二、バナナと妹

 放課後。千と緑は留学生教室で三年トリオを待っていた。

単なる握手写真ではあるが、これ以上他人に変な誤解をされたくないという一心で深見の下僕となり数日。間にゴールデンウィークはあったが、今日、初めて五人揃った状態で部活が行なわれる。

 千は小麦に電話し、事の顛末を話したのだが、彼女は通話口の向こうで大爆笑するだけだった。

 緑と千は、最早同じ穴の狢。たまに廊下ですれ違ったりすると、『最悪でも三人が卒業する一年の辛抱だ』とお互い励ましあっていた。

「だけど、一年は長いよな」

 緑がぼやくと、千も自然と愚痴がこぼれた。

「梅田ぁ、あんたは自分で首突っ込んだんでしょ……。私、あれと血が繋がってるんだよ? しかも別居の意味すらなくなったし」

 自分で言って、机に沈む千。叔母たちに兄と同じ部活に所属することになったと告げたとき、二人が見せた複雑な笑顔を思い出す。今まで距離のあった兄妹が近づいたのは喜ばしいことだが、深見の傍若無人な性格に、また千が振り回されるのではないかという考えも過ぎったのだろう。不安にさせてしまう自分が悔しかった。兄と全く関わらないように高校生活を過ごそうという甘い考えが入学早々に打ち砕かれ、これからの日々が過酷になるであろうことを予測し、胃が痛くなった。

彼女の落ち込みようにかける言葉がなく、緑は天井を見つめた。

「せめて、あの画像がなければな……」

 ふと緑が口にした言葉で何かに気づいた千は、勢いよく顔を上げた。

「それだ!」

「な、何が?」

 興奮する千の言いたい事が分からずあたふたする緑に、彼女はズバリ言い放った。

「こっちに弱みがあるように、むこうの弱みを探せばいいんだよ!」

 千の案に、緑は少し考えてから意見を述べた。

「とは言っても、あの深見先輩たちに弱みなんてあるのか?」

 俺も最近噂を聞いたんだけど、と前置きして、緑は深見たちの周りの評価を話した。

 深見は言わずもがな、男女学年問わず悪口の応酬だった。以前は告白してきた人間をけなしていたが、高校に入学してからは人の弱みを握っては脅しの繰り返しらしい。コウは基本的に人当たりが良いのだが、二股では飽き足らず、四股、五股は当たり前の女の敵と言われている。何を考えているのかわからないバンは、オカルト大好きで、人を呪って楽しんでいる気持ち悪いヤツとして認識されていた。

 実生活以外でも、携帯のサイトで彼らになりすまし悪事を働く輩や、悪口を書き込む人間も多いのだが、当の本人たちは全く気にする素振りすらなかった。

「癪だけど、あの面の厚さだけは本当に尊敬するよ、俺」

 大きな溜息がこぼれた。千も頭を抱え込む。

「うーん、兄貴に関しては中学からずっとあんな調子だしなぁ。アイツに勝てる何か特技でもあれば、また少しは変わるかもしれないけど、私にそんなもんないし」

 言い切ると、再び顔を伏せる。

「勝つ……か。それなら言闘で対戦してみるっていうのはどうだ? 博打かもしれないけど」

 何気なく緑が提案してみるが、千は難色を示した。

「大体さぁ、この部が何やるかって私よく分かってないんだけど。『げんとう』って、入学式の時に言い争ってた、アレ?」

 首をかしげる彼女に、入部の時に取ったメモを片手に説明する。できるだけわかりやすく話したつもりだったが、千は眉間に皺を寄せて難しい顔をしていた。

「俺もまともにやったことはないけど、試しに初心者ルールでやってみる?」

 カバンからルーズリーフを一枚出すと、返事のない千に渡した。黙ってそれを受け取ると、彼女もカバンからペンケースを出した。

「とりあえず、相手に質問を十個、出せばいいの?」

「うん、それで交換して、互いに答えを記入する」

 千は紙に向ってしばらく頭を捻ったが、まだよく理屈が分からない。

「質問って、例えばどんなの?」

 根本的な問いかけだったが、緑は答えに詰まった。最初に深見と対戦したときは、本当に思いついたことだけを質問した。名前の由来、生年月日、生まれたところ。深見とは質問シートを受け取った時点で逆ギレしてしまい試合にすらならなかったが、今自分の質問を思い返してみると、相手の答えを見ても、特に何を思うでもなかっただろう。だが、深見のよこした質問シートはどうだ。自分の痛いところを的確に突いていた。聞かれたくないことを訊ねてきた。

