第5話 遠い証言者たち
「あなたが記憶を失ったのは、いつですか?」
「約一ヶ月前です」探偵は答えた。「街が消えた時と同じタイミングだと思います」
博士は考え込むように眉を寄せた。「一ヶ月前...そう、あの事件の頃ですね」
「事件?」探偵は身を乗り出した。「連続殺人事件のことですか?」
「ええ」博士はうなずいた。「あなたはその事件を追っていました。最後の被害者が...」
彼女は言葉を切った。何か言いたそうで、しかし言えないことがあるようだった。
「最後の被害者が?」探偵は追及した。
「私からは言えません」博士は決然と言った。「あなた自身が思い出すべきことです。それが、あなたの治療において最も重要なプロセスになります」
「治療?」
「ええ」博士は立ち上がり、本棚から一冊のファイルを取り出した。「あなたは以前、私のカウンセリングを受けていました。『鏡の恐怖症』の治療のために」
探偵は驚いた。「鏡の恐怖症...確かに、俺は鏡に対して不安を感じる。なぜだ?」
「それも、あなた自身が思い出すべきことです」博士はファイルを手に取りながらも、開かなかった。「ただ、あなたがここに来たことで、一つだけ確信が持てました。あなたは本当の探偵です」
「本当の?」
「はい」博士は窓の外を指さした。「この街には、もう一人の『あなた』がいます。あなたとそっくりな容姿の人物が、今も探偵として活動しています」
探偵は呆然とした。「もう一人の俺...双子の兄弟か?」
「そうかもしれません」博士は静かに言った。「あるいは...もっと複雑な関係かもしれません」
硝子が口を開いた。「その『もう一人の探偵』に会わせてもらえますか?」
博士は時計を見た。「今なら彼は中央カフェにいるでしょう。毎日この時間、コーヒーを飲みに行くのが習慣なので」
探偵は決意を固めた。「行こう」
博士は二人を止めた。「待ってください。彼に会う前に、これだけは知っておいてください」彼女は真剣な表情で探偵を見つめた。「あなたがこちらの世界に『死んだ』と思われているのには理由があります。その理由が、すべての謎の鍵を握っているのかもしれません」
「何か知っているのなら、教えてください」探偵は懇願した。
博士は口を開きかけたが、その瞬間、診療所全体が揺れ始めた。建物が揺れ、書類が散乱し、窓ガラスにひびが入り始めた。
「何が起きている?」探偵は驚いて尋ねた。
「あなたの存在が、この世界に影響を与えています」博士は慌てて言った。「二つの存在が同じ世界にいることで、現実が歪んでいるのです」
「二つの存在?」
「あなたと『もう一人のあなた』です」博士は急いで説明した。「早く行ってください。彼に会い、真実を知るのです。でも長居は禁物です」
硝子が探偵の腕を引いた。「急ぎましょう。この世界が不安定になっています」
二人は琴音博士の診療所を後にした。外に出ると、空が異様に暗くなり始めていた。雲ではなく、まるで世界そのものが色を失いつつあるかのようだった。
「中央カフェへ」硝子が言った。
二人は急いで街の中心部へと向かった。途中、建物が揺れ、時々透明になる瞬間があった。現実世界の崩壊が、こちらにも影響し始めているようだった。
中央広場に到着すると、その一角に小さなカフェがあった。ガラス張りの店内には、数人の客が座っていた。そして窓際の席に、彼がいた。
探偵は息を呑んだ。
そこに座っていたのは、間違いなく自分自身だった。同じ顔、同じ体格。しかし、微妙に異なる点もあった。髪型はより整っており、服装もきちんとしたスーツだった。何より表情が違っていた。穏やかで、安心感のある表情。探偵自身が忘れていた表情だった。
「あれが...俺?」探偵は信じられない思いで見つめた。
「鏡の世界のあなた」硝子が静かに言った。
そして次の瞬間、もう一つの驚きが待っていた。カフェのドアが開き、一人の少女が入ってきた。赤いワンピースを着た、若い女性。
「硝子...?」探偵は混乱した。
