

血飛沫とまと

素直になれない私たち

 私はニュースサイトのページを開いたスマホを握って、カホ先輩のところへと走った。

 カホ先輩は地べたに座り込んで、ベースのチューニングをしている。


「カホ先輩、見て、ほら!」


 先輩に向かってスマホの画面を突き出す。


「なに、これ?」


 スマホの画面には『パートナーシップ制度』についての記事が写っていた。

 現在多くの自治体に広まっている、同性・異性を問わず、実質婚姻関係を認める制度だ。法的な権利、義務の範囲では実際の結婚とまったく同じとはいかないが、自治体の要領の内で家族として扱う制度のことだ。


「…………」


 カホ先輩は辺りをキョロキョロと見回す。今現在、部室である第二音楽室には私たちふたりしかいない。

 それから先輩は私にキスをする。


「……それで? これがどうしたの?」


 唇が離れてから、カホ先輩が言った。私を慈しむような眼が優しくて、心地よかった。彼女の眼が好きなんだと、顔を合わせるたびに思い出す。


「実質結婚みたいなもんなんだって! やろうよ、ふたりで……」


「…………」


 カホ先輩が気まずそうに視線を落とした。綺麗な瞳が見えなくなって、とたんに私は不安な気持ちになる。


「……あ、とか、言ってみたりして……」


「本気なの?」


 もう一度顔を上げた先輩の表情は、なぜか少し怒っているように見えた。

 だから、私は慌てて表情を取り繕う。


「……いや……、ばかだなあ! カホ先輩! 冗談だって……!」


 わざと大袈裟に笑って、ベースの弦をつまんでいる先輩の腕を優しく叩く。


「この関係、ファッションでしょ? やっぱり、普通に金のある男捕まえてさ、子ども作って、普通に生きたいでしょ?」


 カホ先輩はあいまいに微笑んで、言った。その優しい表情が、私を理解しようと努める心が、余計に私の心臓を切りつけた。


「……普通……普通、ね……、うん、そうだった」


「スズカ? どうしたの?」


 カホ先輩の細い指が、私のもみあげの毛をすくい上げて耳にかける。少し覗き込むようにして、先輩は私の表情を探った。

 今の顔だけは絶対に、先輩にだけは見せたくなかった。

 だから、先輩のか弱い手を取って、私の耳元から追い出す。すると耳にかかった髪が重力に押し出されて、私の醜い顔を隠した。


「ううん、なんでもない。――私もう帰るね、カホ先輩」


 立ち上がって、踵を返した。この顔をうっかり見られてしまう前に、早くこの場所から逃げ出したかった。

 今の私の顔は、それはもう酷い顔なのだろうと分かる。告白するような意気地もないくせに、勝手に失恋した気になっている、わがままな女だ。


「ん、そう。気をつけてね」


「うん、ばいばい」


 私は駆けだした。


 もう、来ないね。もう、会わないね。もう二度と、こんな顔見せないから。もうこれ以上、あなたを嫌いになりたくないから。つらいのは、もう嫌だから。

 この期に及んで、まだ私の精神は子どものままだった。いや、早く大人になろうって背伸びするから、つらい思いをしたんだ。


 だから、だからもう、会わない。間違った人を好きになっちゃったんだ、私。





 先輩との関係が、今の状態になったのは三か月前からだった。

 私は入学して、軽音サークルに入って、カホ先輩に出会って、それからもうずっと好きだった。


 そのころからどうしてか私は、いわゆる「大学生らしい恋愛」つまりは大人の恋愛関係みたいなものに憧れていた。でも、先輩が都合がよかったから好きになったのでは、決して、ない。先輩のことが、本気で好きだ。それだけは、嘘偽りのない本心だ。


「ねえねえカホ先輩、今度レズってみようよ!」


 ガキの私にとって、大人の恋愛というのは、つまりそういうものだった。まるで、身体の関係なんてなんでもないことのように、処女のくせに、かっこつけた。


「れず……何……?」


「だーかーらー、レズセ、してみよっ」


 軽音サークルに入ってからはカホ先輩と仲良くなるために積極的に関わった。飲み会も何度も一緒に行って、先輩もよく懐く後輩の私を可愛がってくれた。その優しさに甘えて、私はたちの悪いちょっかいを何度もした。急に家に遊びに行くのも、一度や二度ではなかった。