 コウが、深見が勝てたのは新入生のデータを根性で丸暗記したからだと言っていたことを思い出し、緑はあやふやながら千の問いかけに答えた。

「つまり、相手が聞かれたら嫌なこととか、あまり知られたくないことを想像して書くんじゃないかな」

 単純な勝負だと思っていたのに、考えれば考えるほど複雑なものになってくる。二人が『言闘』という不可思議な試合に頭を悩ませていると、教室のドアが開く音が聞こえた。

「よう、待たせたな。一応新入生歓迎つーことで、買出し行ってたら遅くなった」

 深見は持っていたビニール袋を二人の前に置き、中に入っていたコーヒーとパンを配った。

 お世辞にも性格がいいとは言えない彼が、妹と後輩のために買出しなんて天変地異の前触れか。二人は得体の知れないものを見るような目を深見に向けた。視線の意味を即座に理解した彼は、二人にチョップを食らわせた。

「発案者はコウ、金を出したのはバンだ。俺は何もしてない」

「とか言って、千ちゃんには自費でプリン買ってきてるんだけどね」

 コウが笑って袋からプリンを出すと、深見は照れくさそうにそっぽを向いた。

「兄貴、私がプリン苦手って知ってたよね?」

 千が静かに言うと、みるみるうちに顔を真っ赤に染めあげた。バンはそんな深見を視界から外し、余計なことを言ったコウは、焦って話をずらした。

「あ、そ、そういえば、千ちゃんには俺たちちゃんと自己紹介してなかったよね? 俺が竹内光長たけうち・みつながで、こっちにいるのが俺の双子の兄貴、竹内常盤たけうち・ときわ。よろしくね!」

 千はコウとバンを交互に見た。二人は目つきも違えば、髪の色も違う。双子と言われても、共通点が発見できない。

「……二卵性なせいか、あまり似てないらしい。光長は髪も少し染めてるし」

 バンが小声で補足したが、顔立ち以外の性格や服装もあまり似ていなかった。コウは明るいグリーンのパーカーに黄色のシャツとわりとハデな格好で、自分から話しかけることができるタイプだが、バンはジャケットに白いシャツと落ち着いた服で、無口だった。

「それに、何で『コウ』と『バン』って呼ばれてるんですか? 音読み?」

 千がバンに訊ねると、代わりにコウがそれに答えた。

「俺らが一年の頃部長だった人が『ときわ』って読めなくてさ。『ジョウバン』ってずっと言ってたんだけど、長いじゃない? そのうち『バン』って言い出しちゃったんだよね」

 深見も便乗する。

「『みつなが』も最初読めなかったよな。『コウチョウ』って。あんときは爆笑したけど、すぐにしばかれたな」

「小学生レベルじゃないですか」

 緑が呆れると、深見は真顔になった。

「漢字が読めなくても、あの人のカリスマ性はすごかったんだよ! 俺はびびったね、気合いだけで高校入ったやつがいて」

 緑と千は言葉を失くした。



 自己紹介を終えると、今度は深見が教壇の前に立ち、黒板に何か書き始めた。

『本日の議題・部活の顧問をどうするか』

 文字に驚いて、緑が声を上げた。

「ちょっと待ってください! この部、顧問いないんですか?」

 通常の部活であれば、昨年から継続して同じ顧問だったり、それがなくても四月のうちに新しく教師が割り振られているはずだ。今はすでに五月。いくら四月が教師にとっても忙しい時期とはいえ、放置もいいところだ。千も不思議そうな顔で兄を見る。

「新田先生が顧問だったんだが、体調を崩してしまってな。そのまま入院して、学校も辞めてしまったんだ」

 新田は政経の教師だったのだが、毎晩の飲酒が原因で肝臓を悪くしてしまったらしい。春休み中に退職してしまったので、千と緑に面識はないが、深見、バン、コウが少し残念そうな顔をしているところを見ると、この部活にはなくてはならない人物だったようだ。

