黒い髪の人魚 スピンオフ2 「上海の岸辺より ~ 追憶 ~」

小田島匠

第1話 三日月は東京へ続く

 

- 上海の中心部、大学区にある名門、上海K大学から南に少し下った、黄浦江沿いのマンションの19階。チュンチュンが帰って来たところ -



 今日は友達が女子会を開いてくれて、帰りがだいぶ遅くなってしまった。

 でも、まだ、もうちょっとだけ飲みたいな。


 私は、グラスに氷を詰め、ウィスキーを2フィンガー分注いで、少しのペリエで割った。そして、カーテンごしに光る三日月に、ついいざなわれて、ベランダに出る。


 眼下には黄浦江が流れ、灯りを付けた小舟が行き来している。まるで蛍がチラチラ舞ってるみたい。綺麗。

 季節は秋に入り、川沿いの涼しい風が頬を撫でて行く。

 私は、グラスを落とさないように注意しながら、手すりに肘をのせ、遠い夜空を眺める。

 

 東の空に、細い三日月が浮かんでいる。

 東京はあっちだな。もしかして、あのお月様、ヒデ君も見てるのかな。そうだといいな。

 

 氷をカラカラ鳴らして、一口飲む。琥珀色の液体が熱い棒になって身体を通過していく。

 

 ポーっとなって、私の中に、忘れがたい、あの頃のイメージが浮かんでくる。


 ~ いつも待ち合わせた駅の改札。

   手を繋いで歩いた高架下の公園。

   大きらいだった終電。 ~


 ヒデ君。私、今日、27になったんだよ。

 ヒデ君、覚えててくれたかな? 

 私、もう、すっかりアラサーだよ。



******



 私は、ヒデ君と同じ大学の法学部を出たあと、上海K大学の修士課程(2年間)に進学して、今は博士課程(4年間)の3年目。

 指導してくれる国際比較法の女性教授がとてもいい先生で、私の事、なにくれと可愛がってくれている。「来年博士号を取ったら、助手試験を受けるといいわよ」って勧められてる。


 でも、そうなったら、もうずっとこっちにいることになるよね。こっちで大学の先生になるんだよね。ヒデ君と会うこともできなくなるよね。


 そう、きっと、もう、一生。


 ~ ヒデ君の古いアパート。

   ギシギシうるさかった階段。

   いつも一緒に行ったお風呂屋さん。 ~


 上海に帰って来てから、ずっと忙しくしてて、慌ただしくて、毎日必死に過ごしてたから、そういうのにヒデ君を紛れさせて、なるべく考えないようにしてたの。

 日本を発つときに、「もうお互い縛らない」って約束したから、私から連絡もあんまりしなかったし、それはヒデ君も同じで、このところは本当に半年も一年も連絡を取り合っていない。


 だって、連絡なんかしたら、ヒデ君の気持を縛っちゃうでしょう? 私のわがままで、勝手言って帰ってきたんだし‥‥‥。

 だから、私、本当は、「将来、私が日本に来られることになって、その時、お互いまだ一人だったら、一緒になろうね」って、言いたかったけど、そんな約束したら、ヒデ君をいつまでも私に縛り付けちゃうでしょう? また来られるか分からないんだし、そんなの無責任よね。


 ~ お日様とヒデ君の匂いがするお布団。

   深夜に聞こえる時計の響き。

   カーテンから差し込む淡い月の光 ~


 やっぱり、こうして一人になると思い出しちゃうわよね。

 でも、私の記憶の中のヒデ君は、今のヒデ君じゃない。5年もたってるんだもの。

 誰にも公平に時は流れ続けるから、私のこの追憶は、もう現実とは違う、夢や空想みたいなものなの。分かってる。


 ヒデ君、今、どうしてるのかな。まさか、まだ一人かしら?

 ‥‥‥ううん、それはないか。ヒデ君、優しくて、カッコよくて、大事な時に頼りになるから、絶対、女の子みんなに愛されるわよね。

 そこは、私も全然心配していなかったの。すごく寂しかったけど、私がいなくなっても絶対大丈夫って。


 ああ、悔しいな。うらやましいな。

 私も、その子みたいに、ヒデ君に髪を優しく撫でられたい。私だって甘えたいよ。


 ~ 厚い胸に顔を埋めると、命の音がトクトク聞こえる。

   ヒデ君が私に重なり、指を絡めあい、初めて抱かれた、あの夜。

   そう、一夜で千夜を生きたような、あの夜。 ~



 ******



 あの時、私が日本にとどまっていたら、今頃どうなっていたのかな。


 ヒデ君、私ね、もしヒデ君が、「俺にはチュンチュンが必要だから帰らないでくれ」って言ってくれてたら、私、何を捨てても、未来を捨ててでも、ずっと一緒にいたんだよ。本当だよ。


 でも、ヒデ君は、優しいから、優しすぎるから、いつも私のことを一番に考えて、自分のことは後回しにする人だったから、きっと、絶対、自分の心に嘘ついて、私の背中を押したと思うけど‥‥‥。


 あの頃、ヒデ君は、私にとって、私なんかよりずっとずっと大事な、私の全てだったんだから。

 ヒデ君のバカ。しっかり捕まえてくれればよかったのに……。


 分かってる。そんなの贅沢なの。どっちも選ぶことができないから、最後は自分で振り切ってきたの。

 そして、今、ヒデ君を失ったのと同じ位、大事なものを手に入れたことも分かってるの。 

 


 ~ 手の切れるような上弦の三日月。

   冷たいプールで交わした、深く熱い口づけ。

   二人の身体が溶け合い、大事に持って帰ったヒデ君の欠片かけら。 ~



 そう、同時にどちらも手にすることはできない。

 だから、なるべく、自分で自分を誤魔化して、ヒデ君のこと思い出さないようにしてきたのに。そうやって、ずっと頑張って、心を押し殺して、もうヒデ君の顔もちょっとずつ薄れてきてるのに。


 だけど、この気持ちだけは変わらないの。あの頃のままなの。

 心の中に、どうやっても崩れない、風化しない、そのままの綺麗な形で、気持ちだけ残っているの。


 ああ、だめだ。我慢してたのに。

 少しずつ、涙が、忍び寄ってきた。


 やっぱり自分にウソなんてつけない。

 ヒデ君。私たち、三年間、惜しみなく、懸命に愛を注ぎ合って、私、ヒデ君のこと、もう一生分愛したって、そう言い聞かせてきたけど、やっぱりだめなの。


 私、まだ、あなたを、心から愛してるの。今でも、とめどなく溢れてくるの。


 ……ヒデ君‥‥‥私、会いたいよ……。



 ******



 そうして、静かに涙を流す私を、東の空から、細い三日月が、じっと見つめてくる。


 秋の涼しい風が、私の、らしくない短い髪を、そっと撫でていく。


 まるで、ヒデ君が返事してくれてるみたいに。

 私の髪に、あの綺麗な指を通してるみたいに。

  

 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る