誰も覚えていない人間

「岡村って……ほんとに、いたよな?」


昼休み、久坂は社外のカフェでスマホを見つめていた。

名簿アプリには岡村という名前がある。

だが、社員番号も部署も空白のまま。プロフィール画像も、真っ白。


それなのに、LINEには岡村の名前が残っていた。

トーク履歴は何もない。けれど、なぜか未読1の表示がずっと消えない。


── まるで、読まれるのを待っている誰かが、そこにいるみたいに。


画面を閉じると、一瞬、視界が揺れた。

頭の奥がしんと冷え、遠くで水音のようなものが響く。

鼓膜ではなく、骨の中で──何かが、滴っている。


午後の会議。出席者のリストにはやはり、岡村の名前はなかった。

話し合いの最中、隣に座る新入社員の佐々木が、ぽつりと言った。


「この会議室、……なんか、一人多い感じしません?」


久坂は言葉を失った。


「え、どういう──」


「いえ、気のせいかもしれません。でも……ほら、誰かの視線がずっと背中にある気がして。」


その瞬間、エアコンの送風口がカタリと鳴った。

部屋に漂う温度が一度、微かに下がる。


誰もが、その音を聞いたはずなのに──

会議室の空気は何も起きていないかのように流れていた。


帰宅後、久坂は副業の原稿に向かっていた。

ある企業のCEOの自伝──彼が代筆するその文章の中に、知らない言葉が混じっていた。


「私は、岡村という社員を雇っていない。」


あれ?


その行に、久坂は心当たりがなかった。

そんな文、入力していない。


だが、確かに久坂の筆跡で打たれている。

しかも、ファイルには改変履歴がない。

誰かが書き足したのではなく──最初から、そこにあったように記録されていた。


彼は試しに検索エンジンで岡村の名前を入れてみた。


──何も出ない。


SNSも、ブログも、企業ページも。

岡村という名前が削除されたように、何も残っていなかった。


久坂は自分の胸元を触れた。

鼓動が、どこか遠くのもののように感じる。


「次は、自分の番だ──」


そんな直感が、静かに喉を冷たく撫でていった。

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