「で、新田先生以外にうちの顧問をやりたがる骨のある教師がいなくてな。仕方ないから俺たちで探すことにした」

「探す?」

 千と緑の声がシンクロした。

「そんな生徒が顧問を自ら探すなんてこと、できるんですか? こういうことは職員会議とかで決まるとか……」

 緑が聞くと、聞いたことを後悔するような大胆な答えが深見から返ってきた。

「そんな職員のゴタゴタなんて、知らん。俺たちは、自分の目で部の運営のサポートをしてくれる人間を探す。そいつが見つかったら、どんな手段を使っても顧問にする」

 バンは無表情で拍手を送っていたが、千は眉間を押さえた。兄と無関係な、トラブルのない学校生活からどんどんかけ離れていくのが実感できた。

「コウ、ファイルは作ってきたか?」

「はいはい」

 コウはコーヒーの缶を机に置くと、カバンの中からファイルを取り出した。中には夏ヶ瀬高校に在職している教師陣の詳細なデータが書かれた紙が、きれいにアイウエオ順に並べられていた。

「子供の数とその子が通う学校……、愛人の名前まで? こんなもの、どうするの!」

 千が紙の一枚をめくると、ある教師の情報が赤裸々になっていた。それから目を離すと、兄はそっけなく紙を受け取り、それを教壇の左に寄せた。

「ああ、こいつはダメだ」

 深見の常識的な意見に、緑は同調した。

「そうですよね! こんなただれた人間が教師だってだけでもいけないですよ!」

 緑を一瞥して、深見は大きく息を吸った。

「違―う。こんなに簡単に浮気がバレる教師はダメってことだ。うまく隠れてやれっての!」

 千と緑は肩を落とした。浮気はいいけど、隠れてやれと深見は言っている。一般的な倫理観から大きくかけ離れた考え方をするのが彼だった。

「それに比べて新田先生はすごかったよな。どっちかっていうと地味で、経歴も目立つところがなかったのに、探ってみると酒癖がひどいって話でさー」

 思い出したようにコウが話し出すと、深見もつられる。

「それを徹底的に隠すために、教職員の飲み会もいつも欠席でな。他の教師からは『コミュニケーション能力が不足してる』とか言われてたけど、あの人、一人で東京まで出て飲んでて、その場で色んな業界の人と飲み仲間になってやがんの。休日はその仲間で遊んだりしててな」

「先生は多面的だった」

 バンがよく分からない一言でしめると、話は本題に戻った。

「そんな新田先生のような教師、この学校にいるかぁ? 俺たち三年だし、あらかた教師のことは見てきたじゃん」

 深見がペラペラとファイルの紙をめくると、コウが二冊目のファイルを出した。

「これ、教師以外の用務員さんと出入りの業者のリスト。あ、追加で新任教師もこっちに入ってる」

「あの、用務員さんはわかりませんが、出入りの業者は顧問に絶対なれないと思いますが……」

 緑が言うのを無視し、深見は二冊目のファイルを見た。千は深見の置いた一冊目のファイルを手に取ろうとして、止めた。教師の秘密を知りたいという好奇心もあったが、見てしまったらきっと、『教師』としては見れなくなってしまう。ここに書かれていることは、『教師』という肩書きからそれた、『人間』としての側面だ。まだ十代の自分が、知る必要がないことも書いてあるかもしれない。そんな気がした。

 千が一冊目のファイルに目を留めていると、前にいる深見があるページをじっくりと見ているのに気づいた。

「桐生理宇治……こいつ千の友達の兄貴か」

「りゅー兄?」

 深見の言葉に反応した千は、咄嗟に自分の口を塞いだ。しかし、深見はすでに千の方に身を乗り出していた。

「ほぉーう。『りゅー兄』ですか。俺には冷たいくせに、友達の兄には懐くのなぁ。千ちゃん」

「ちがっ、りゅー兄にはすごいお世話になって……!」

 口を開くごとに、どんどん自分の首を絞めるような発言をしてしまい、息が苦しかった。深見は桐生理宇治のページと千を交互に見つめてにやりと笑った。

「『桐生理宇治―国立大学の教育学部卒業。趣味、ボランティア活動』……ね。そのボランティア精神が引き金で、一人暮らし中はアパートでホームレスのおっちゃんたちと酒盛りして、彼女に振られること数回。あと、絵本の読み聞かせのボランティアに行った時、親が迎えに来ないからって、自分の部屋で面倒見てたら誘拐犯だと間違われたとか。その後実家に戻ってるな」

