四、モデルとひとりっ子
「深見さんに、番号とメアド教えたの?」
期末テストの帰り道、千は小麦と緑に愚痴を吐いていた。バンとコウの試合の後、千は深見に自分の携帯の番号とメールアドレスを教えたのだ。特別な意味はない、と自分に言い聞かせてみるが、本当はバンとコウの、『ひねくれながらもお互いを思いやる兄弟関係』というやつに触発されたところもある。
「教えた私はアホだったよ……」
大きく溜息をついた。教えたその晩におやすみコール。それから毎日、朝七時きっかりにおはようメールが届く。しかも内容が気持ち悪い。
「『かわいい千ちゃん、おはよう! 今日も気持ちいい朝だよ!』って、ハートの絵文字満載で送られてくるなんて、悪夢すぎる」
小麦は腹を抱えて笑い、緑は同情した。
「微妙に嫌がらせというか、ストーカーみたいだな」
千は空を仰いだ。水色の手の届かない天井が、どこまでも続いていた。
「よーし、じゃあ円賀来寺に出発する!」
深見が音頭を取った。夏休み初日。言闘部一同は、ぼたんと弘都の企画した強化合宿に参加することになっていた。理宇治は学校で仕事があるということで、夜に様子を見にくる予定になっている。
円賀来寺は、夏ヶ瀬駅から通学路を真っ直ぐ行き、学校を過ぎた奥にある寺だ。弘都の父親が住職になってから新築したので、本堂はきれいだった。同じ敷地にある広い家が、今回の合宿先だ。
「本当は通夜の宴をする場所なんだけどなー。一応襖で仕切れるし、使ってよ!」
さらっというが、いくら本堂も家もきれいでも、周りは墓場だ。あまり合宿にふさわしいとはいえない。
「大丈夫ですか、ここ。お化け出たりしませんか」
千が真顔で訊ねると、弘都は笑って「変なのは出ないよ」と言った。『変なの』は出なくても、『普通の』は出るのか? 千はぞっとした。
「では、荷物を置いたら早速先輩、後輩で試合をする。小麦は桜の母上について、夕食の手伝いをするように!」
ぼたんが指示すると、コウと千、バンと緑に分かれて試合をした。千は、深見とぼたんが部屋の隅で何かこそこそ話し合っていたのが気になったが、そこをコウに突っ込まれてしまった。
「バン先輩、無口だし、何考えてるか分からないけど、人のことよく見てるよな」
「コウ先輩もだよ。軽薄そうに見えて、案外色んなことしっかり考えてる」
「二人とも、本質が見えてきたようだな」
夕食は定番のカレーライスだった。千と緑は先輩との手合わせの感想を述べ合い、ぼたんはその様子を感心しながら聞いていた。
「あとは度胸がついてくれば、って感じですね」
「ああ、明日の私の特別訓練が役に立ちそうだ」
ぼたんはいつも通り背筋をピンと張り、凛としていたが、深見は悪そうな笑いを浮かべていた。
「特別訓練って、何をするんですかぁ?」
小麦が全員にデザートのアイスを配りながら聞くと、ぼたんは珍しくちょっと困った顔をした。
「うーむ、これは小麦に話してもいいものなのだろうか。部員ではなく、マネージャーであるし……」
そのとき、玄関の引き戸が開けられる音がした。
「こんばんはー、桐生ですが」
様子を見にきた理宇治の声だった。小麦はぼたんとの会話を忘れて、飛ぶように玄関へ走っていった。
「姐さん、小麦ちゃんには黙っておきましょう。あの子、危険ですからね。色んな意味で」
弘都の言葉に、ぼたんは頷いた。
「そうだな。明日は彼女に休んでもらおう。みんなも彼女には明日のこと、黙っているように」
千と緑は不思議な顔をした。
翌日朝四時半。千はぼたんに起こされた。小麦はまだ横で寝息を立てて眠っている。静かに着替えを済ませると、本堂横へ移動した。
