「……申し訳、ありませんでした」

俯いたまま、ぽつりと衿華はそうこぼす。

視線の先には絆創膏の巻かれた指、昨日支給された新品の衣装にはベッタリとケチャップがこびりついている。

バイト二日目、初めての給仕。

どうせ成功するだろうという遥の想像とは裏腹に……衿華は失敗した。

「……いや、まあ、その──」

昨日までの毅然とした態度も、普段の手際の良さも、まるで別人かと思うほどに今日の衿華には全てが欠けていた。

『お……お相手は私、ヴィエ、リュ──っ！』

まず、舌を噛んだ。名乗りはパフォーマンスにおいて一、二を争うくらいに大切だ。始めが上手くいったか否かでは、緊張感が全然違ってくる。

けれど、そのまま進めてしまったせいだろう。

『”ノ、ノワール・ノクターン”──っ』

ステッキに込める力加減を間違えてしまったのか、放たれたケチャップはそこら中に飛び散り、なんとか事態を収拾させた後、遥がちょうど給仕をしていた時、それは響いた。

──パリン！

店内中に響く破砕音、そちらに視線を向けた時、案の定というべきか床には割れたガラスが散らばっていて。慌てていたのか素手で、ちょうどしゃがみ込んだ衿華がガラス片を拾いかけて、取り落とした瞬間。

『いた──っ！』

その時、遥は初めて衿華の悲鳴を聞いた。

「その──指の怪我とか、大丈夫そうですか？」

「……ええ、軽症です。特に問題はありません」

たったそれだけの返答で会話が途切れてしまう。

二人きりの控え室を包む沈黙。互いが押し黙ったままでいた時、不意にドアが開いた。

「どう？　衿華さん。指の方は大丈夫そう？」

「……ええ。おかげさまで、もう血は止まっています」

「そう。衣装の方も気にしなくていいから。ケチャップぐらいだったら、まあ落とせるわよ」

控え室に入ってきたマキは苦笑混じりだった。客への謝罪にコップの後始末、これから衣装もクリーニングに出さなければならないのだ。むしろ、その表情は優しすぎるようにも思える。

「……その、本当に……申し訳、ありませんでした──っ！」

もう、今日何度目になるのかもわからない謝罪の言葉。今日一番の声量で衿華が発したそれに、マキは小さく首を横に振る。

「……別に気にする必要はないわよ。初めてのバイトだもの。それでも、給仕が向かないとかだったら、厨房とか裏方の仕事を振ることもできるけれど」

マキの提案は決して悪いものではなかった。衿華がここでバイトを始めた理由は未だ遥にはよくわからないが、給料だけなら裏方も接客も大差ない。

「……迷惑、でしたらもちろん、マキさんの指示通りにいたします」

けれど、衿華の口調は先ほどよりもずっと切れ切れとしていて、今にも消え入りそうで。言葉にこそ出していなかったけれど、マキの提案が不本意らしいのは簡単に見てとれた。

今日のたった一度の接客を見ていただけでもわかる。衿華に今の仕事は合っていない。普段堂々としている彼女だから大丈夫だろう、とか。ちっともそういうわけではなかった。

──それなのに。

口でこそマキの指示通りにするとは言っていたけれど、ここに来て初めて、彼女が普段の仏頂面ではなく、他の表情を見せた──初めて瞳を伏せたことに遥は気が付いた。

いつもは鋭くて、強い意思を持った瞳が歪められる。そこに湛えられた光がぼやけたのが強く焼き付いた。

「……衿華さん、魔法少女として表に出る以上は緊張と隣り合わせだって。元々それはわかっていた、のでしょう？」

そんな中、先ほどよりもずっと冷淡な口調でマキは言い放った。

「なんで、マキさんがそんなこと……」

昨日の衿華はずっと手際が良くて、所作も完璧で──だというのに、あそこまで緊張することはわかっていた？　

緊張して、下手すれば失敗することを知っていた上で、衿華は今日の給仕に臨んでいた？

マキがなぜそれを知っていたのか──遥にはそれがわからなかった。

「……わかるわよ、それぐらい。所作が完璧でも、表情だけは──ずっと、緊張でこわばったままじゃない」

仏頂面、仏頂面、仏頂面。昨日から──いや、もっとそれ以前から何度も見てきたからこそ、衿華の表情はそれがデフォルトなのだと、遥はそう思い込んでいた。

そこまで感情の起伏が激しくなくて、だからこそ、常に堂々としていられて。

そんな衿華はコンセプトカフェでの給仕というずっと勝手が違う仕事でも平然とやってのけてしまうのだとばかり思い込んでいたのに。

「──っ」

そんな衿華の表情が、くしゃりと大きく歪んだ。

生徒会長として常に周りの羨望を集めていて、教師が相手でも常に堂々と立ち回っている衿華のこんな表情を見るのは遥にとって初めてのこと。

普段の印象とは程遠い、まるで親に叱られて、泣き出しそうになっているのを堪える子供のような──。

「……そうね。衿華さんは緊張しているのなら、もっと言葉にして。それに、教育係をする側だってそう。衿華さんを過大評価しすぎ。もっと俯瞰した立場でものを見なさい。二人とも、ちっとも意思疎通が取れてないの」

──ちゃんとした子ほど、教育係が必要。

もし、普段から衿華の口数が少ないのが、ただ、感情表現が下手だったからだとしたら。

生真面目で責任感が強いから、ちゃんとした子だからこそ、自身の弱みを口にすることすらできず、結果的に彼女が強い人間なのだと、そう見えていたのだとしたら。

色眼鏡をかけたまま衿華を見つめていた。

自身の持つイメージが衿華を縛り付け、結局──生徒会長としての、おかたい先輩としての衿華が遥の中で固定されてしまっていた。

「──まず、思い出しなさい。教育係がどうって以前に、そもそも魔法少女が何たるかって。ね、ブラン先輩」

けれど、そうやって他者をらしさで縛り付けること。

それが一番嫌いだったじゃないか。

それから逃れるために、ここにいるんじゃないか。

マキが部屋から出て行って、また二人きり。

ベンチで項垂れているのは遥を知っている相手だ。同じ学校の人間として、自分の正体がバレてしまうかもしれない。

それでも、衿華は落ち込んでいる。

眼の前にいる一人の女の子に手を差し伸べることすらできないのなら、きっとそれは教育係以前に──”魔法少女”として失格だ。

「あの、衿華さん」

ぴくりと彼女の肩が跳ねる。

「まずは顔、上げてください」

顔を上げた衿華、見開かれたその瞳に映る魔法少女としての遥の姿。ほんの少し困惑混じりであること──先ほどまでよりもずっと、その表情から読み取れることは増えていた。

──大丈夫、今の僕は魔法少女だ。

そう自分に言い聞かせると、遥は手を差し伸べた。

「お話、聞かせてください。あなたの、先輩として」