 千はフォローのしようがなかった。理宇治は確かに『いい人』なのだ。ただ、それが度を越している節もある。だが、保健室登校をしている時、小麦が理宇治を紹介してくれたおかげで勉強をとことん見てもらうことができた。それこそ大学の勉強時間よりも、千の勉強のための教材を作る時間のほうを大きく割き、結果睡眠不足でダウンするほどのお人よしなのだ。小麦はそんな兄のことを放っておけないと思うとともに、誇りにも思っていた。

『アホだと思うし、大きなお世話になることもあるよ。それでも今の時代、こんなに自己を犠牲にする人なんて少ないじゃない?』

 兄の話をするときの小麦は、嬉しそうに微笑んでいた。

「面白いな、こいつ」

 深見の目が光った。その様子に、千は慌てて否定した。

「いや、ダメ! りゅー兄はダメ!」

「千ちゃん、何で? いい人そうじゃない」

 千は黙り込んだ。いい人だからこそ、こんな怪しい部に関わらせてはいけない。言闘部には、兄・深見がいる。もし、深見が何か問題を起こして部の責任を追及されたとしたら、その矢面に立つのは理宇治になる。理宇治のことだ、自分の首をかけて部を救おうと行動するだろう。

 そんなことになったら、彼の人生はめちゃくちゃだ。

「いい人だからこそです!」

 今まで牛乳パンを食べていたバンが、静かに反論した。

「『本当にいい人』なら問題ない」

 一言だけ発すると、またパンを食べ始めた。千はどういう意味か問いただそうとしたが、バンは全く相手にしなかった。二人を見て、コウが少し笑いながら補足をしてくれた。

「バンちゃん、ちゃんと言わなきゃ伝わらないって……。つまりさ、『本当にいい人』なら、俺らがマジでやばいことをしたら、ちゃんと叱ってくれる人だろうってこと。それとも千ちゃん、桐生先生はそれができない気弱な人間だって言いたいの?」

 挑発的なコウの口調に、ムッとする千。だが、反論の言葉が出てこなかった。コウはそれをいいことに話を続ける。

「俺が感じたことだけど、桐生先生って、自分の意志で動いてるよね。周りが問題視してるだけでさ。本人はちゃんと自分のコアになる考えに基づいて行動してる。そういう人、好きだけどな」

「俺もだ!」

 深見が仁王立ちで主張した。

「そういうことで、『桐生理宇治』を顧問にする! 文句はないな!」

 深見、コウ、バンの意見は一致していたが、千は複雑な気分で、緑は頬杖をつきながらバラバラな思考をひとつにまとめようと努力していた。



 すっかり日は暮れていた。冬のような暗さはないが、空は群青色に変わり、風も出てきた。

 部活を終え、千は不本意ながら部のメンバーと帰路をともにしていた。深見を先頭に、コウ、バン、緑、一番後ろを千が歩いていた。

「松本」

 緑が小声で千を呼んだ。横に並ぶと、さっきの言闘のことなんだけど、と自分が考えていたことを話し始めた。

「俺もルールよく分かってないからさ、いっそのこと先輩にコツとかやり方とか聞いてみるのはどうだ?」

「理解できたところで試合を挑み、下克上……そう言いたい訳?」

 緑はこくりと頷いた。無理やり部活に参加させられてるのだ。そのぐらい先輩を利用しても罰は当たらないはずだ。千もそれに同意し、親指を立てると、早速緑はバンに声をかけた。

