デラン幻想紀
染色刎ネ
序章:ノヴァ帝国
第一話 -はじまり-
生まれ育ったこの島は退屈そのもので、幼い頃から自分はどこか別のところからやって来たのかもしれない。なんて空想に耽った。
デレレ島。世界の極東に位置する人口二百人弱の小さな島。そこが、僕の生まれ育った島だ。島には子供が多く、大人は狩猟や畜産、採集、農業、漁業のリーダーと、読み書き算数などの学問を教えてくれる先生、いや、村長とでも言ったほうが正しいのかもしれないが、そんな壮年の男が一人いる。
僕は、今年十五歳になる。つまり、成人だ。これからはいっぱしの大人として、村で畑をやるつもりだ。はじめは強い作物、そうだな。麦なんかがいいか。種を買い付ける費用は九歳からこっそり溜めていた。この村で僕程計画的な人間も居ない。
同年代の奴らは子供じみていて、島の外に行って世界を見たいだとか、学もないし金もないくせに魔法学院に行きたいだとか、夢を語っている。僕にしてみれば、そんなものは非効率的で愚かな行為と言わざるを得ない。
成人の儀礼は収穫祭の七日後。一週間の後に行われる。収穫祭の日は仕事納めで、村の皆で飲み食いして騒ぐだけの、特に珍しくもない祭事だ。
村長、テオフラストスは、見込みのある子供たちにだけ、エーテル術とかいう、よくわからない学問を教えることがある。別に、教えてもらえなかったことを拗ねているんじゃあない。ただ、意味不明な学問を教えるよりも前に、世の中の渡り方を教えるべきだと、僕は思う。
成人の儀礼を前日に控えた今日、同年代の何人かは島の外に出た後の話をしていた。
「俺冒険者になりたいんだよなぁ」
「なにいってんの? 冒険者なんておとぎ話でしょ」
「わかんねぇぜ? 島の外に行ったことねぇんだから。よしんば冒険者になれなくても、傭兵なんかになって、腕っぷしで生きていきたい」
「そ。まぁかってにすれば。あたしはそう言う血生臭いの嫌だから、魔法研究する」
「いいじゃん!」
狩猟のグループに属しているエヴェルトは、どうやら腕力を金にしたいらしい。採集のグループに属しているへレアは魔術が好きなようだ。
「で、シルヴァ。お前は?」
「僕は……」
僕は、ただ穏やかに、この村で死にたい。とは言えなかった。夢を抱く若者らしい同年代の彼彼女らに対して、この枯れた人生観では到底太刀打ちできない。
「シルヴァは畑やるんでしょ? 頑張ってお金貯めてたもんね」
「あぁ……」
「畑かぁ……ま、お前らしいっちゃお前らしいか」
畑だって立派な男の仕事だ。とも言い返せなかった。僕には、彼らのようなものは、何もない。この村の事だって、本当は嫌いだ。誰もかれも、本当は知っているんだ。捨てられてここに来たことを。それなのに、家族みたいにふるまって、血の繋がりなんかない癖におせっかいを焼いて、親切にして、笑って暮らしてる。
悔しくないのか? 死にたくはならないのか? 僕には無いよ。君たちみたいな希望は。世の中がどうなっているか知りたがる好奇心とか、世界が僕たちに向ける目の切っ先のような鋭さを、正面から受け止める度胸とか、そんなもの、僕には無いんだ。
「お前らいつまで明かり点けてんだ。蝋がもったいないだろ」
一つ年上のグズムンドがやってきて、燭台の灯を吹き消していった。秋の寒々しくも澄み渡った空に浮かぶ満天の星空を窓の隅に眺めながら、僕たちは眠りにつく。明日が終われば、彼彼女らと自分を比べずに済む。そう考えると、なぜだか深く眠ることが出来た。
夢を見た。僕が、この島にやってきた日の夢。乳飲み子でありながら、僕の記憶はその時から始まっている。商業船みたいな小舟にゆられて、他の二、三人と一緒にこの村にやってきた僕たちは、この村の子供として育てられた。僕たちは、親に捨てられたんだ。そんな確信だけが、ずっとあった。