すでに男性陣は全員集まっていた。弘都の母親には、小麦が起きたら、今日の夕飯の買出しに遠出してもらうように頼んである。
「今日は体力を使う。全員体調は悪くないか?」
ぼたんが全員の顔色をうかがう。体調が悪そうなメンバーがいないことを確認すると、駅の方へと歩いた。
そこから電車を乗り継ぎ一時間弱。一同は新宿まで出てきていた。まだ六時ということもあり、ターミナル駅でも人通りは普段より断然少ない。ぼたんは後輩を連れ、迷わず朝の歌舞伎町に足を踏み入れた。
「いいか、ここからは別行動だ。千と緑はこっちの地図。コウとバンはこっち。これは深見と桜の分だ。私は近くのファーストフード店にいる。地図に書いてある指令をクリアしたらそこへ来るように」
「ラジャー!」
バン、コウ、それに深見と弘都はそれを受け取ると、颯爽と散っていった。ぼたんもさっさと店に入っていってしまった。残された千と緑は、呆気に取られていた。
しかし、ただ立っていても時間は過ぎていってしまう。ごそごそと地図を広げると、右下に書かれている指令を見た。
「……『牛頭ローン株式会社から五百万取り立ててくること』」
「はぁっ?」
千は二日酔いでにらみつけるホストも無視して、絶叫を上げた。指令を読み上げた緑も、目を白黒させている。
「む、む、む、無理に決まってるじゃないか! こんなこと!」
「と、と、と、とにかくぼたん先輩に電話しよう!」
千は震える指で携帯のボタンを押した。電話に出たぼたんは、あくまでも冷静だった。
「何を怯える? 相手は同じ人間だ」
「同じ人間でも、住む世界が違いすぎますよ! 一高校生が取り立てなんて、できません!」
「そうか? 桜と深見はもう帰ってきたが」
ぼたんの言葉に、千は肝を抜かれるどころか、魂まで抜かれたような気がした。そのまま気を失って倒れてしまったら、どんなに楽だろう。
「とりあえず、やってみろ。死にかけたら助けにいくから」
「そんな状況になったら、連絡の取りようがないじゃないですか!」
めまいがした。こんなことをやって、何になる? 命の危険に晒されるだけじゃないか。
「千、お前は考えすぎだ。物事は案外、シンプルだったりするぞ?」
意味深な言葉を残して、一方的にぼたんは電話を切った。
「……どうするよ、梅田」
ツー、ツー、と無機質な音が流れる携帯を手に、うつろな目で緑を見つめる。
「どうするも、こうするもないよな……」
緑も死んだ魚のような瞳で千を見つめ返す。小麦を連れてこなかった意味が、今ならよくわかる。理宇治は以前、連帯保証人にされかけたことがある。そんな兄を持つ彼女が、こんな場所に来たらどうなることか。
「ともかく、ともかくだ。入り口だけでも見てこよう。それで勘弁してもらおう」
緑と千は、こそこそとその場所へ急いだ。
ビルとビルとの隙間にある、細い階段。そこを昇れば牛頭ローン株式会社だ。迷うことなくたどりついてしまった。灰色の、コンクリートむき出しのビルは、いかにも『闇金会社』といった雰囲気だった。
「着いたね」
「ああ」
二人は外から、窓ガラスに貼られた『牛頭ローン』の文字を見上げた。ここから先、どうしよう。ノープランだ。入り口に立ち尽くしていると、大きな太い影が二人にかかった。
「おい、お前ら、ここになんか用か? 邪魔なんだけどよぉ」
金のネックレスにいかついリング。まだ朝だというのにブランドもののサングラスをかけた、がたいのいい男は、二人をにらみつけた。千と緑は亀のように首をすくめ、後ずさりする。
「い、いや、俺たちは特に何も……」
「ちょっと道に迷っちゃって……」