「バン先輩、いいですか」

 背後からの声に、バンは振り向いた。相変わらずの無表情で、何を考えているのかわからない。

「松本も俺も、言闘のルールがまだよくわからないんです。相手に勝ついい方法ってあるんですか?」

 二人をじっと見つめた後、バンはまた前を向いて歩き始めた。

「この部にいれば自然と分かるようになるよ」

 そっけない返答だった。それでも千は食い下がる。

「でも! 私なんか、ちゃんと試合してるところも見たことないし……ルールも全然知らないんです! 部にいるなら、やり方くらいわからないと」

「……そんなに辞めたいの」

 全てお見通し、といった口ぶりだった。図星をつかれて千も緑も次の言葉が出てこない。バンはそのまま後ろを向かず話し続けた。

「いつでも辞められるはずだよ。いくら深見に強制されても。それなのに辞められないってことは、まだ二人はこの部にいた方がいいってこと」

 千と緑は足を止めた。バンは前を行く二人とともに、先を歩いていく。二人は彼の言葉の意味が、分かるような、分からないような、中途半端な気持ちだった。



「お兄ちゃんを部活の顧問に?」

 千は帰宅すると、すぐに小麦に電話した。

「兄貴、どんな手を使ってもりゅー兄を顧問にする気だよ!」

「お兄ちゃんなら忙しくても引き受けちゃうかもねぇ」

 どこか他人事のような小麦の話し振りに、千は声を荒げた。

「りゅー兄が顧問になるのはいいんだよ。ただうちのバカ兄貴が何かやらかして、部の問題になったら、責任はりゅー兄になっちゃうんだよ?」

 少しの間、沈黙が走った。破ったのは小麦の軽やかな笑い声だった。

「千、少し心配しすぎだよ。それともアレ? うちのお兄ちゃん、好きとか? だから緑くんに興味なかったんだー」

 違う、と否定する前に、小麦の声が携帯から聞こえた。

「お兄ちゃんはダメだよぉ。千にはあげない」

 口調はいつもと同じくのんきなものだったが、声質は冷たく感じた。



 次の日の放課後、緑と連れ立って留学生教室へ行くと、すでに三人は揃っていた。

「下っ端遅いぞ!」

 深見の声に二人は怒りがこみ上げた。お互い視線を合わせて怒りを何とか静めると、適当な席に着いた。

 特に何も活動せずに二十分が過ぎた頃、教室をノックする音が聞こえた。千がドアを開けると、眼前に立っていたのは桐生理宇治だった。

「りゅ、りゅー兄! なんでこんなとこ来てるの?」

「あー、千さん。ここでは『桐生先生』ね。今日から僕、この部活の顧問になったから」

「な、な、何で?」

 動揺する千と一緒に、理宇治は教室に入った。緑も昨日の今日のことで、目を丸くしていた。

「お、りうじー。待ってたぞ」

 深見は馴れ馴れしく理宇治の肩を叩くと、メンバーに紹介を始めた。

「今日から言闘部顧問になった、桐生理宇治先生! よろしく!」

「りゅー兄! 小麦から何も聞いてないの? あんなに昨日止めたのに……」

 千はにこやかにしている理宇治を見て不安に思った。この人は深見に騙されているのではないのだろうか。理宇治は千に言った。

「小麦から聞いてるよ。千さんの力になってあげてって。その方が楽しくなるだろうってさ。今朝、さっそく深見くんから頼まれてね。一も二もなく承諾したって訳さ」

『楽しくなるだろう』……小麦が。ドSの彼女のことだ。千の嫌がることをして楽しんでいるのだろう。しかも理宇治の方も、何も考えずに返事をした様子だった。深見が「顧問がいなくて困ってるんです! 助けてください」と泣きつく場面が安易に想像できる。理宇治の趣味は人助け。それもいかがなものか。千は頭を抱えた。