外の商人から向けられる目に侮蔑が浮かぶのも、よくわかる。この紫色の瞳が、全てを決定したんだ。唯一赤い瞳を持つテオフラストスに訊いたことがあった。僕は何処から来たのか、どこへ行くのか。テオフラストスは答えた。
「君は愛からやってきて、死へと向かうんだ。しかしな、大切なのはその過程だ。この前話したおとぎ話を覚えているか? ある王の話だ。王は分かたれた世界をめぐり、繋ぎ、和睦を成した。ただこれは、その王が凄いというだけの話ではない。人は誰でも、自分の人生という城の主、王に成れるのだ。意思と、正しい力さえあれば、人は誰でも自分を従える王なのだ」
でも、そのおとぎ話の王は息子に裏切られて死ぬ。しかも妻を攫われたうえで。結局、僕たちの人種には希望を持つ資格が与えられていないんだ。そう思った。
目が覚めた僕たちは、島の南側にある泉で水浴みをして身を清めていた。
「おい、あれなんだ?」
それに初めに気づいたのはエヴェルトだった。遠くの海岸線、夜の紫を薄く残した空の下を、大きな軍船が帆を張って近づいてきていた。
急いでテオフラストスに知らせると、村長然とした態度で皆に家に入るように言うと、港へと向かって行った。
「見に行こうぜ」
そう言ったのもやはり、エヴェルトだった。僕とへレアの制止を無視して、エヴェルトは港近くの茂みへと向かって行く。放っておけなくて、僕たちはついて行った。
軍船なんかが島の小さな港に収まるはずもなく、三本の橋に横付けする形で停泊すると、降りてきたのはマントを羽織った戦士達。
「ヴァイキングだ……」
ヴァイキング。近年では海賊ではなく、皇帝の私兵とされている血の気の多い男たちだ。とりわけ、ただのヴァイキングじゃない、マントを羽織ったヴァイキングはヨムスボルグと呼ばれる大陸最北端に位置する城塞に居を構える猛者たちだと聞く。
最後に降りてきた、フルアーマーを着た男が長だろうか。
「久しいな。パラケルスス殿」
「ノンファーチェス。それは捨てた名だ」
「まぁいい。皇帝陛下からアンタにお呼びがかかった。詳しい話はここじゃなんだ。家にでも迎えてくれよ。長旅で疲れてるんだ」
「……そうか。いいだろう。ただし、戦士達は村に入れるな」
「はいよ」
ノンファーチェスと呼ばれたフルアーマーの男が合図すると、戦士達は足並みをそろえて軍船へと戻っていった。
二人をつけていくと、僕たちの学び舎。テオフラストスの家へ入っていく。僕たちは身をひそめながら、つっかえ棒と窓枠の隙間から家の中の音を聞いた。
「隠遁してから何年になる?」
「さぁな。しかし、ナティヴィタスは老いたことだろう」
「まぁな。このタイミングで、弟王陛下はアレを公になさるそうだ」
「なに?」
「俺たちに断りもなく、アレを帝国の研究成果として、だ」
「そんなことはどうでもいいが、民は戸惑うだろうな……」
「であろうな。だがどうだ? アレの本当の持ち主である俺たちの扱いは。貶され、蔑まれ、奪われ続けてきた。帝国は結局、俺たちを食いつぶすだけだ」
「だったらどうだというのだ?」
「皇帝陛下は兄であるお前をアレの研究に再び従事させるつもりらしい。アンタ自身、歴史を知りながら帝国に飼いならされるのは心苦しかろう。そこでだ。俺と手を組まないか?」
「何をしようと言うのだ……?」
「皇帝を殺し、帝国を滅ぼし世界を取り戻す」
「復讐か。稚拙だな」
「黙れ。運よく王家に拾われた貴様にはわかるまい。人生を、命までも握られてきた同胞の憎しみは、たとえ帝国を滅ぼそうと収まるものではない」
「憎しみで未来は拓けぬぞ」
「そうか。協力する気はないか」
小さな音だが、フルアーマーの腕が動き、剣の柄を握る音がした。一瞬で空気が張り詰める。
「良い村だ。技術的に未発達ではあるが、民の心は豊かだ。なにより、子供に邪気が無い」
「何の話だ」
「家族を失うのはさぞつらかろうな」
緊張した空気が一層高まると、少しの沈黙の後、テオフラストスは口を開く。