二人が苦しい言い訳をすると、男はドスのきいた声で言った。
「客じゃねぇならどきな」
千は泣きそうになりながら、つい小声で毒づいた。
「ぼたん先輩のバカ……。こんな指令達成できる訳ないじゃん!」
「あん? ぼたんだぁ?」
階段を昇ろうとしていた男が振り向いた。千は思わずギャッと叫び声をあげた。緑はそんな彼女の口を手でふさぐ。
「いえ、こっちのことです! 全然何にも問題ありません!」
男はじろじろと二人を見て、質問した。
「お前ら、もしかして夏ヶ瀬高の言闘部か?」
「え? ええ、そうですが」
緑が答えると、「んじゃ、ちょっくら待っとけ」と男は数段抜かしで階段を駆け上っていった。
言われた通りしばらく待つと、男はボストンバッグを手に降りてきた。
「今日が期限だったか。しっかり古武んとこに届けろよ」
ずっしりと重いバッグを緑に押し付けると、再び男はビルの中へ入っていった。緑はあまりの重さにバッグを地面に置いた。
「なんだったんだ、一体。それに、この荷物はなんだ」
「ちょっと開けてみようか」
千がチャックを少し開ける。すると中に札束が入っているのが見えた。
「え、ええええっ?」
緑も思わずバッグから飛びのく。
「もしかして、これが『指令』?」
千が言うと、緑はバッグを再び手にした。
「ともかくぼたん先輩のところへ行こう。話はそれからだ」
ファーストフード店に着くと、すでにコウ、バンも戻ってきていた。
「うむ、合格だ」
ぼたんはバッグを少し開けて中を確認すると、二人を褒めた。その瞬間、千も緑も緊張の糸がとけ、ぐったりとした。
「一体、なんだったんですか、これは」
緑がアイスコーヒーを吸いながら、ぼたんに訊ねる。
「いわゆる度胸試しだ。今日はみかじめ料の支払い日だからな。『古武の遣いだ』と言えば、どんな強面でも案外簡単に払ってくれる。言っただろう、『物事はシンプルだ』とな。どうやら二人とも大分度胸がついてきたって話だったし、いい訓練になると思ったのだ」
「度胸がついてきた? 何を根拠にそんな……」
千が言いかけたとき、不意に深見に目がいった。何か違和感があった。バンとコウの言闘試合をする前、急に自分たちの悪口が流れた。今まで深見を恐れていた人間もそれに加担していた。まさか。
「兄貴がわざと学校で悪口流行らせたってこと、ある?」
深見は千の質問に笑顔で答えた。図星だった。
「小麦ちゃんはともかく、お前と緑、メンタル弱いだろ? どれだけ耐性ついてるのか、調べさせてもらった訳よ。姐さんから報告するようにも言われてたしな」
悪びれた様子もなく、朝のメニューであるエッグマフィンを詰め込む。やっぱり『深見』と書いて『性悪』と読む。自分の兄はそういう人間だった。千は頭を抱えた。
「ところでこのお金、どうするんですか?」
緑が小声でぼたんに聞くと、彼女は平然と言った。
「借りた人間に返すに決まっているだろう。これは過払い金なのだから」
意外な言葉に、緑は驚く。闇金のボスであるような存在の家庭のぼたんが、そこから金を取り立てて返す? 何かおかしい気がして、彼女の顔をのぞきこむと、しっかりとした声で話した。
「私の家は確かにその筋だが、私はそれが嫌なのだ。だから、親父には内緒で返している。バレて泳がされているだけかもしれないがな」
フッと、少し悲しそうな表情を浮かべると、弘都が明るい声で彼女を元気づけた。
「まぁ、何かあっても身近に法律家もいるからね!」
ぼたんに顔を近づけると、左の手で容赦なくそれを叩く。彼女なりの照れ隠しだったのだろうか。ぼたんの顔は、少しだがピンクに染まっていた。