確かに、その少女は硝子によく似ていた。しかし、完全に一致しているわけではなかった。髪型が少し違い、何より透明ではなく、完全に実体を持っていた。
「本物の硝子...」探偵の隣にいる硝子が震える声で言った。
「本物?」探偵は彼女を見た。「君は...?」
「後で説明するわ」硝子は静かに言った。「今は見ていて」
カフェの中で、もう一人の探偵と赤いワンピースの少女が出会った。二人は笑顔で挨拶を交わし、同じテーブルに座った。親しげに会話を始めるその様子は、明らかに単なる知人ではなく、特別な関係であることを示していた。
「彼らは...」探偵は言葉を失った。
「恋人同士よ」硝子が答えた。「あなたと、本物の硝子は」
探偵は混乱と衝撃で頭がくらくらした。もう一人の自分と、もう一人の硝子。彼らは幸せそうに笑い、談笑している。その光景は美しく、同時に痛ましかった。
「俺は...彼女を知っていたのか」探偵は呟いた。「でも、なぜ記憶にない?」
「それが謎の核心よ」硝子—彼の隣にいる硝子—が言った。
探偵はもっと近づこうとしたが、硝子が止めた。「危険よ。これ以上近づくと、世界が不安定になる」
「でも、話さなければ...」
「今はダメ」硝子は断固として言った。「まだその準備ができていないわ」
探偵は諦めきれず、なおもカフェを見つめた。もう一人の自分と硝子が何かを真剣に話し合っている様子が見える。時折、うなずいたり、紙に何かを書き込んだりしている。まるで何かの計画を立てているようだった。
「彼らは何を...」
その瞬間、カフェの中の探偵が顔を上げ、窓の外を見た。まるで何かを感じたかのように。そして、彼の視線が—直接、探偵と交差した。
二人の目が合った。
鏡の世界の探偵の表情が凍りついた。明らかに「もう一人の自分」を認識したのだ。彼は驚きと恐怖の表情を浮かべ、立ち上がった。
「見られた!」硝子が叫んだ。「逃げて!」
しかし、探偵は動けなかった。彼の体が凍りついたように感じた。そして突然、激しい痛みが胸を貫いた。まるで何かが内側から引き裂かれるような痛み。
「あぁっ!」
探偵は膝をついた。世界が回り始め、建物や人々が歪んで見えた。すべてが渦を巻き、混ざり合っていく。
彼の視界の端で、カフェの中の探偵が少女の手を引いて外に出ようとしているのが見えた。同時に、街全体が揺れ始めた。建物が透明になったり実体化したりを繰り返し、空が赤く染まっていく。
「このままでは崩壊する!」硝子が探偵の腕を掴んだ。「戻らなきゃ!」
「でも...彼らは...」
「後よ!今は逃げて!」
硝子の声が遠のき始め、探偵の意識が薄れていった。彼はカフェの方向を見続けた。最後に見えたのは、もう一人の自分が赤いワンピースの少女を守るように抱きしめる姿だった。
そして、すべてが白い光に包まれた。
* * *
「っ!」
探偵は装置の中で目を覚ました。胸の痛みは現実世界でも続いていた。彼はカプセルから出ようとしたが、体が思うように動かなかった。
「硝子?」彼は弱々しく呼びかけた。
「ここよ」彼女の声が聞こえた。半透明の姿が彼の視界に入った。「大丈夫?」
「ああ...なんとか」探偵は身を起こそうとした。「何が起きた?」
「二つの『あなた』が接触したことで、世界のバランスが崩れたの」硝子が説明した。「でも、なんとか戻ってこられたわ」
探偵はついにカプセルから出ることができた。診療所の研究室は暗く静かだった。窓から見える街はさらに透明度を増していた。
「見たのか?」探偵は問いかけた。「あの二人を。俺と...本物の硝子を」
硝子はうなずいた。「ええ」
「君は...本物の硝子ではないんだな」探偵は静かに言った。「じゃあ、君は何者なんだ?」
硝子は窓際に立ち、透明な手で外の景色に触れるようなしぐさをした。「それを説明する時が来たわね...」
探偵は硝子を見つめた。彼女の姿はより透明になっていた。街の消失とともに、彼女も消えつつあるようだった。
「俺に話せることをすべて教えてくれ」探偵は静かに言った。「もう逃げる時間はない」