「いいだろう。ナティヴィタスに協力はしない」
「そいつはありがたい。ならば――」
「反逆の罰として、この首を持っていくがいい」
「村を襲わぬ保証はないぞ」
「ならば貴様が信じるものに誓え」
「……いいだろう。我が祖に誓う。さらばだ。同胞よ」
一瞬のことだった。つばなりが聞こえると、重たいものが落ちる音がした。
「残念だ。パラケルスス。あんたは良き友だった……。聞いてるかガキ共。首はもっていくが、お前らも世話になったんだろう。丁重に弔え」
独り言のようにそう言うと、ノンファーチェスは家を後にした。潮目から見て、ヴァイキングが出航するのは明日の朝だろう。
数刻の後、成人の儀礼に準備された祭場はそのままテオフラストスの葬儀に使われることになった。
子供たちは木枠に牛革を張ったヒャルタを叩き、僕たちは山羊の角のオファグを吹く。手先の器用な大人たちが、弓なりに削った木材に糸を張ったボーガを弾く。それぞれの音色が鎮魂の旋律を奏で、村を代表してグズムンドが丸太で組んだ遺体を囲う祭壇に火を放つ。
立ち上る煙に炎の暖かな燈が映り、夕陽に帰っていく。煙は天を突き、快晴の空に一筋の道のように尾を引いていく。陽が落ちて夜陰の中、皆で丁寧に壺に移した遺灰を抱え、山を越えて港とは反対の岩礁へと向かった。
岩山のすぐ下は波が打ち付けて反ったように削れている。そこから、灰を海へと振りまいていく。今度は楽器を使わずに、皆で鎮魂歌を口ずさむ。静かな響きは波の音と溶け合って、魂を自然へと還していく。
彼自身が定めた水葬の儀によって、彼は肉体を超越し、生命の循環、永劫の世界へと旅立っていった。
葬儀を終えた夜は、集会場で村人総出で食卓を囲むが、僕は早々に寝床へと帰った。正直、食い物が喉を通らなかった。人が首を落とされることなど、初めてだった。しかも、土壁一つを隔てた先でだ。羊毛の網布で覆われている木枠に藁を敷き詰めた寝台の下の床が濡れるほど、僕の目からは何かが流れ出ていた。怖かったわけじゃない。テオフラストスが特別好きだったわけじゃない。だけど、親みたいなあの人が死んだことが、僕の心臓に突き刺さったまま、夜は更ける。
ヒリヒリとした暑さで目が覚めた。疲れていつの間にか眠っていた僕が目を開くと、ぼやけた視界は橙色に照らされていた。窓の向こう、通りを挟んだ向かいの農業のグループの家が燃えている。
靄のかかったような頭に、叫び声や泣き声が響く。
「どうせデラン人の村だ。消えたところで問題にゃならねぇよ!」
「でもよぉグラン、良かったのか? 隊長の命令を無視しちまって……」
「ククル。ったくお前はそういう小心者だからダメなんだよ。隊長が起きる前に片づけちまえゃ、火事が起きてたんで陛下の命令通り接収しましたぁ。で片付くことだろうが」
「まぁそうかもしんねぇけどよぉ……」
まるで平穏な日常のような雰囲気でそんな話をしながら、男たちは村の大人たちを手斧や剣で切り殺していく。
「おい、シルヴァ。居るか?」
反対側、森に面した窓から、グズムンドが声を掛けた。
「静かに、音を立てないようにこの窓から出られるか?」
「あ、あぁ……」
慎重に足音を忍ばせて窓まで向かうと、グズムンドの手を借りて窓枠を通り抜ける。夜の風はいつも寒くて、手足の先が凍えるほどだったのに、今日はどこもかしこも明るく燃えていて、肌を焼くような熱がぬるい風に運ばれて起き抜けの顔をなでていた。
「森の奥まで逃げるぞ。奴らが去るまで隠れるんだ」
「うん……みんなは?」
「……奴らに襲い掛かって、捕まった」
「そんな……。助けられないのか」
「あぁ。無理だ。どのみち、船まで連れていかれたんだ。忍び込んだとしても、生きて帰れはしないだろう」
「そう……だよね」
僕たちは歩いた。日が上って、軍船がこぎ出す音頭が聞こえるまで。深い森の中をぐるぐると。