「お抱えの弁護士さんでも雇ってるんですか?」
千が訊ねると、代わりに右頬を押さえた弘都が答えた。
「弁護士の卵&弁護士事務所でバイト中、中慶大一年法学部在学の弘都さんがいるじゃあないですか!」
「……えええええ?」
千と緑の絶叫が店内にこだました。金髪チャラ男が法律家志望。確かに、人は見た目で判断できない。
円賀来寺に戻ると、小麦が怒っていた。置いてけぼりにされたことに腹を立てていたのだ。
千が事の顛末を話すと、自分の兄のこともあったので仕方ないと納得してくれたが、それでもまだ機嫌は直らなかった。
「だからって、一言残していってくれればよかったのに」
「でも、何かあったら大変でしょ」
「千だって、何かあったかもしれないじゃん!」
風呂場に小麦の高い声が響いた。
円賀来寺には、大きな浴場がある。葬儀のときその場に泊まれるように、弘都の父が造らせたのだ。一応、レディファーストということで、千と小麦が先に入っていた。
二人が湯船に浸かっていると、入り口から冷たい風が吹き込んだ。ぼたんがドアを開けて入ってきたのだ。風呂桶を持って、流し場で体に湯をかける。千は彼女の背中を見つめた。ぼたんの背中は白く、美しかった。
「なんだ、千。私の背中に何かついているか?」
ぼたんが視線に気づき、振り向く。千は羞恥のあまり、湯船に首まで浸かり、上目遣いで彼女を見た。千は何もついていない背中に驚いて、彼女の背中を眺めていたのだ。ぼたんはそんな千の考えはお見通しだった。
「どうせ彫りものでもあると思ったのだろう。残念だったな」
冗談めかして笑うと、千は密かな考えに気づかれたことに焦って、言葉につまった。
「私の父にはある。仏の彫りものがな。だけど、私には不要なものだ」
「どういう意味ですかぁ?」
千に寄り添っていた小麦が、質問を投げかけると、ぼたんも湯船に浸かってから答えた。
「背中を仏が守ってくれなくても、私の後ろを守ってくれる変態狂犬がいるのでな」
千は何となく、弘都に対するぼたんの気持ちを察した。
三人が風呂から上がると、コウとバンは勉強をしていた。コウはバンとの試合の後から留学について真面目に考えはじめ、バンも遅ばせながら弘都に教えてもらいつつ、受験勉強を始めていたのだ。
「あれ? 緑くんと深見さんは?」
小麦が聞くと、「そう言えば、見ないな」とコウが言った。勉強の邪魔にならないように、静かにしていると、縁側の方から微かに話し声が聞こえた。
好奇心旺盛な小麦が、障子に耳を当て、外の声を聞く。声の主は、どうやら深見と緑のようだった。
「小麦、どうしたの?」
訊ねた千の口を思いっきり塞ぐと、障子の向こう側を指差した。千は指図されたように、小麦と同じ体勢で耳をつける。
「緑、今度の土曜、デートすっか!」
兄の衝撃的な一言に、千は驚きを隠せないでいた。そんな二人の様子に、勉強していた二人と弘都も興味を持ち、一緒に障子の向こうの声に耳をすませる。
「で、デートって! なんで男同士でそんなことしないといけないんですか!」
慌てる緑に対して、あくまでも面白そうな深見が目に浮かぶ。
「いんやぁ? 緑くんに特別カリキュラムを組んであげようと思いましてねぇ」
「特別カリキュラム、ですか?」
「そう、お前はまだ、自分自身と向き合っていないように俺は見えた訳。千だって、まだまだだけど、自分の精神的な弱さを克服しようとはしてる。それには気づいてるだろ?」
緑は黙ったままだった。が、深見は勝手に「次の日曜、夏ヶ瀬駅に十時集合な!」と約束を取り付けた。
「千、どうする? 緑くん、取られちゃうよぉ?」
