第2話 消えた街の秘密
鏡のように輝く瓦礫を踏みしめながら、探偵と硝子は「硝子探偵事務所」へと向かっていた。沈黙の中、探偵は周囲を観察し続けた。廃墟と化した街並みには、かつての栄華を示す痕跡が至るところに残されていた。崩れかけた高層ビル、砕け散った高級車、色あせた広告看板。
「この街はどんな場所だったんだ?」探偵は瓦礫を避けながら尋ねた。
硝子は数歩先を歩きながら振り返った。「玻璃の街は、光の都と呼ばれていたの。建物のほとんどがガラスで作られていて、朝日と夕日で街全体が七色に輝いたわ」
彼女の声には懐かしさと悲しみが入り混じっていた。
「人口は?」
「約12,000人。小さな都市だったけど、芸術と科学が融合した独自の文化があった」硝子は立ち止まり、崩れ落ちた噴水を指さした。「あれはかつての中央広場。お祭りの時はいつも人で溢れていたわ」
探偵は頭の中で街の地図を描こうとしたが、手がかりが少なすぎた。しかし、不思議なことに一つだけ確信していることがあった。
「俺は...ここの最後の生存者だ」
硝子が振り向いた。「それを覚えているの?」
「ああ」探偵は自分でも驚きながら答えた。「なぜかそれだけは確信がある。街が消える瞬間、俺はここにいた。そして...」
言葉が途切れた。その先の記憶が闇に閉ざされている。
「何があったの?」硝子の目が期待に輝いた。
「わからない」探偵は苦しそうに頭を振った。「それ以上は思い出せない」
硝子の表情に失望の色が浮かんだが、すぐに前を向き直した。「大丈夫。少しずつ思い出せばいいの。さあ、行きましょう」
二人は歩き続けた。崩れかけた五階建てのビルに近づくと、看板の残骸が見えた。「アーケード商店街」と書かれている。一階部分はショーウィンドウが並んでいたようだが、今はほとんどが砕け散っていた。
探偵は不意に足を止めた。「待て」
「どうしたの?」
「この店を見てくれ」探偵は左側の店舗を指さした。他の店とは違い、このショーウィンドウだけは割れておらず、鏡のように表面が光っていた。
二人は店の前に立った。窓ガラスには「メルヘン時計店」と金色の文字で書かれている。内部は薄暗く、時計らしき形がかろうじて見える。しかし、その窓に映る二人の姿に、探偵は息を飲んだ。
「俺の姿が...」
窓ガラスに映るのは硝子の姿だけだった。探偵の姿は映っていない。
硝子は静かに言った。「あなたは私にしか見えないのよ」
「何だって?」探偵は自分の体を見下ろした。確かにそこにある。手も足も胴体も。しかし鏡には映らない。
「どういうことだ?俺はゴーストなのか?死んでいるのか?」
硝子は首を横に振った。「死んでいるわけじゃないわ。あなたの存在が...特別なの」
探偵は混乱した。自分が最後の生存者だと確信していたのに、実は自分も「消えかけている」のか?それとも別の何かなのか?
「説明してくれ」彼は硝子に向き直った。
硝子は深く息を吸い、話し始めた。「三ヶ月前、この街で奇妙な事件が起き始めたの。人々が突然、姿を消し始めた。最初は一人、二人...でも日に日に増えていった」
「人が消えるとは?死体も残らないということか?」
「そう。まるで存在そのものが消えたみたい。持ち物も、記録も、時には記憶さえも...」
探偵は眉をひそめた。「記憶まで消えるとは?」
「はじめは、消えた人の記憶だけが周囲から失われていった。でも最後には...」
「街全体が消え始めた」探偵が言葉を引き継いだ。
硝子はうなずいた。「一ヶ月前、ある夜を境に住人が全員消えたの。あなたを除いて」
探偵は静かに受け止めた。「そして俺は記憶を失った。自分自身の存在も薄れかけているということか?」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」硝子は謎めいた表情で答えた。「それを探るためには、あなたの事務所に行かなければ」
二人は商店街を抜け、奥にある階段を上った。建物は揺れているようで、ところどころ天井が崩れ落ちていた。三階に到着すると、廊下の奥に一つのドアが見えた。そこにも「硝子探偵事務所」と刻まれた小さな銀のプレートがかかっていた。
ドアは施錠されていなかった。探偵が恐る恐る開くと、中は意外にも整然としていた。小さな応接スペースがあり、その奥に執務デスクがあった。窓は割れていたが、書類はきちんと整理され、コーヒーカップまで置かれていた。まるで、使用者がちょっと席を外しただけのようだった。
「俺のオフィスか...」探偵は呟きながら中に入った。
彼はデスクに向かい、引き出しを開け始めた。上段からは事務用品、中段には何枚かの写真。しかし、写真に映る人物の顔はぼやけていて判別できない。下段の引き出しを開けると、黒い革表紙の手帳が出てきた。