遠くで太鼓の音が聞こえ始めた。出航だ。子供の多くが連れ去られた。グズムンドが助け出せたのは七人の大人たちと数人の子供。そして僕だけ。奴隷として売れないであろう大人たちは皆、村の中央にある集会場の前の土を掘った穴の中に埋められていた。
死臭はしなかった。硬直も少しだけだった。だから、ただ冷たい塊になった皆は燃えづらくて、三回も祭壇を組んで火をともした。
灰になった皆を、グズムンドと七人の大人たちは丁寧に水葬した。僕の目に涙はなかった。ただ、もう何も奪われないだけの力をつけねばと、そう思った。
数日後、南の海岸に何人かの男の死体が流れ着いた。手足を縛られ、首を落とされていたが装備や体格で分かる。あの日、村を火に包んだ男たちだった。
俺は、グズムンドたちにばれないようにその死体を森の奥の洞窟に突き立てた丸太に縛り付けて、剣技の訓練を始めた。
腐りかけの死体はあまり硬くなくて、鈍らでも肉を削ぎ落し、骨を切るまでさほど時間はかからなかった。塩水でやられていたのか、更に数週間で鉄鎖で出来た装備も朽ちてしまった。その頃には、朝晩を砂浜を走って過ごすのが日課になっていた。磁石を腰からぶら下げ、砂鉄を集めながら。
集めた砂鉄を牛革の袋に詰めて口を縫い、ヒトの硬さと密度を再現した人形をつくった。中には皆が食べ残した羊の骨を組んで作った模型を入れてある。
重い剣の先で急所を的確に狙う動きが身に付くまで、二か月近くかかってしまった。でもこれで、素早く人を殺す手段を得たと言っていいだろう。
「俺は、誰を殺したいんだ……?」
そこまでやって、ようやく気付いた。これはただの現実逃避だ。村の皆を失った。そのことが、家の建築をしていると実感として内臓を重くする。だから、俺は空いた時間を見つけては、剣技に打ち込んだんだ。でも、その技術が向かう先には、何があるんだろう?
「村長。俺、島を出るよ」
「シルヴァ。お前が畑をやって溜めた金は、復讐のために使うのか?」
「違うよグズムンド。俺は島の外で何に成れるのか。それを知りたくなったんだ」
「確かに、お前の見つけた柔らかいパンを作る方法には、皆感謝しているし、島全体を見てもお前の考えた売り方で、島外と品物を多く取引できるようになった。お前の望みは、なるべくかなえてやりたい。でもな、俺に嘘をついてまで外に行きたがるお前の本当の目的が分からない事には、協力してやることもできないだろう」
俺の嘘は簡単に見破られていた。でも、俺が言った島の外で何者に成れるのか知りたいというのも、全部が嘘というわけではない。
「なら、協力はいらない。俺は一人で島を出るよ。俺が稼いだ金は、持って行っていいんだよな?」
「……。あぁ。わかった。好きにするといい。ただ、誰かを殺したお前を、もう一度村に住まわせることは出来ない。俺は長として、この村を守らなきゃあならない」
「そうか……。そうだな。わかった」
俺が島を出たいと告げると、村の皆は船を仕立ててくれた。小さいが、それなりに荷を積むことのできる商業船だ。
数人の子供たちがついて来たいと言ったが、グズムンドとの約束通り、それは禁じた。島と大陸を繋ぐ港への二週間分の食料と飲み水、しばらく商売をするための麦、そして土地を得たときに植えるための種と土地を買う為の金貨の入った袋を積んで、明日、俺はこの島を出る。
荷を積み終えたのは、夕暮れ過ぎになった。最後に、森の洞窟へ人形を解体しに向かうと、そこにはグズムンドが待っていた。
「どうしてここが?」
「村の再建が始まったころから、時々お前が抜け出すのを見ていた。大人たちが気づきにくい場所と言ったら、俺たちみんなで見つけたここだと思った」
「そうか」
「とうとう明日か」
「あぁ」
「本当に、行くんだな」
「あぁ」
「殺しをすれば、もう戻っては来れないぞ」
「……あぁ」
「島にじゃない。清さにだ」