小麦が面白半分、と言った口調で千につっかかる。千はそれに対し、何も答えることはなかった。緑と兄が、ということよりも、深見が自分をそういう風に評価していたことに驚いていたのだ。何だか照れくさかった。
「兄貴……」
「しっかし、OBを差し置いて、なーに考えてるんだ? 深見ちゃんは」
弘都が言うと、コウがいつものエンジェリックスマイルでさらっと悪い計画を発案した。
「俺たちに内緒ってとこは気になりますよね。こりゃもう、ついて行くしかないんじゃないですか?」
深見、緑以外の六人は、一斉に悪い笑顔を浮かべて親指を立てた。
日曜夏ヶ瀬駅午前十時。それより十五分早く、待ち合わせの東口ロータリーに六人の男女が集まった。ぼたんも和服だと目立つため、今日は珍しくスカートだ。髪もおろしている。ただ、こんなに大勢いると、嫌でも目についてしまう。メンバーは目立たないように、エレベーターの横のスペースに身を隠した。それからすぐ、緑が到着した。夏らしく爽やかなブルーと白のポロシャツにジーパン、サンダルと軽装だ。
腕時計を見て時間を確認する。十時ジャスト。それでもまだ深見は来ない。
「あいつ、時間にルーズだからなぁ」
コウが呆れたように呟くと、何者かが走ってくる音が聞こえた。白い花柄のワンピースに同じく白いカーディガン。ちょっとかかとの高いサンダルでふわりと駆け寄ってくる少女に、一同は頭を抱えた。緑の前で可愛く首をすくめた少女は、深見だった。
「兄貴、なんでまた女装……」
「千、静かに」
バンが千の口を押さえる。小麦も笑いを堪えるのに必死だ。その場にいる緑も、どうやら困惑しているらしく、目が泳いでいる。入学式以来の女装だが、似合ってしまっているのが恐ろしかった。愛らしさで言えば、小麦にも負けないだろう。
二言三言会話を交わした後、二人は改札へと向った。六人も二人ずつに別れ、気づかれないように後を追う。電車でも、ワンドア前と後ろに散って観察する。
「なんかアレじゃデートだよね」
千と一緒のペアになったコウが、「男同士なのにね」とつけたして苦笑した。二人を遠くから見つめる。少しだけ千は心が痛んだ。やっぱり緑には、可愛らしい小柄な女の子が似合うと再度認識させられてしまった。兄の格好に比べて、自分はどうだ。ぼたんに他の格好も勧められたが、今日も結局Tシャツにデニム、スニーカーだ。自分より少し背の高いコウと一緒にいても、男二人連れに見られかねない。いつも緑の隣りを歩いていた分、惨めな気分になった。
「あ、降りた。行くよ、千ちゃん」
緑が深見に連れてこられた場所は、表参道の一角にある、白いビルだった。一階にインターフォンがあり、深見は階数と、呼び出しボタンを押した。
「松本茉莉の弟の深見ですが、姉の忘れ物を届けにきました」
深見が言うと「どうぞ」という声と、ドアのセキュリティが解除される音が聞こえた。
広いエレベーターに乗り、六階まで上がる。エレベーターの扉が開くと、カシャッという音が耳に入った。周りには白い板を持った若い女性や、傘のようなものをいじっている男、セットの前で何か手持ちの機械をいじっている中年の渋い男など、様々な人間がいた。渋い男の合図で、若い男女が動く。動きが止まると、音とともにフラッシュがたかれた。降りると、その場で靴を脱ぎ、スリッパに履きかえる。
「君、茉莉ちゃんの弟さん? 彼女なら、そっちの部屋にいるよ」
スーツの男が、緑に声をかけた。どうやら自分が茉莉の弟だと勘違いしているようだった。それもそのはず。本当の弟は、隣りにいる女装男なのだから。
