愛情表現を知った今
『蒼』
1度目。
『蒼』
2度目。
『蒼ってば』
3度目。
彼女の鈴が鳴るような繊細な声がふて腐れたように俺の名を呼ぶと、俺はようやく彼女に振り返る。
『どした?』
ちらと見た彼女は、拗ねたように唇を尖らせて視線を下げていた。
…――俺の1番好きな顔。
ガキって言われたら否定はできない。なんたって、俺は彼女のこの顔が見たいがために彼女の声が聞こえないフリをするのだから。
苛めたいのに嫌われたくなくて苛められない格好悪い俺の、少しばかりの楽しみの一つだった。
彼女の視線が俺に戻ってくると、俺は慌てて視線を彼女の指先に移した。
彼女の指先は規則的にリズムを刻んでいて、少し苛ついてるのが分かる。
その指がふいにすっと隠されると、
『帰りにミスド寄って行こうよ!』
途端に笑顔になった彼女が視界の端に映った。
その笑顔が偽りのものだと分かっていても、可愛いくて愛しいと思ってしまう。
口元が緩むのを隠すようにリュックに手を伸ばした。
"藍"。
頭に浮かんだ彼女の名は、
『お前、マジでドーナツ好きだな』
口にはできず。
そんな自分が本当に情けなくて、自嘲的な笑みを漏らした。
どうして俺は彼女の事になるとこんなにも臆病になってしまうのだろう。
幸せにしたいのに。本物の笑顔を引き出してあげたいのに。
どうしたら彼女を笑顔にさせられるのだろう。
『うん、好き!』
『知ってる』
好きの言葉さえドーナツに先越されるなんて。
あの時の俺には彼女の笑顔を引き出す手段が何一つ思い浮かばなかった。
ポンデリングを頼んだ時のように、良かれと思ってやった事がいつも裏目に出る。
彼女は俺の小さな言動にも一喜一憂するのだと言うのに。たったそれだけの事が分からなかったんだ。
「蒼」
「ん?」
ほら、たったこれだけ。
彼女の呼び掛けに振り向いた俺の瞳に映ったのは、満面の笑みで俺を見つめる彼女の姿。
「ううん、呼んでみただけ」
にっこり笑って彼女は俺に擦り寄ってくれる。
…――どうしたら彼女を笑顔にできるのだろう?
その答えはこんなにも簡単だった。
彼女は自分の言葉に俺が反応するだけで嬉しそうに微笑んでくれるのだから。
「藍」
「何?」
「もっと、ほら、こっち来て?」
「う、うん」
傍に寄った彼女の腰に腕をまわして引き寄せると、彼女は可愛い声を出して驚いた。
すぐ近くの距離にいる彼女の真ん丸の瞳を覗いて。
「キス、したい」
そう言えば。
「え、な、な、」
顔を真っ赤にさせて戸惑う彼女に「嘘」と笑えば、俺の1番好きな彼女の顔が表れる。
拗ねて尖ったその可愛い唇に、ちゅ、そっと口付けた。
途端にボッと燃えるように顔を真っ赤にさせた彼女。
つられて真っ赤になってしまった顔を隠すようにその体を抱き締めれば、彼女もぎゅっと抱き締め返してくれる。
愛情の表現を知った今、
幸せは限界を知らない。
~END~
二人で幸せな恋をしませんか? 雨森里子 @amemorisatoko
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