「いざその時になったら、きっと俺はあの日みたいに縮こまってダメだろうさ。わかってるんだ。人形相手の技術じゃ、所詮ただの真似事だってことくらい。人は切れない」
「じゃあどうして」
「抜け出したくなったんだよ。自己満足の範疇から」
「自己満足……」
「あぁ。あの時の村には、どうやったって戻れない。俺が取り戻したかったのは、今の皆との生活じゃない。あの時の、テオフラストスとみんなが居た、あの日より前の平和な日常なんだよ」
「じゃあ、それをもう一度、俺と一緒に作ってくれよ。子供たちの為にも」
「代替は、代替でしかない。それで、俺の穴は埋まらない。きっともう、この穴が埋まることは無い。だから俺は、俺のやってみたいことをする。たとえ、誰を敵に回しても」
グズムンドは立ち上がると、腰に下げた鞘から剣を抜いた。
「それが、俺でもか?」
「……あぁ」
俺も剣を抜く。グズムンドの研ぎ澄まされた剣とは違う、練習用の鈍らだ。もともと狩猟を担当していたグズムンドの技術は、数か月如きでは衰えていない。彼は俺を試している。
二人して剣を構えると、一瞬の静寂があり、そして、同時に踏み込む。
「!?」
いつもより半歩浅く踏み込んだ俺に、横一線に放たれたグズムンドの切っ先が当たることは無い。一呼吸ずらして、グズムンドの首元まで一閃。突きの太刀筋が走る。
「俺の手の内は知れてたってことか……」
「遠巻きでも、ずっと見てきたからな」
「俺の負けだ」
そう言うと、グズムンドは剣を手放し、地面に腰を落とした。
「もし相手がグズムンドじゃなきゃ、俺は負けてたよ」
「そうとも言えない。突きはなかなかの速さだった」
手を取って起こすと、グズムンドは剣を鞘へと運び、そして腰から鞘ごと抜くと、俺の胸の前に突き出した。
「持っていけ。鈍らじゃ身も守れない。だが人に抜けば、血濡れた道に踏み込むことになる。多分な」
「ありがとう」
言葉もきっと、彼なりの餞別だ。
夜が明けて、東の空に太陽が真円を描いた時、俺は皆に見送られながら港を発った。寒々しい海と空に見守られながら、アンセメルド大陸から東側の海、レモトゥス海を南下する航路を進む。デレレ島は大陸北東に位置する、極東の島だ。そこから商業船の行き来を主とする港町へは天候次第だが大体10日かかる。
賊や嵐に襲われないことを祈りながら、何もない海を航行する。日中は喉の渇きに、夜は海風の寒さに耐えながら、体力を徐々に消耗しつつ、それでも九日後の夜、ウミネコが飛ぶ空を眺めて陸地が近いことを知る。
辿り着いたのは、小さな港町だった。すぐに船と持ってきた麦を売って金を作り、馬と荷車を買い付けると、俺はほど近い丘陵にある町へと向かった。地図を買う為だ。売れる麦はまだかなり残っている。どこかの商会に登録して、公式な商人として取引を始めるのがいいだろう。そのためにはまず、情報と元手になるこの品種の麦を育てられる土地が必要だ。この先の丘陵にある田舎町なら、差別されるデラン人でも土地を買うことが出来るかもしれない。
馬車を一日走らせ、丘陵の町、テルミノスへとたどり着くと、すぐにあまり名の知れていない商会へと向かった。
その商会の名はヒルディングル商会。門の上に角の生えた鹿の頭のオブジェが付いた、あまり趣味がいいとは言えない建物だった。
「何か御用ですか?」
建物に入ると、一人で受付に立つ同い年くらいの女性が声を掛けてきた。
「入会と、土地の買い取りをしたいんですが、取り扱いありますか?」
「入会はこちらの書類に目を通していただいて、下のここに署名をお願いします。会長が目を通されるので、長くて数日かかることもありますけど、どこか宿泊なさってますか?」
「まだですけど……?」
「よければ二階の部屋を使っていただいてもいいですよ。ウチも人が増えてきて、去年建て直したんです」
「それはありがたいです。お願いします」
「ではこちらの書類にも署名お願いします」