ノックをすると「はい」とハスキーな声が返ってきた。「少し千と似ているな」と、緑は思った。
ドアが開くと、千と同じくらいの身長の美女が立っていた。ただ、彼女とはまた違う雰囲気がある。正直なところ、ちょっとキツそうな感じだ。
「……君、誰?」
緑を見た美女は、開口一番そっけなく訊ねた。緑は咄嗟に自分より小さい深見の後ろに隠れ、言った。
「あの、俺、梅田緑っていいます。弟さんにここまで連れてこられたのですが、連れてこられた意味が分からなくって」
美女―深見と千の姉・松本茉莉は目の前の少女を見た。
「アンタまた女装してんの。暇ね」
「いいだろ、似合うんだから」
あまりにも淡白な会話に、緑は驚いた。茉莉は、弟が女装して街を歩いても全く興味がない、というような口ぶりだった。
茉莉にうながされ、二人は部屋に入った。
「彼に仕事現場を見せたいんだっけ? 邪魔にならないように見てね」
「おうよ」
「え? 仕事現場って?」
一人だけわかっていない緑が、深見に聞くと、彼は呆れた顔をした。
「察しろよ。ここはスタジオで、茉莉はモデルしてんの。今から雑誌の写真撮るんだ」
「茉莉さんの仕事を見ることが特別カリキュラム、ですか?」
緑の質問に、首を左右に振って不敵な笑みを浮かべた。
「いや、違う。もう一人の主役がくればわかるさ」
茉莉が着替えるため、二人が外に出ると、エレベーターが開いた。
「おはようございます!」
茉莉とは違ったタイプの美女がスタジオに入ってきた。茉莉がクールで大人っぽいモデルだとしたら、彼女は甘く可憐な感じのモデルだ。
彼女の衣装を持ってきたスタイリストがドアノブに手をやると、偶然茉莉がその前にドアを開けた。
「あ、
「茉莉さん、今日もよろしくです!」
元気な笑顔を作る沙理にもクールな茉莉。対称的だった。
「なんで全然違うタイプの二人が、同じ雑誌の撮影に来るんですか? 読者の層が違うと思うんですが……」
緑の気づきに、深見は満足そうに笑った。
「おう、わかるようになってきたじゃねぇか」
深見は緑をスタジオの隅に連れて行くと、できるだけ小さな声で説明してくれた。
沙理は自分がメインで出ている雑誌がある。その雑誌の街角での撮影のとき、偶然茉莉とかちあったらしい。多分それがきっかけなのだろう。何があったかは深見もよくは知らないが、それ以来密かにライバル心を燃やしているようだった。
「実際、どう思ってるのかはわかんねぇけどな。茉莉の出る雑誌にゲスト出演とか、随分しゃしゃり出てきてるんだよ。それに見てみ?」
深見は着替えが終わった茉莉と沙理を指差した。スタッフに飲み物を勧められて茉莉が受け取ると、そのスタッフに沙理がお茶を注ぐ。広告会社の差し入れのお菓子を紹介されると、茉莉が何か言う前に褒める。
「なんていうか、さりげなく媚売ってるようにも見えますけど」
「そうだな。でも、そういうタイプが好かれることもある。虎視眈々と、茉莉の居場所を奪おうとしてるんだよ」
「居場所を奪う……」
緑は深見の言葉を繰り返して、黙った。深見は姉とそのライバルのやり取りを見ながら、言った。
「茉莉、お前と同じ状況に見えねぇ?」
ハッとして、深見の方を向いた。白い花柄のワンピースが似合う彼は、緑の驚く顔を見て「ビンゴ!」とおどけてみせた。
緑の家は剣道道場だ。彼も小さい頃から練習を重ねていて、小学校の時には大会にも出たことがある。中学校の部活も、剣道部だった。二年生になったばかりの緑は、体育館で練習をしていた。練習が終わり、汗を拭いていると同輩が声をかけてきた。
「俺とちょっと地稽古しない?」