硝子は振り返り、悲しげな微笑みを浮かべた。「あなたの記憶が戻り始めているわね。鏡の世界であなたと『もう一人のあなた』が接触したことで、記憶の障壁が崩れ始めているの」
「確かに、何かが戻りつつある気がする」探偵は自分の透明な腕を見た。「でも、まだ核心部分が見えない」
「それは...」硝子は言いよどんだ。
「教えてくれ」探偵は彼女に近づいた。「君は何者なんだ?本物の硝子とは何が違う?そして、なぜあの世界に『もう一人の俺』がいるんだ?」
硝子は深呼吸し、決意を固めたように言った。「明日、すべてを話すわ。今夜は休んで」
「なぜ今じゃないんだ?」
「あなたの体が限界に近づいているの」硝子は探偵の右半身を指さした。「透明化が胸まで広がってる。もう少し休ませなきゃ」
探偵は自分の体を見て、事実を認めざるを得なかった。右半身全体が透明になり、胸にまで広がっていた。体力も急速に失われつつあった。
「わかった」彼は諦めて言った。「でも明日は必ず」
二人は診療所を後にした。夜の街は、もはや幽霊のような存在になっていた。建物の輪郭だけが月明かりに浮かび上がり、それさえも風にかき消されそうだった。
事務所に戻る途中、探偵は黙って考え込んでいた。鏡の世界で見た光景。もう一人の自分と、本物の硝子。彼らの幸せそうな様子。そして、琴音博士の言葉—「あなたはすでに亡くなったはず」。
すべてが複雑に絡み合い、一つの結論に向かっているような気がした。しかし、その結論が何なのかはまだ見えなかった。
事務所に到着すると、探偵はすぐにベッドに横たわった。疲労が全身を包み込み、目を閉じる前に硝子に言った。
「あの世界の俺と本物の硝子...彼らは事件を追っていたのか?」
「ええ」硝子は窓辺に立ちながら答えた。「彼らは一緒に真相に近づいていた」
「そして俺は...死んだことになっている」探偵は呟いた。「どうして?」
「それが明日話す内容よ」硝子の声は優しかった。「今は休んで。もう少し記憶が戻れば、理解しやすくなるわ」
探偵は目を閉じた。疲労と混乱の中、彼は眠りに落ちていった。しかし、その夢の中では、断片的な映像が浮かんでは消えた。赤いワンピースの少女の笑顔、琴音博士の警告の言葉、そして何より—自分自身のもう一つの顔。
「あれは俺なのか?それとも...」
探偵の問いは夢の闇の中に溶けていった。窓辺で見守る硝子の姿はより一層透明になり、月明かりがその体を通り抜けて壁に映った。時間は刻々と過ぎ、真実への道は少しずつ開かれつつあった。# 第5話:失われた証言者たち
「もう一度、鏡の世界に行く必要がある」
探偵は事務所の窓から沈みゆく太陽を眺めながら言った。外の街はさらに透明度を増し、建物の輪郭だけが夕焼けに浮かび上がっていた。彼の右腕と肩は完全に透明になり、胸にまで広がりつつあった。
「危険よ」硝子は心配そうに言った。「前回、あなたの体はかなり拒絶反応を起こしていた」
「時間がない」探偵は振り向いた。「このままでは街も俺も消えてしまう。もう一度、『あの女性』を追跡したい。彼女が鍵を握っている気がする」
硝子は迷った様子だったが、やがて小さくうなずいた。「わかったわ。でも今度は別の方法で」
「別の方法?」
「前回は市庁舎の鏡を使ったけど、もっと安全な方法があるの。それなら、あなたの体への負担も少なくて済むはず」
硝子は街の東側を指さした。「琴音博士の診療所。そこにある特殊な装置を使えば、より安全に鏡の世界へアクセスできるわ」
「琴音博士?」探偵は首を傾げた。「誰だ?」
「街の精神科医。そして...鏡の研究者でもあるの」硝子の声には何か特別な響きがあった。「彼女ならあなたを助けてくれるかもしれない」
探偵は考え込んだ。新たな人物の名前が出てきたことで、パズルのピースが増えた気がした。「その博士は...俺のことを知っているのか?」
「ええ」硝子は静かに答えた。「彼女はあなたと...関わりがあったわ」
これ以上の説明はなかったが、探偵は直感的に重要人物だと感じた。「案内してくれ」
