第4話


 今夜誰の家で集まるのかなんて、私にはどうでもいいことだった。


隣でハンドル片手に口笛を吹くトマを見て、

この人には絶対理解できないのだろう、と

どこか胸がぐっと押さえつけられるような苦しさを感じた。


私の気持ちが分かるのは私しかいないのだという孤独で息が詰まりそうだった。



 ふと、私がまだ日本にいた頃の、会社員時代の自分が思い出された。


上司は厳しかったし、仕事も辛かった。

朝から晩までノルマに追われ、一日の終わりには疲れ果て、休日は趣味を見つける余裕すらなかった。


頭の中は、不安が常に付きまとい、このループが永遠に続くのだ、と十年先の自分の人生までもが見えた気がした。



毎日、朝目が覚める度に地獄が始まる気分がした。



 今の自分はかつての自分と真逆の世界に居る。今の私には時間がたくさんある。

それに、愛するトマがそばに居て、お腹にいる子どもも待ち遠しい。



これが幸せである、

はずなのだ。



 それなのに、私の頭の中は勝手に昔の記憶をリピートした。

その嫌だった記憶でさえも、日本にいたあの日々を無性に恋しいと感じさせてくる。


ひどく懐かしくて、寂しくなった。



 私は日本での生き方を知っていたのだ。


街に溢れるあらゆるものの使い勝手も、人と話すときの振る舞い方も、距離感も全て、何もかも日本人として染みついていた。



 しかし、いまこの国にいる私はまるで、ものすごく使い勝手の悪いキッチンで料理をしているかのような気分なのだ。


どこがどう機能するのかも分からず、何かをするにもいちいち慌てふためき、思い通りにやりたい事ができない。


見かけも中身も私が使い慣れてきたものと異なるそのキッチンは、これが私達のスタイルなのだと言わんばかりに、そこにでかでかと存在する。



ただいつも通りに調理したいだけなのに、いつもなら簡単にできることなのに、そのキッチンに立つだけでものすごく疲れるのだ。



出来た食事は何だか美味しくなくて、でもそれはこのキッチンのせいではない。

そんなことは分かっていても、私はキッチンのせいにするしかないのだ。



自分から遠ざけたかつての私を取り巻いていた人やもの、環境は、私に後悔という感情をもたらした。



友人も同期の仲間もみんないて、仕事の愚痴を言いながらもお互い励まし合い、なんだかんだ日々乗り越えていた頃が思い出された。




 私はこのフランスの何にそこまで魅了されていたのだろうか。




あの頃私が感じていたもの、私をここまで導いていたものが何だったのか、突然ぽっかりと穴が空いたように分からなくなる。



重い雲に覆われた空の下、落葉しきった木々が並ぶ大通りを車で進んでいく。


一つ脇の道へ入ると中心街へ近づくにつれ、オスマニアン様式の建物が並ぶ景色が目の前に広がっていく。




 この国に来た当初感じていた異国の情緒や歴史ある街並みへの感動は、とっくに消えてしまっている。

今はその淀んで見える景色に、もうあの頃の、この国に来たばかりだった自分には戻れないのだ、と覚悟をさせられる。



 私はこの国で生きていくのだ、と深い溜め息が出た。




その溜め息は車のラジオから流れるポップミュージックの中に消え、トマの耳には届かなかった。









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