緑はもう練習を終わらせる気だったので最初嫌がったのだが、周りの面白がる声もあり、仕方なく対決することになった。しかし、あっさりと緑に軍配は上がり、幕を閉じた。中学から始めた相手と、休みの日でさえ剣道の緑。その差は歴然だった。だが、話はそこで終わらない。対決をしてからしばらくして、緑の道場に一人の入門生が来た。それは緑が相手した彼だった。彼は何かにつけ、緑をライバル視するようになった。それこそ剣道だけでなく、他の体育での試合や、果ては勉強まで。自分の行動を監視されているようで気持ちが悪かった。精神にブレが出てくると、剣も鈍くなる。彼と何回か地稽古するうち、段々と勝率は下がっていった。
緑は剣道が嫌いになった。自分を高め、その結果を試合で確認できるのが好きだったのに、今は違う。剣道に関わると、あいつが首をつっこんでくる。それどころか、学校でも道場でも、自分の発言のすべてにあげ足を取る。自分の居場所を奪おうとしていた。そして、剣道部での居場所を取られた。
緑が言闘部を訪れた最初の動機は、『彼に口で負けないようになるため』だった。剣道で勝っても負けても、悪い噂が広まる。自分の弱点を吹聴する。それが嫌だったのだ。
「相手は純粋に練習に来てたのかもしれませんが、俺はそれを素直に受け入れることができなかったんです」
緑は茉莉と沙理がポーズを決めている方向を見て、呟いた。視線は二人の方を向いているが、実際に見てはいないようだった。深見はふうん、と生返事すると、一つ質問した。
「今も剣道はやってるのか?」
「一応、家で毎晩練習してます。素振りなんかは一人でもできますし……。個人的に親父に打ち込みを頼んだりすることもあります。でも、俺が剣道をやるのは、あくまでも自分を鍛えるためなんです」
緑の答えに返答することなく、深見は勝手に話しはじめた。
「茉莉な、今、大学の二部学生やってんだ。モデルの仕事と並行してな。学部は心理学部。将来臨床心理士になりたいんだと」
どう返事すればいいのかわからず、深見を見る。彼はそのまま続けた。
「あいつ、よく言ってるよ。『世の中は歪んでる』って。その歪みでバランスが取れなくなった人を助けたいんだってさ。あの沙理って女も含めて、な」
「俺には世の中の歪みなんて、わかりません」
素直に言うと、深見は笑った。
「そりゃ、分からなくて普通じゃね? 歪んでるのが当たり前なんだから」
彼の発言があまりにも矛盾していて、緑には理解できなかった。それでも、深見の笑顔に何らかの答えがあるような、不思議な感覚に陥った。
「お前、『口で負けないようになるため』うちの部活に来たんだよな」
頷くと、深見は真剣な顔でそれを否定した。
「本当に強くならなくちゃいけねぇのは口ゲンカじゃねぇ。お前自身の心だ。薄々気づいてきたんだろ?」
しばらくの沈黙の後、緑は深見に笑顔を見せた。
「深見先輩って、実はいい人ですね」
「ばぁか、俺は悪い人間だって言ってるだろ? 信じちまうと、理宇治みたいなやつになっちまうぜ」
脈絡のない褒め言葉に不意をつかれて、深見は顔を赤らめた。
緑と深見が茉莉の撮影を見学している頃、他のメンバーは表参道でとんでもない状況になっていた。
「千、超かっこいいよぉ」
楽しそうな小麦の声が路上に響く。ぼたんは呆れたように、三人の男性陣と千を見た。
「いやー、『街角イケメン特集』、いいモデルが見つかったよ」
カメラマンが嬉しそうに声を上げ、シャッターを切る。
茉莉とは違う形で、千も雑誌デビューすることが決まった。
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