二人は事務所を出て、東側の住宅街へと向かった。街の崩壊が進む中、彼らの行く手を遮る瓦礫も増えていた。道を迂回したり、崩れかけた建物の隙間を通り抜けたりしながら進んでいく。
「硝子」探偵は歩きながら尋ねた。「あの鏡の世界は、本当の過去なのか?それとも別の世界なのか?」
「両方とも正解であり、どちらも違うわ」硝子は謎めいた答えを返した。「鏡の世界は『可能性』の集積よ。起こりえたこと、起こりつつあること、起こるかもしれないこと...それらが混ざり合った世界」
「だから現実と少し違うのか」
「そう。でも、多くの真実がそこに隠されているの」
しばらく歩くと、小さな丘の上に建つ白い建物が見えてきた。三階建ての近代的な構造で、他の建物と比べて崩壊の程度が少なかった。表札には「琴音精神科診療所」と書かれていた。
「着いたわ」硝子が言った。「ここが琴音博士の診療所よ」
二人が玄関に近づくと、ドアは少し開いていた。内部は薄暗く、静寂に包まれていた。
「誰かいるのか?」探偵は小声で尋ねた。
「いるわけないでしょう」硝子は答えた。「この世界では、私たちだけよ」
二人は診療所に入った。内部は意外にも整然としていた。受付カウンター、待合室のソファ、観葉植物。すべてが使われているかのように配置されていた。
「上の階よ」硝子は階段を指さした。「博士の研究室は三階にある」
二人は階段を上った。三階に着くと、廊下の奥に大きな扉があった。「研究室」と書かれたプレートが掛けられている。
探偵がドアを開けると、広い部屋が現れた。壁一面に本棚、中央には大きな机、そして奥には何か装置が置かれていた。宇宙船のコックピットのようなカプセルと、それに接続された複雑な機械群。
「これが...鏡の世界への装置?」探偵は驚きの目で見つめた。
「ええ」硝子は装置に近づいた。「琴音博士の最大の発明よ。『鏡像観測装置』」
装置は電源が入っていないようだったが、不思議なことに埃一つ被っていなかった。まるで昨日まで使われていたかのようだった。
「どうやって使うんだ?」探偵は装置を調べた。
「簡単よ」硝子はカプセルを開けた。「この中に横になって、私が操作する。あなたの意識だけが鏡の世界に送られるわ。肉体はこちらに残るから、前回のような拒絶反応は起きないはず」
探偵は不安そうに装置を見つめた。「前回とは違う方法なのか」
「そう。前回は物理的に向こう側に行ったけど、今回は意識だけ。より安全だし、滞在時間も長くできるわ」
探偵はうなずいた。「わかった」
彼はカプセルの中に入り、横になった。内部はくぼみのあるベッドのようになっており、頭の周りには複雑な装置が配置されていた。
「準備はいい?」硝子が操作パネルに向かいながら尋ねた。
「ああ」探偵は深呼吸した。「向こうでは、君はどうなる?」
「私はあなたの意識に同行するわ」硝子は微笑んだ。「案内役よ」
硝子がいくつかのスイッチを操作すると、装置が低いハミング音を立てて起動した。カプセルの内部に青白い光が満ち始め、探偵は意識が遠のくのを感じた。
「あなたの意識が向こう側に届いたら、私も追いかけるわ」硝子の声が遠くから聞こえた。「それまで...」
言葉の続きは聞こえなかった。探偵の視界が白く染まり、そして—
* * *
まばゆい光に目が慣れてくると、探偵は街の中心部に立っていた。
鏡の世界の玻璃の街。前回と同じく、完全な姿の街が広がっていた。ガラスの建物が太陽の光を反射し、七色に輝いている。人々が行き交い、車が通り、鳥が飛ぶ。完全な日常の光景だった。
探偵は自分の体を確認した。透明になっていた右側は元通りになっていた。しかし、自分の姿が薄く、半透明になっていることに気づいた。
「なぜ透けている...?」
「こちらの世界では、あなたは『存在しない人』だから」
振り返ると、硝子が立っていた。彼女もまた半透明だった。
「存在しない...?」
「そう。記憶を失ったあなたは、この世界の秩序から外れた存在。だから完全には実体化できないの」
探偵は周囲を見回した。通りを行き交う人々は、彼らの存在に気づいていないようだった。数人は彼らを通り抜けて歩いていった。まるで幽霊のようだった。