「これは...」
手帳を開くと、そのページは真っ白だった。日付もメモも、何の痕跡も残っていない。
「空白だ」探偵は失望して呟いた。
「見せて」硝子が手を差し伸べた。
手帳を渡すと、奇妙なことが起こった。硝子の半透明の指が手帳に触れた瞬間、ページに淡い青白い光が走り、一瞬だけ文字らしきものが浮かび上がった。しかし、光はすぐに消え、再び白紙に戻った。
「何が...」
「一瞬だけ見えたわ」硝子は目を見開いた。「日付と一つの文...『七人目の被害者』」
「被害者?」探偵は眉を寄せた。「犯罪事件を追っていたのか?」
「かもしれないわね」硝子は手帳をじっと見つめた。「でも、もう一度は見えそうにないわ」
探偵はオフィスをさらに調べ始めた。写真、書類、本棚...何か手がかりはないかと必死に探した。窓の外を見ると、夕暮れの光が廃墟の街を赤く染めていた。いくつかの建物の窓ガラスがその光を反射し、まるで街が燃えているかのように見えた。
「何か見つかった?」硝子がソファに腰掛けながら尋ねた。
「何も...いや、待て」探偵はデスクの上に置かれたコーヒーカップに気づいた。「このカップ、まだ温かい」
彼は慎重にカップを手に取った。確かに冷えてはいるが、完全に冷え切ってはいない。まるで数時間前に誰かが飲んでいたかのようだった。
「時間が止まっているのかもしれないわね」硝子は静かに言った。「この街では、すべてが消える直前の状態で固定されているの」
「俺が最後に飲んだコーヒーということか」探偵はカップを置いた。「だとしたら、俺は事件解決の途中で記憶を失ったということになる」
「そうね」
探偵はさらに部屋を調べ続けた。壁には地図が貼られ、何カ所かに印がつけられていた。本棚には犯罪学や心理学の本が並び、中には蛍光ペンでマークされたページもあった。
「熱心な探偵だったようだな」彼は自嘲気味に笑った。
突然、部屋の温度が下がったように感じた。そして次の瞬間、壁に何かが浮かび上がり始めた。
探偵と硝子は凍りついたように立ち尽くした。鏡のように光る壁面に、青白い文字が浮かび上がっていく。その文字は内側から光を放ち、不気味な存在感を放っていた。
**「探偵は罪人である」**
「これは...」探偵は息を飲んだ。
硝子は震える声で言った。「警告ね」
「誰からの?」
「わからないわ。でも...」
言い終わる前に、文字は消え始めた。まるで水に溶けるように、一文字ずつ消えていき、最後には壁は元通りになった。
「俺が...罪人?」探偵は困惑して繰り返した。「何の罪を犯したというんだ?」
硝子は沈黙した。その表情には何か隠しているような影が見えた。
「何か知っているなら教えてくれ」探偵は彼女に近づいた。「俺の中で欠けているピースを埋めるのを手伝ってくれ」
硝子は静かに、しかし力強く言った。「あなたの消えた記憶の中に、すべての答えがあるの。私にできるのは、あなたが思い出すのを助けることだけ」
「どうやって?」
「まず、この街のことをもっと知る必要があるわ」硝子は立ち上がった。「かつてこの街で何が起こったのか。そして、なぜあなたが最後の一人なのか」
探偵は溜息をついた。「手がかりが少なすぎる。白紙の手帳と、壁に浮かぶ謎のメッセージだけじゃ...」
「もっとあるわ」硝子は窓の外を指さした。「街全体が手がかりよ。明日、もっと探索しましょう」
「明日?今続ければ...」
「もう遅いわ」硝子は窓の外の暗さを示した。「この街、夜は危険なの」
「どんな危険が?」
硝子の表情が暗くなった。「夢魔(むま)が現れるから」
「夢魔?」探偵は首を傾げた。
「説明は明日。今夜はここで休んで」硝子はオフィスの奥のドアを指さした。「あそこにベッドがあるはず」
探偵は反論したかったが、突然の疲労感に襲われた。確かに、身体は休息を求めていた。「わかった。だが明日は必ず説明してくれ」
硝子はうなずいた。「約束するわ」
奥の部屋には確かに小さなベッドがあった。探偵が横になると、身体の芯から疲れが溢れ出してきた。
「硝子」暗闇の中で彼は呼びかけた。「君は一体何者なんだ?」
しばらくの沈黙の後、かすかな声が返ってきた。「私は...あなたにとって大切な存在だったの。それ以上は、あなた自身が思い出さなければ」
その言葉を最後に、探偵は深い眠りに落ちていった。しかし、その夢の中で彼を待ち受けていたのは、失われた記憶の断片と、言葉にならない恐怖だった。
壁に浮かんだ文字が、彼の意識の奥底で繰り返し響いていた。
「探偵は罪人である」
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