第3話



 それからひと月ほど経った、ある金曜の夕方、いつもなら深夜に帰るはずのトマが、その日は六時半過ぎに家に帰ってきた。



私は夕飯を作り始めようと重い腰を上げ、キッチンに立っていた。彼は帰宅するなり、


「今夜キミも僕の友人達と一緒に夕飯を食べない?」


と私に言った。



途端、私の心が妙にざわつき始めた。


何も返せなかった。


頭の中では真っ先にその誘いを断わるための言い訳を探していたからだ。



 昔から人付き合いが得意ではなかった私の答えは、始めから決まっていた。


留学先の学校でも親しいと言える人なんて居ないし、私にとって気の許せる友人といえば日本にいた頃から変わっていない。

大学時代の部活動の同期達か、就職して知り合った年の近い同僚が二人ほどいるだけだ。


それはこれから先も絶対に変わることはない。



彼女らは長い付き合いでお互いの性格を知り尽くした仲だから、一緒にいて楽だった。


彼女らとはどうやって親しくなったのだろう、


出会った時はどんな会話をしたのだろう、


と記憶を辿っても思い出せない。




以前の私は今よりもっと親しみやすい人間だったのだろうか。



――いや、そうではない。



きっとそれはごく自然に、なるべくしてなったのだろう。


一つのコミュニティに手繰り寄せられるように集まって、そして当然のように毎日顔を合わせることになり、同じ時間を過ごして、同じ苦難を辿り、同じ記憶を共有した。


それが私と彼女らを友人と呼べる関係にしたように思う。



 兎に角、その集まりに参加するのは御免だと思った。できれば今まで通り、家で自分の時間を過ごしたかった。


第一、そこへ行ったところで何を話すというのだろうか。

見ず知らずの人達と食事を共にするほど面白くないものはないし、私はそもそもそんなに社交的になれない。



私はそんな人間ではない。



答えはとっくに出ているのに、この状況でどのように言えば、いい具合に、感じ良く、断わることができるだろうか、とそんなことを考えていた。


そうこうしている間に会話のテンポが悪くなっていく。



「みんな道子と年齢が近い人ばかりだから、気が合うんじゃないかな」


黙り込む私にそう言って彼が微笑んだ。



しかしその笑顔には、私が「行く」と応えることを期待しているのが嫌でも伝わってくるような眼差しがこちらに向けられていて、私はたじろぎ、自分の眉がぴくりと歪むのが分かった。


こんな時に私は自分自身が本当に嫌になる。



思ったことをはっきり言えず、上手い言い訳も見つけることが出来ない私は、結局周りの思うがまま、何も決めることができないからだ。




「道子は日本に帰ったら何をしようと考えてるの?」


集まりの中にいた栗色の髪をした若い天然パーマの男が、私に聞いてきた。


私は、見知らぬ人だらけの場所で居心地が悪いこともあって、気分も酷く悪かった。

こういう時、人に優しくしたいと頭では思っていても、心がそれに従ってくれない。



ついさっき会ったばかりの名前もよく知らない人に話すようなことなんてなく、ずかずかと私の心に踏み入ろうとする彼らと距離を置きたい気持ちになった。


周りにいる人も私に注目し始め、まるで宣誓でもさせられるのかという雰囲気に包まれていた。



そんな中、



「何も考えてないけど」



と真顔で言い放ち、彼らとの間にさらに一線を引いた私はその場を凍りつかせた。



「どんな仕事をしたいとか、そういうのもゼロなわけ?」



やや苦笑気味に言うその天パ男に、


「うん、ゼロ」


と、会話の流れをせき止めるような門を下ろした。



そこにいた人達は何かを悟ったのだろう、その夜、それ以上私に話しかけることをしなくなった。



私はずっと考えていた。


何か生産性のある会話でもしないと、自分自身に興味を持ってもらえないのだろうか。


人との繋がりはそれだけ頑張らなければ築くことができないものだったのだろうか。



もしそうだとしたら、私にはこれから先、友達と呼べる人は永遠に出来ないのだろうとぼんやりと思った。



私が求めているのは、そんな向上心に溢れたことを話す相手ではなく、もっとリラックスして、日々の愚痴や辛いと思ったこと、弱音を吐けるような、そういった同志ともいえる存在なのだ。


充実した日々を送っている人間には分からない、苦しみを分かち合える相手を必要としているのだ。



そもそも、私の日々のストレスはこの異国での生活からきている。

そのストレスのはけ口をその国の民(ひと)に、つまりフランス人に求めることが自体が間違っているのだろう。



そんなことを考えていると、いまここにいる、食事会に来る彼らとはトマで全て繋がっていて、そこからトマを取り除いた途端、その関係は一気に破綻する。そういう心の通い合っていない、脆い繋がりが目に見えるように浮かび上がってくるのだった。


そしてこの人達と一緒に食事する意味が一層分からなくなった。



 それでもトマは懲りずに私を食事会へと連れ出すから、必然と毎週金曜は『彼の友人』と夕食を共にすることになった。

ただ、彼らが『私の友人』になることはない。



 私は心の奥底で彼らを線引きしている。

何が私をそうさせるのか。彼らとは、年齢が近いということ以外に大した共通点もないからか。


いや、そうではない。



 それはもっと根本的な部分の、育ってきた環境だとか、もっと大まかに区切るならば、文化や言語だとか、そういった人種的な違いなのかもしれない。


形式上、友好的に振る舞っていても、彼らとは心から分かち合えるような、つまり相手のことが手に取るように分かるという関係にはならないのだと、私の中にある細胞が直感としてそう訴えてくるようだった。



 こんなふうに人を始めから区別している私は、いわゆる人種差別主義者なのかもしれない。


 それでも私が、変わらずに、これまでの私のままで居続けるためには、そう考えるしかなかった。

私には彼らのような人との付き合い方はできない。



 今夜の食事会でも、私はみんなのように、同じ温度で楽しむことは出来ないし、私の中に残る今夜の記憶と彼らのとは、同じにはならない。



私にしか見えない、

でも確実に存在する、

私と彼らの間にある境界線は絶対になくならない。




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