この青を、君に。
天宮リョウカ
第1話 この青を、君に。
『
元気にしていますか? もう、
思えば、もう三年。あっという間だね。
そのあたりの島では南十字星が見えると、最近、金田◯少年の漫画で知りました。病院の休憩室にある、健吾君が置いていった本です。
私は相変わらず元気にしています。
お知らせがあるので同封します。
手紙を開きながら、俺は「ふふ」と目尻を下げて笑った。
「金田◯少年って……懐かしい。今になって読んだのかよ」
俺は白衣姿で、リクライニング式の椅子をめいっぱい倒して手紙を読んでいた。
デスク上のマグカップを慣れた様子で掴み、手紙を片手に口に運んだ。
「やっぱカフェオレには、黒糖だねぇ」
そんなことを言いながら、手紙と一緒に同封されていたハガキを手にした。少しの間、思考が止まった。
その時、カラカラ、と古めかしい音を立てて、診療所の扉が開いた。
素早くリクライニング解除のレバーを引き、背筋を伸ばすと、仕事をしていたかのように診療記録のファイルを取り出した。
「健吾先生!
がたいのいい作業着姿の男が、老婆をおぶってやってきて、俺は立ち上がった。
「そりゃ大変だ。この前、暑いから気をつけてって言ったとこなのに! こっちに運んで。ちなみに今は『日射病』じゃなくて『熱中症』って言うからね」
「わかったわかった! いいから見てやって」
輝子おばぁと呼ばれた老婆は、不機嫌そうに俺を見上げた。
「立ちくらみがして膝をついただけだのに、騒ぎ立ててからに……」
俺はホッと胸を撫で下ろした。
「意識があってよかった。手遅れになったら熱中症は命に関わる。
「だからよ。ちょっと新聞取りに行ったついでに畑の手入れするつもりで」
「その『ちょっとだけのつもり』が危ないんだ。しばらく診療所で休んでもらうからね」
体を冷やしながら横になった輝子おばぁは、淡い水色のカーテン越しに、静かに言った。
「……健吾先生、ありがとうねぇ。こんな辺鄙な島に来てくれて。偉い人達が医者を連れて来るって言ってから、長い間、来なくてねぇ。
輝子おばぁの言葉に、頬がゆるんだ。
「そんな風に言ってもらえて、嬉しいよ。俺、離島で医者やるの、夢だったから。ほら、一時期ドラマとかで流行ったことあったでしょ? それ見てすげぇ憧れてさ。ま、そのおかげで同僚だった彼女に振られちゃったんだけど」
「あい! あんた、彼女も医者だったわけ?」
「ああ。東京の総合病院にいるよ」
「まさかやぁ。遠距離恋愛が辛いって、フラれたんだわけ?」
「……ああ、えっと。まぁ、そんなとこ。……む、昔の話だよ! おばぁ、病人は病人らしく、黙って寝ててください!」
「ははは! 込み入った話聞いてしまったね! そうさせてもらうさ」
その彼女からの手紙が、今、デスクの上にある。
輝子おばあの言葉に、『チク』と胸が痛んだ。
『遠距離恋愛が辛いって、フラれたんだわけ?』
実際は違う。遠距離恋愛にさえ、至らなかった。
俺と美夏は東京の大学病院で勤務していた。
彼女は未来が期待される、優秀な小児科医だった。
俺はといえば、Dr.コトー◯療所に憧れ、離島の医師の募集ばかりを待つという、どこか風変わりな内科医だったような気がする。
念願だった沖縄の離島へ行けると決まった時、デスクに向かう美夏を後ろから抱きしめて「一緒に来る?」と尋ねた事がある。その時、彼女の手元にある書類が見えた。学会で発表をするための資料だった。
彼女の将来を奪っていいのかと、急に怖くなった。俺に着いてきたら、いつか彼女は後悔する。そんな気がした。
反射的に「なんてね。冗談!」そう言って、抱きしめていた腕をほどいた。何か言いたそうな彼女の瞳から、目を逸らした。
見送りに来てくれた空港での出来事が、二人の分岐点だった。
「ねぇ? これって……、これで、お別れってこと?」
「えっと、まぁ、それは、……遠距離に耐えられるかどうかって事で……」
「何よ、それ……」
「運を天に任せて」
「運!?」
「いや……ほら、美夏、モテるし、……いい人に出会うかもしれないし……。こっちが待たせてしまう訳だから、強くは言えないっていうか」
「……待たなくてもいいってこと?」
「……そうは言ってない」
「……もういい! ……健吾君がどうしたいのか、私、全然わからない。別れたいなら、はっきり言えばいいじゃない!」
空港を行き交う人達が、美夏をチラリと見た。
涙を溜めた彼女の顔を見たら、よけいに言葉が見つからなくなって、固まってしまった。
短い沈黙の後、彼女は俺に背中を向けて歩き始めた。空港のロビーに、怒ったような甲高いヒールの音がやけに響いた。
俺は固まったまま、ただ、遠くなっていくヒールの音だけを聞いていた。
そして、連絡が途絶えた。
──仕方ないんだ。彼女の夢と俺の夢は、重ならないんだ。
そう自分に言い聞かせながら、なるべく慌ただしく時間を過ごした。彼女が恋しくて苦しくなり始めたのが、半年が過ぎた頃だった。
後悔するタイミングが、あまりにも遅すぎる。俺はやはり、人よりもどこかズレているらしい。
俺のそんな『ズレている』ところを、「可愛い」と、お腹を抱えて笑ってくれる彼女が大好きだった。
手紙を閉じて引き出しにしまうと、無性に外の空気を吸いたくなって、海に面した窓を開けた。
潮風が診療所に吹き込んで、目を細めた。
──君は、幸せでしたか?
この島の、四月の風が一番好きだ。暖かくなり始めた空気が、初夏の気配を運んでくる。
──いつも忙しくしている彼女に、この景色を見せたかった。そしたら、何か変わったのかな……。
絵の具のような濃い水色の空と、青緑色の海を見つめ、呟いた。
「……おめでとう」
手紙に同封されていたハガキをつまんで、直視しないように顔を背け、ゴミ箱に落とした。
「健吾先生ー!! でーじ鼻血出てきたぁ!」
感傷に浸っていた俺のもとに、少年が、突然駆け込んできた。
「ティッシュでも詰めときな。……なぁ、海行こう」
「はぁー!? 仕事しろよ!」
「今日はね、海に行きたい気分なんだ先生は」
「アオサつみに行くの?」
「いや、ちょっと夕日を見つめて黄昏れたい」
「なにそれ。でーじめんどくさそう。今日、担任のリナ先生も図工の材料集めにビーチに行くって言ってたよ。健吾先生来たら喜ぶかも」
「え? ……何で?」
「あ。何でもない! 言ったらだめだった……」
「何で? ねぇ! 何で!? その話、もうちょっと詳しく!」
「うるさいなぁ。自分で考えれぇ!」
診療所のゴミ箱の中では、鼻血の付いたティッシュに埋もれて、『私達、結婚しました。』と書かれたハガキの中のカップルが、幸せそうに笑っていた。
この青を、君に。 天宮リョウカ @Ryouka_A
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