手渡された書類に目を通し、名前を書く。姓は無いが、平民には珍しくもない。宿泊設備の利用には、月に3オンスほど必要なようだ。書き終えた書類を渡すと、さらっと目を通されたが、特に質問されることは無かった。
「改めまして、受付嬢のアルタ・メトゥーです。よろしくお願いします!」
「シルヴァです。こちらこそ、よろしくお願いします」
「さてと……土地の取り扱いは、テルミノスが過疎化していることもあって、領主様自ら外の人に向けて売りに出しているものがあるんですが……」
「何か問題でも?」
「その、西の森林近くの土地ばかりで、魔物や獣の被害がひどく、元居た人が都市か町の中心に転居される形で手放されたものが多く、住むとなるとかなり対処しないといけない問題がありまして……」
魔物。まだ実物を見たことは無いが、人間以外でエーテルを持ち、魔力と似た力を持つ生物のことだったか。気をつけなきゃいけないな。
「土としての質はどうですか?」
「畑でもなさるんです?」
「えぇ。麦を」
「麦でしたら問題ありませんね。皮肉なことに魔物や獣が害虫や鼠の駆除にも役立っていて病気を持ち込む動物はそうそう現れませんし、どこももう何年かは何も植わっていないので、地力もあるはずです。気候としてやや湿潤なのが気になりますけど、排水に関しては下水道や人工河川が設置されたので開墾が終わった頃には湿害が起こるほどではないはずです」
「なら良かったです。馬鋤の貸与とかってありますか?」
「はい。古いものになりますが、修理も商会を通して町内の職人さんに頼んでいただければ、二割ほど安くなりますよ!」
「じゃあ一機お願いします」
「ちなみにご予算は?」
「20オンス金貨が大体二百あります」
「でしたら、このあたりが馬鋤も借りてちょうどかと。余裕を持たせるなら南側がおすすめです」
テルミノスと周辺を記した地図を指さして、アルタさんは慣れた様子で説明する。
「じゃあ、こっちで」
俺が指したのは、南側の端。町はずれのすこし狭い土地だった。いずれ人を雇うとしても、一人で始めるならこのくらいだろう。なにより、周囲の土地まで軒並み売りに出されているのがいい。いずれ土地を増やすのにもってこいの地点だ。
「そこですか……町の中心地から結構遠いので、歩いて向かうだけで半日使いますけど、大丈夫そうですか?」
「まあ、開墾してからは小屋でも立ててその場に住みますよ」
「そうですか……まぁ、ここはいつでも開いてますから、好きな時間にいらしていただいて大丈夫ですよ」
「うん。ここでお願いします」
「はい!」
そんなこんなで翌日、借りた部屋の金庫に土地と馬鋤で四分の一ほどになった金貨を置いて、早速買った土地へ向かってみると、そこには――
「なんだ……これは……」
俺の眼前に広がっていたのは、草地ではなく、細い木が密集した、ちょっとした林だった。
「伐採して、根を掘り起こして、開墾……だめだどう考えても必要期間に対して生活費が足りない!」
おまけに生えているのはまだ若い松。木材としての商品価値が皆無で、乾かす工程を踏んだ後の薪としてくらいしか利用価値がない……。この辺りは林業が盛んだと聞いていたが、前の持ち主は植えるだけ植えて土地ごと手放したのか……!
しかも下手に林業が盛んな地だけあって、薪に困ることもない。この土地で若木を売る方法がない! 切っても捨てるだけか……?
「いやまてよ……」
もっと考えろ。これを活用する方法が、何かあるはずだ。なければ畑を始める前に行き倒れる……。それだけは御免だ。あんな啖呵切って島から出てきておいて、畑も持てずに死ぬとか、あり得ないだろ……!
思い出せ。何かなかったか? 木製で、加工が楽で、商品価値のあるもの……。
そうだ。昔、村の大人がボーガの弓の手入れに松の樹脂を塗っていた。どうやって作るんだ? 恐らく蒸留だろうが……この街に醸造屋ってあるのか?