「彼らには俺たちが見えないんだな」探偵は呟いた。
「基本的にはね」硝子は説明した。「でも、特別な人なら見えるかも。『境界を知る者』には」
「境界?」
「現実と鏡像の境界。それを知る者だけが、あなたの存在を認識できるわ」
探偵はうなずいた。「あの『琴音博士』もその一人か?」
「そう」硝子は街の東側を指さした。「彼女の診療所に行きましょう。この世界の彼女なら、あなたの姿を見ることができるはず」
二人は診療所へと向かい始めた。完全な姿の街を歩くのは不思議な感覚だった。先ほどまで瓦礫だった場所に、美しい建物が立っている。崩れていた道路は滑らかに舗装され、枯れていた木々は鮮やかな緑を茂らせていた。
「人々は何も知らないんだな」探偵は通行人を見ながら言った。「彼らは自分たちの世界が消えかけていることを」
「知らないわ」硝子は悲しげに答えた。「気づいたときには遅い。気づかないまま消えてしまう人がほとんど」
診療所に到着すると、現実世界と同じ外観の建物が立っていた。しかし、こちらはより鮮明で、庭には花が咲き、窓からは明るい光が漏れていた。
「入ろう」硝子は言った。
二人が診療所に入ると、受付には若い女性が座っていた。彼女は来客に気づかず、パソコンに向かって作業を続けていた。
「見えていないわね」硝子は小声で言った。
「どうすれば?」
「三階へ行きましょう。琴音博士なら」
二人は階段を上った。現実世界と同じ配置だったが、すべてがより生き生きとしていた。廊下には絵画が飾られ、観葉植物が置かれていた。
三階の研究室のドアは少し開いていた。中から女性の声が聞こえてきた。
「...この結果が正しければ、理論は証明されたことになります。鏡の向こう側は単なる反射像ではなく、別の次元そのものなのです」
探偵と硝子は静かにドアを押し開けた。部屋の中では、40代前半と思われる女性が独り言を言いながらノートに何かを書き込んでいた。短い黒髪に知的な雰囲気、白衣を着た姿。間違いなく琴音博士だろう。
探偵は少し緊張しながら一歩踏み出した。「琴音博士?」
女性は驚いたように顔を上げた。そして、探偵を見た瞬間、彼女の表情は凍りついた。ペンを落とし、震える手で眼鏡を押し上げる。
「あ...あなたは...」彼女の声は震えていた。「どうして...あなたはすでに亡くなったはず...」
「俺のことを知っているんですね」探偵は静かに言った。
琴音博士は椅子から立ち上がり、後ずさりした。「幻ではないのですね。本当にあなたなのですか?」
「ええ、でも...記憶を失っています」探偵は率直に答えた。「あなたが俺のことを知っているなら、教えてほしい。俺は何者なのか」
博士は警戒心を解かず、書類を胸に抱きかかえた。「これは実験の結果なのか...それとも...」
「実験ではありません」硝子が一歩前に出た。「私たちは真実を知るために来たのです」
博士は硝子を見て、さらに驚いた表情を浮かべた。「あなたも...まさか...」
「私のことは気にしないで」硝子は言った。「彼を助けてあげてください。彼は記憶を失い、自分が何者かも、何があったのかも知らないのです」
博士はしばらく黙って二人を観察した後、深いため息をついた。「信じられない...でも確かに、あなたはあの探偵ですね。しかし、何か違う...記憶喪失?」
「そうです」探偵は答えた。「街が崩れた廃墟で目覚め、硝子と出会いました。それ以来、失われた記憶と街が消えた真相を探っています」
「街が...崩れた?」博士は混乱した表情を浮かべた。
「あなたはまだ知らないのよ」硝子が静かに言った。「この世界は消えつつあるの。私たちが来たのは、その先の世界から」
「そんな...」博士は腰を下ろした。「理論的には可能性を考えていましたが、実際に起きているとは...」
彼女は探偵を見つめ、分析するように観察した。「あなたが記憶を失ったのは、いつです
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