 私もそうだけれど、軽音サークルは変わった奴でいることに務める人間が多い。変わったものとか、新しいものが大好きな人が。

 髪が白くなるまで脱色して、両耳ピアスだらけ、しまいには舌ピまで開けているカホ先輩も、変わった人間に思われたいタイプなんだということを見抜くのは簡単だった。


 そのころの私は狡猾だった。


「…………」


「あれれ、カホ先輩、耳赤いよ……? まんざらでもない感じ……?」


 ――まあ、満更でもないのは私だけでしたが。


 ソファに座り込む先輩に乗りかかって、首元にキスをした。


「……そういうの、やめなって……」


 カホ先輩は手で顔を隠した。赤くなった顔を、隠した。


「ね、いいでしょ? 一回だけ」


 入学して、仲良くなって、一か月ほど。

 好きで好きで仕方なくて、一回でいいからえっちがしたかった。私は変わったことが好きなだけの女の子ぶって、変わったことが好きな先輩の優しさに甘えた。

 先輩は優しいから、頼んだら応えてくれる。そういうところに、私は気づいていたのだと思う。だから私は甘えて、結局一度じゃ飽き足らず、セフレみたいな関係になった。


 性に奔放で同性とも寝れる、そういう少し変わった奴を気取ってるフリして、いつまでも本当に好きだなんて言えなかった。

 全部割り切った関係ってふりをして、本当は大好きだけど、そういうのは全部、心の一番暗いところに押し込んだ。


 これはファッションだからって建前さえあれば、先輩と何度でも寝られるのが、今までの私の、最大限の幸福だった。

 あまりにも、罪深い幸福。咎人は、罰を受けなければならない。だから、私も間違った人に間違った恋をして、間違った愛し方をしてしまった罰を受ける。


 だって、仕方ないじゃん。

 変わった奴を気取ってなくちゃ、面白そうだからって建前がなくちゃ、寝てくれないし。

 女なのに女の子のことが本気で好きなんて、そんなの気持ち悪いし。

 好きなんて言って、本気にして、気持ち悪がられたら、そんなの馬鹿みたいだし。

 先輩が、意志薄弱なのが悪いんですよ。可愛い後輩の私が頼んだら、全部応えてくれちゃうんだもん。

 甘えたくもなる。


 でも、そういうずるさも、先輩は見て見ないふりをしてくれて、先輩ばっかり傷つけて……。先輩は私が純粋で可愛い女の子を演じたら、それが演技だと分かってても、純粋で可愛い女の子として見てくれちゃうから。やさしくて、ばかなひとだから。

 だからもう、会わないね。もう変ないたずらも、変なプライドも、もう捨てるから。


 さようなら、先輩。

 いま心臓を切り刻んでいるこの胸の痛みも、私が先輩を愛した罰だとして受け入れる。そうすれば、この痛みすら、この孤独すら、愛せるような気がする。


 さようなら。





   *****





 ひとつ年下のスズカは、軽音サークルに新しく入ってきた、可愛い後輩だった。

 なぜか私によく懐くし、音楽の趣味も合う子だった。


 新しいものや変わったものが好きだったんだと思う。私もそうだから、分かる気がする。

 だから、やっぱりこの関係は彼女にとってずっと「ファッション」だった。同性愛ってなんだか新しい気がして、変わってる気がして、特別な気がして、そういう関係が心地よかった。


 みんなから変わった眼で見られるのが、気持ちよかった。

 あの子は、そう思っていた。


 最初の印象は、少し馬鹿なところのある、天然な子だった。いかにも純粋な感じがした。

 関わっているうちに、甘え上手だと知った。私は彼女が甘えてくるのに弱かった。どうしてって、きっと、彼女が本気で好きだったから。


 スズカに「レズセしてみよ」と言われたとき、私の心臓が飛び跳ねた。

 そのときはじめて、ああ、私はこの子のことを性的な目で見てるんだ、と気づいた。

 スズカが甘えてくるのも、懐いてくれるのも、可愛く見えるのも、可愛い後輩ちゃんだからだと思っていた。違った。私は、この子と付き合って、この子と寝て、この子と結婚して、この子と今際の時を過ごしたいと思っていたのだ。


 自分に落胆した。


 彼女の前では、もっと大人の女でいたかった。


「――それで? そのスズカちゃんがどうしたの」


 ミナミは私が「スズカちゃんのことなんだけど」と会話を始めると、なんらかの酒を一口含んでからそう聞き返した。

 休日。私はミナミのバイト先のバーへと遊びに来ていた。ひとりで。

 ミナミは高校からの仲で、大学こそ違えど定期的に会っている大切な友人だ。


「私って、人を好きになったことがなかったから、それが恋だって気づかなかったの」


「あー、あんた男嫌いだったもんね」


「嫌いってほどじゃないけど……」


「いやいや、何言ってんの。有名だったよ、ガード固いって」


 ミナミが言う。


「そうだったのかな……もしかして、私って昔から女の子が好きだったのかも……」


 だったら、スズカが特別だったわけじゃないってこと?

