第2話 子どもの頃の約束
(離婚……離婚って、離婚?)
ちょっと何を言っているのか理解できない――現実を受け止めきれないエルザが返す言葉を失っている間にイチェイスは馬から降り、女性を降ろす。
「私はついに、前世で深く愛しあった女性に……ジニーに出会ってしまった……そして、前世の記憶をハッキリと思い出してしまったんだ……!」
「ぜ……前世、ですか?」
唐突な離婚宣言に続く、現実離れした理由がエルザの頭を更に混乱させる。
エルザだけではない。エルザと同じように主を待っていた若い執事と年老いた女中も困惑した表情を浮かべる中、イチェイスだけが満面の笑顔で語り続ける。
「約束しただろう? ジニーが現れたら、自分は潔く身を引くと……!」
前世、離婚、約束、身を引く――そこまで言われてようやく、エルザは子どもの頃の約束をおぼろげに思い出した。
――僕、前世でジニーって子がすごく好きだったみたい……だから、君と結婚した後にジニーと出会ったら、君を傷つけてしまうかも……――
――じゃ、じゃあ……ジニーが現れたら離婚する! ジニーが現れたらジニーとイチェイスが幸せになって、ジニーが現れなかったら私とイチェイスが幸せになればいいじゃない!――
(ああ……ああ、確かに私、身を引くって言ったわ……)
親にも内緒にして欲しいと言われた、前世の話。まだ10歳にも満たない子ども達の、二人だけの秘密のやりとり。
それ以来イチェイスから前世の話が出る事はなく、10年以上も時が過ぎ――結婚する頃にはエルザは前世云々の話をすっかり忘れていた。
「今更、運命の出会いを果たすなんて、君に悪いとは思ってる……でも僕は、ジニーを放っておけない。今度こそ、ジニーを幸せにしたいんだ……!」
言いながらイチェイスはジニーと呼ぶ女性の肩をそっと抱きよせる。
エルザの視界に強引に入れさせられた女性はエルザの方を見ずに、イチェイスを心配そうな表情で見つめていた。
薄い栗色の髪はパサパサ。化粧っ気も全く無い。顔立ちは悪くはないが磨けば光る、と表現できるような伸びしろは感じられない。
唯一、鮮やかな桃色の瞳だけが『綺麗』だと表現できそうな点以外、はまさに『平民』と呼ぶにふさわしい平凡な女性だった。
(せめて、圧倒的な美と才を持っている相手だったなら、これは勝てない、と諦められたかも知れないのに……)
前世で深く愛し合った美しい男女が、出会い、結ばれる――物語や歌ではよくある話。
その際、今世の伴侶や婚約者が邪魔者扱いされてしまうのも、よくある話だが――
(……どれだけ努力しても、前世の愛には叶わないというの?)
チクリと痛む胸にそっと手をあて、エルザはイチェイスの方に視線を移す。
陽光を受けてキラキラと艶めく銀の髪と、青みがかった紫色の眼――それらの魅力を最大限に引き出す、端正な顔立ち。
それに比べて、エルザは重々しい印象を抱く黒髪と暗みがかった赤紫の瞳。
顔立ちは女性同様悪くはないのだが、周りを惹き付けるような華はない。正直、化粧の力に頼っている面は否めない。
だからこそ麗しい風貌の夫に釣り合うよう、日々美容と健康に気を使ってきたのに。
家を空ける事が多い彼に代わって、懸命に女主人としての務めを果たしてきたのに。
これまで自分に向けられていた夫の愛が、今、突然現れた女性に向けられている。
敗因は前世で愛し合っていたから――ただ、それだけ。
前世の記憶があって、前世で愛した人がいる男を愛してしまった自分の、自業自得――
「だ、旦那様……ひとまず、館の中に入りませんか? 帰りが遅いので心配していたのです」
この異常な雰囲気に耐えかねた若い執事、シュオンが場所を変える事を提案する。
幸い今、周囲に人はいないが、このまま話していれば嫌でも人目につく。
突然愛人連れて離婚宣言した領主と、ガックリを肩を落とす女主人を街民に見られるとマズい――後、間違いなく立ちながら話す事じゃない。
そんな執事の配慮を、イチェイスは絶妙に踏み躙った。
「ああ、そうだな……ジニーに湯浴みの用意を。こんな汚い服じゃなく、綺麗な服を着せたい。そして、エルザ……今から離婚届書を書く。それにサインしたらなるべく早くこの館から出て行ってほしい」
「イチェイス様、それはあまりにも……!!」
イチェイスの冷酷な言葉にシュオンが声を荒げたが、イチェイスは構わずエルザに問いかける。
「エルザ……約束しただろう? ジニーが現れた時は離婚してくれると」
「……ええ」
イチェイスの身勝手な言葉に、か細い声で返しながら手の震えを必死に抑える。
離婚は受け入れる。彼の言う通りそういう約束を言い出したのは自分だと、身に覚えがあるから。
ただ、つい一週間ほど前まで――温かい眼差しと涼やかな声で自分を優しく包み込んでくれた夫のあまりの変わりように、頭がついていかない。
まるで別人のよう――そう感じたエルザは再び女性に視線を向ける。
この女が夫に何か吹き込んだのか、あるいは呪術でも使ったのだろうか――? という疑心が作り出したエルザの表情は、お世辞にも怖くないとは言えなかった。
びくりと怯える女性をイチェイスが力強く抱き寄せて
「ジニー、大丈夫だ……今度こそ私が君を守る」
「イチェイスさま……!」
半透明の青紫の障壁越しに見つめ合う二人に、エルザの瞳から涙が零れ落ちる。
もう自分が何を言っても聞いてくれないのだろう、という諦め。
一体何が起きているのか分からないという恐怖、不安、絶望。
愛した人の熱い眼差しが自分以外の女性に向けられている、絶望――
様々な感情が作り出す涙がとめどなく溢れ出てくる中、エルザは逃げるようにその場を走り去った。
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