町に帰り着くと既に夜だった為、商会の宿泊設備で睡眠をとり、早朝。一番乗りで町の店を周って歩いた。
結果から言うと、醸造機を持っているのは薬屋で、ポーション用のものしかないそうだ。壊れて使わなくなったものなら譲ってくれるということだったのでありがたく頂戴し、とりあえず何本か切った松を細かくして水に放り入れ、火を焚いて松を湯がいてみた。その湯を更に醸造機に入れ、水と分離させる。すると、黄色く粘性の強い松脂が生まれた。
少しだったしまぁこんな量か……。近所の木こりさんたちに滑り止めとして配るか……。
「おぉシルヴァさん! どうですか開墾の方は!」
「いやぁそれが、生えてた松を伐採するので手いっぱいでなかなか……」
「まぁゆっくりやりましょうや! ねぇ?」
「ええ、少しずつ頑張りますよ。ところで、最近握力とか落ちてませんか?」
「お、急になんだい? まぁこれでももう年だからなぁ、そりゃあ若いころに比べたら全然ダメよ」
「革手とか使ってますかね?」
「そうそう。下手に硬かったからか、年食ってから手の皮が良く割れちまってねぇ、痛ぇんで革手買ったよ」
「これ試供品なんですけど、滑り止め。どうです? 試しに使ってもらえませんか?」
「あ? あぁまぁ無料ってんならいいさ!」
「ありがとうございます! 効果が良かったら、他の木こりの皆さんにもおすすめお願いしますね!」
「おうよ!」
そんな感じで、近所づきあいだけは何とかうまくやっていて良かった。
近所の木こりさんたちの評判で、松脂の滑り止めはいろいろなことに使われ始めた。醸造機はなかなか値の張るものだったようで、俺のところには木材の切り出しで余った樹皮が多く届くようになった。もちろん、松脂の売り上げの二割ほどを、樹皮を提供してくれた木こりさんたちに支払っている。
松脂に助けられる日が来るとは、自分でも思っていなかったが、何とかそれで食いつなぎ、そして近所の皆さんの助けや、商会のツテなんかを使って、苦節二年が経った今日、初めて麦を納品した。遅蒔きだったこともあり、生産量はまずまずだったが、それでも麦はそれなりの期間で完売したらしい。商会の商人たちが上手いことやってくれたのだろう。
今日から、第二段階。パンという商品の開発を始める。島からパンに使っていた菌の一部を持ってきていて良かった。室温を保ちながらの保存には苦労したが、案外、宿泊部屋の金庫が役に立ってくれた。
今は、周囲の木こりさんたちから購入した木材で二軒の小屋を建て、庭先に石窯を組み終わったところだ。あとは倉庫があれば何とかなるが、これまた親切なことに商会の倉庫を一部貸してくれることになった。しかも格安で。こんなことをしょっちゅうしているから、収支が少なく、商会を大きくすることに二の足を踏んでいるのでは? と思いつつも、ありがたく使わせてもらっている。
麦畑で収穫できたものの内、四割をそのまま売り、六割をパンにして、そのうちの二割を近所で分ける。そんな生活だ。冬は特に、スープを吸うほど柔らかい俺のパンは人気になり、売れ行きが上がる。麦の方は、商会の中抜きがあるものの、売り上げの五割は手元に帰って来るので、世話になっていることもあり、受け入れている。
言っていたほど魔物や獣は現れず、いや、恐らく領主の兵が魔物を討伐しているのもあるだろう。とにかく、この一年と少しそれらの被害は皆無だった。
俺は少しずつ、手の中にものを増やしてきている。ここから、どこまで行けば国の仕組みを変えられるだろうか。商売によっては、恐らくどこまで行っても政治に関与することは出来ない。ならば、商売で地位を持ち、貴族や領主の目に留まり、相談相手のようなポジションを手に入れることが第一歩だろう。
柔らかいパンの売り上げは上々。このテルミノスに訪れた人が、気に入って土産にするくらいだ。そろそろ、商会の取引相手から俺に直接パンの発注が来てもおかしくはない。新たな土地を買って、人を雇い、事業を拡大することも視野に入れ始めていた。
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