硝子の探偵と消えた街
ソコニ
第1話 硝子の街の探偵
空は灰色だった。
男は瓦礫の上で目を覚ました。頭痛と共に意識が戻り、彼は無意識に額に手をやったが、そこに触れるべき傷はなかった。痛みの原因は別のところにあるようだった。
周囲を見回す。崩れ落ちた建物の残骸。砕け散ったコンクリート。錆びついた鉄骨。そして異様なほど輝く、無数のガラスの破片たち。
「ここは...」
声を発した瞬間、男は気づいた。自分が何も思い出せないことに。
どこにいるのか。なぜここにいるのか。さらには——
「俺は誰だ?」
名前すら思い出せない。パニックが訪れる前に、彼は習慣的な仕草で自分のポケットを探った。左側のジャケットポケットから出てきたのは、艶を失った古びたライター。表面には何かの刻印があるが、長年の使用で摩耗し、判読できない。右のポケットからは、小さな金属製のバッジが出てきた。
「硝子探偵事務所...」
バッジに刻まれた文字を、男は無意識に読み上げた。「探偵」という言葉に、かすかな親近感を覚える。それが自分の職業だとしたら——男は周囲を改めて見渡した。これは事件現場なのか?あるいは、事件そのものの結果なのか?
瓦礫の中に立ち上がり、男は数歩歩いてみた。足はしっかりしている。怪我はないようだ。茶色の長めのコートに、黒いパンツ、革靴。胸ポケットには何も入っていない。腕時計もない。時間の感覚さえも失われていた。
「この街は...」
遠くを見渡すと、高層ビルらしき骨組みが残っている建物が点在している。どれも崩壊寸前で、風に吹かれると軋む音を立てていた。かつてここは、都会だったのだろう。今はまるで長年放棄された廃墟のようだ。しかし、奇妙なことに建物は古びているわけではない。まるで一瞬で何かが起こり、街全体が崩壊したかのようだった。
男は足元のガラスの破片に目を留めた。それは普通の建物から落ちたガラスとは違っていた。透明感があり、まるで水晶のように輝いている。
「玻璃(はり)...」
その言葉が、どこからともなく脳裏に浮かんだ。この街の名前だろうか?それとも、この不思議なガラスの呼び名だろうか?
大きめのガラスの破片を手に取ると、そこに映る自分の顔に男は見覚えがなかった。黒髪に暗い色の瞳。疲れたような目の下にうっすらとクマができている。三十代半ばといったところか。整った顔立ちとは言えないが、悪くもない。しかし、何よりその表情が虚ろだった。
「お前は誰だ...」
鏡に映る自分に問いかけても、もちろん答えは返ってこない。男は深いため息をついた。何から始めればいいのだろう。この状況を理解するためには、まず——
「あなたはこの街の最後の探偵よ」
突然響いた声に、男は素早く振り向いた。そこに立っていたのは、赤いドレスを着た少女だった。
十六、七歳だろうか。艶やかな黒髪を肩まで伸ばし、紅いドレスは彼女の繊細な体を優美に包んでいた。何故こんな廃墟に、こんな美しい少女が?男は言葉を失った。
少女は一歩進み出た。その瞬間、光が彼女に差し込み、男は息を飲んだ。少女の手が、半透明に光を透かしている。幻覚かと思ったが、まばたきしても変わらない。
「あなたはこの街の最後の探偵よ」少女は再び言った。「過去の記憶を取り戻して、街を消した事件の真相を解いて」
「街を消した...事件?」男は困惑して言葉を返した。「君は誰だ?」
少女はわずかに微笑んだ。しかし、その表情には深い悲しみが隠れているようだった。
「私は硝子(ショウコ)。あなたを探していたの」
「俺を?」男は自分の胸に手を当てた。「どうやって俺が探偵だとわかる?俺自身、自分が誰なのかさえ...」
「バッジが証明しているでしょう」硝子は彼の手に握られたバッジを指で示した。その指も、光を透かして見えた。「あなたは記憶を失ったけど、探偵としての本質は残っているはず。観察力、推理力、そして—」
彼女は一瞬言葉を切った。
「そして、罪の感覚」
男は眉をひそめた。「罪?俺が何か罪を犯したというのか?」
「それを探るのが、あなたの仕事よ」硝子は真剣な表情で言った。「この玻璃の街は消えた。住民も、建物も、すべてが消えかかっている。残っているのは、廃墟と、あなたと、私だけ」
男は言葉を選びながら、慎重に尋ねた。「君の体は...なぜ透けているんだ?」
硝子は自分の手を見つめ、静かに答えた。「私もこの街と同じ。消えかけているから」
「消えるって...死ぬということか?」
「死とは違う」硝子は首を横に振った。「存在そのものが薄れていくの。記憶も、姿も、痕跡も、すべてが」
男は胸に込み上げてくる不安を抑えながら、次の質問を投げかけた。「俺の名前を知っているか?」
硝子は少し考え込むような仕草をした後、答えた。「あなたの名前は...まだ言えないわ。記憶を少しずつ取り戻していかなきゃ」
「なぜだ?」
「あなた自身が、記憶を捨てたから」
その言葉に、男は衝撃を受けた。自分で記憶を捨てたというのか?なぜそんなことを?
「理由は?」
「それもまた、あなたが見つけるべき真実の一部よ」硝子は男の目をまっすぐ見つめた。「でも時間がない。街が完全に消える前に、真相を解かなければ」
男は周囲の廃墟を改めて見渡した。崩れ落ちた建物。砕け散ったガラス。そして何より、人の気配のない静寂。確かにここは「消えた」と表現するのがぴったりだった。生命の気配が、時間の流れさえも、すべてが停止しているかのようだった。
「どこから始めればいい?」
硝子は彼に近づき、瓦礫の向こうを指差した。「あなたの事務所から。手がかりがあるはず」
彼女の指が指す方向に、比較的形を留めている建物が見えた。五階建てほどのビルで、上層階は崩れ落ちているが、低層階はまだ構造を保っているようだった。
「行こう」
男は素直に従った。自らが探偵であること以外に、記憶も手がかりもない状況。この謎めいた少女の言葉に従うしかなかった。二人は瓦礫の山をよじ登り、崩れた道を進んでいった。
歩きながら、男は考えた。自分は何者なのか。なぜ記憶がないのか。そしてこの不思議な少女、硝子は何者なのか。彼女の半透明の手、「消えゆく」という言葉。すべてが謎に包まれていた。
しかし一つだけ確かなことがあった。彼がバッジに刻まれた通り、探偵であるなら、これらの謎を解き明かすのが自分の役目だということだ。
「硝子」男は歩きながら彼女を呼んだ。「俺が...本当に事件を解決できると思うか?記憶もなく、何も知らない状態で」
硝子は立ち止まり、振り返った。夕暮れの光が彼女のシルエットを染め、まるで炎のように赤いドレスが輝いていた。
「あなたしかいないの」彼女の声は静かだが、揺るぎない確信に満ちていた。「あなたが最後の探偵で、私たちの最後の希望よ」
男は無言で頷いた。選択肢はなかった。進むしかない。
二人は廃墟の街を歩き続けた。周囲はますます暗くなり、鏡のように輝くガラスの破片だけが、わずかな光を放っていた。
探偵は自分の名前こそ思い出せなかったが、探偵としての本能だけは確かにあった。これは単なる災害ではない。この街で何かが起きた。そして自分はその真相を知っていた——知っていたはずだ。
記憶を取り戻す。街が消えた謎を解く。そして、この不思議な少女を救う。
彼はライターを強く握りしめた。旅が始まったのだ。
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