 それはそれでなんというか、冷酷だ。私はちゃんと、スズカが好きだ。そう言い切りたい。――女の子だからとか、男の子じゃないからとか、そういうものは関係ない。私が好きなのはスズカで、スズカだから好きなんだ、そう確信したい。


「それで、結局どうしたの? カホさん初めての恋愛に困惑中?」


「いや、その、スズカと連絡が取れなくって……」


「ええっ! それ大丈夫なの」


「分からない、大学にも来てないっぽくて、でも……」


 スズカともう一週間近く連絡が取れていなかった。大学生なんてしょっちゅう連絡を取るものでもないし、連絡取れなくなったからって何かに巻き込まれているのではないかと邪推するような年齢でもないし、でも、心配は心配。それは犯罪的なあれこれというより――、


「でも?」


「――最後の会話、なんだったっけって思い返してみたの。なんか、気になっちゃって……」


「なんの話してたの?」


 ミナミはテーブルに肘をついて話を聞くモードになる。


「『パートナーシップ制度』の話をしてた、のが最後だと思うんだよね」


「パートナーシップ制度? なにそれ?」


「まあ、なんか、同性愛者向けの結婚モドキっていうか、慰めっていうか……そういうやつなんだけど」


「へえ。その子、そんなガチであんたのこと好きだったんだ」


「やっぱり、そう思う?」


「いやいや、そうでしょ! 何言ってんの」


「…………」


 私は次の言葉が出ず、黙り込む。

 それから、スズカがどんな子だったのかを、ミナミに話した。


 スズカと初めて会った時は、正確には憶えていない。

 ただ、私が彼女を認識したのは、サークルのメンバーで行われた打ち上げだった。


 私はサークルでも別段目立つタイプというわけでもなく、尊敬されるタイプでもない。だから他の後輩ももっと優しくて可愛い先輩たちに懐く。

 けれどスズカは、なぜか最初の時から私に懐いていた。私は初めて先輩ぶる楽しさみたいなものを感じて、それなりに彼女を可愛がった。


 スズカは人懐っこいタイプだった。私に限らず、別にそれに嫉妬するわけでもないけど、どの先輩にも可愛がられていた。

 先輩連中への多少の無礼も、可愛いから、と許された。





『あっ、またやってるー!』


 ある飲み会で、もうみんないい具合になってきたころ、サークルメンバーの同級生が私のことを指さして言った。

 正確には、私ではなく、私にキスするスズカを、だ。


『やっぱり付き合ってるんだ!?』


 同級生は続けてそう茶化した。


『ばか、先輩! からかってるだけに決まってるじゃん!』


 スズカが笑う。いつも笑う。すべての不幸を取り払うような明るい笑顔で。だから、そこには嘘偽りなんてないと思っていた。


『なに本気にしてんの? カホ先輩』


 スズカが私の顔を覗き込んだ。


『うざ』


 スズカはその手の「冗談」を繰り返した。

 そういう絡みがあったうえで、例のお誘いがあり、身体の関係を持つようになった。


 けれど、彼女にとってそれは「ファッション」で「ごっこ」で「遊び」で「からかい」で「冗談」だった。

 身体の関係を持つようになってからも、念を押すように彼女は繰り返した。


『本気にしてんの、先輩? 馬鹿だなあ』





「あー、それでいつもの冗談だと思って流しちゃったんだ?」


 ミナミがそう言って、私は肯く。


「その日は、なぜだか少し強めに言い返したの。たぶん、いつもみたいに茶化されるのが怖かったんだと思う」


「…………」


「でも、でもね、あの制度の話をしてたってことは、もしかして、スズカも素直になれなかっただけで、もしかして、本気だったのかなあ、とか……私は、思ってて……」


「でも、そうだとしたらさ」


 と、ミナミが言って、私は肯く。


「あまりにも、やる瀬なくて――私がつまらない見栄だとか、特別に見られたい承認欲求とか、自分だけを守るための臆病な自尊心をもっと早く切り捨てて、もっと早く素直になってれば、スズカはまだここにいてくれたのかな」


 でも、仕方ないじゃん。と、私は言い訳をしようとする。いつも、言い訳をしようとする。

 素直になれるわけなんてない。

 女なのに女が本気で好きとか、気持ち悪いし。

 また馬鹿にされたら、怒っちゃうような気がして。もう、我慢できないような気がして。

 そんなの、年上のすることじゃないし。


 メッセを送るばかりで足が動かないのも、仕方ないし。

 だって、そんなの馬鹿みたいじゃん。


 でも、もし、あの音楽室での言葉が、あの態度がスズカの本気だったのなら、もしそうならば、私は私を許せない。


 この胸の痛みは、天罰のようなものだ。

 もう、君に会う資格もないね、私。


 さようなら、スズカ。

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