「では紹介も終わったことで、今後の活動についてだ!」

 深見が黒板に『今後の予定』と殴り書きした。理宇治は後ろの席でその様子を見ている。

 一応書記のコウが、ノートにそれを書き写す。

「今月は恒例の! 『新入生バナナ売り』だ!」

「……は?」

 千と緑は間の抜けた声を上げた。何故バナナ。言闘と全く関係ない。嬉々として説明を開始しようとする深見を見て、体が逃げるように警告を発している。嫌な予感満載だ。

「これから二週間、千と緑にバナナを売ってもらいまーす!」

 そのままだった。説明の中身がない。意味も分からない。さすがに新任とはいえ顧問になった理宇治が挙手した。

「深見くん、それじゃよく分からないな。具体的に説明してくれるかい?」

 仕方ないという態度で、深見は細かく話し始めた。

 言闘部は夏ヶ瀬駅前にテナントを一つ借りている。そこを利用して、千と緑に一日ダンボール一箱のバナナを二週間に渡って売らせるというものだった。部活の範囲をすでに超える内容に、理宇治もさすがに難色を示した。

「うちの学校はバイト禁止だし、部活動とは関係ないように僕には思えるんだけど」

「問題もないし、関係もある!」

 教壇を叩いた深見の勢いに、新任・理宇治が飲まれる。コウがいつものように言葉足らずの深見の説明に、補足を入れる。

「一応、俺とバンちゃんの家の手伝いを無償でしてもらうってことにするので、バイトにはなりませんよ。それに、これで部活に対する心構えみたいなものを学ぶんです」

 理宇治はコウの笑顔で、難しい表情を一気に和らげた。

「うーん、そうなんだ。そういうことなら問題ないのかな。僕はこの部活動の内容もよくわかってないけど、もしかしたら代々受け継がれているやり方なの?」

「そう! それ!」

 深見が指をさして頭を上下にぶんぶんと振る。千は、適当なことを言っている兄と、すぐに騙される顧問を目の当たりにして腹が立った。

「バカ兄貴! なんで私と梅田が無償でバナナなんて売らなきゃいけないのよ? そんな義理なんかないし!」

「義理も何も、部員だろ? やれ。部長命令だ」

 取りつく島もない深見に、緑も本音を言い出した。

「深見先輩、正直にいいますが、俺も松本も部活を辞めたいんです。でも、あの手つなぎ画像があるからできないだけで。こんな嫌々部活をやっているメンバーがいたら、部活にとっても悪影響じゃないですか」

 腕を組んでにらんでいた深見だったが、緑の正論を珍しくまともに受け止めた。

「それもそうだな。やる気もなくダラダラやられたらこっちも困る。じゃあ、こういうのはどうだ? バナナを一日でも完売することができたら、携帯のデータは消してやる。退部も認めてやろうじゃねぇの」

 千と緑は顔を見合わせた。お互い手を叩き合わせて喜びたい気分だったが、変に接近するとまた弱みを握られると思い、笑顔を浮かべあうだけにした。



 二日後の放課後、部員全員は夏ヶ瀬駅前のテナントに足を運んだ。タクシープールの前の、入り口の狭いそこは、借り手がなかなか見つからない物件だった。

「ここっていつ見てもシャッターが閉まってるから、変なところだとは思ってたけど」

 千が呟くと、いつの間にか後ろにいたバンがボソッと言った。

「一昨年は店舗じゃなくて、学校近くでそのまま叩き売りしてたんだ」

 声にびっくりして振り返ると、ほんの少しだけ身長の高いコウが、バンの肩を組んだ。

「千ちゃん、俺たちと深見、もっと大変だったんだよ。ねー、バンちゃん」

 黙って頷くバンとにこにこしているコウ。対称的な二人だが、双子ということもあってか仲はいい。

「そういえば、バン先輩とコウ先輩の家の手伝いってことになってますけど、二人のお家って何をやられてるんですか?」

 緑が聞くと、コウがいつもの笑みで「普通のサラリーマンだよ」と返事をした。いつもと全く変わらない風だったが、緑はそれをいぶかしんだ。八百屋なら分かるが、普通のサラリーマンがたった二日でバナナを仕入れられる訳がない。それとも流通関係の会社なのか? バンに視線を移しても、無表情だ。

 緑が二人について考えを巡らせているうちに、テナントのシャッターは開けられた。



 予想通り狭い店舗の中にはすでにダンボールが運びこまれていた。屋内には長机とレジ、それにやたら大きい業務用冷蔵庫があるだけ。殺風景だった。

「お前たちは学校が終わったら、この机を店舗の外に出して、バナナを並べろ。後は好きなように売れ」

 大雑把過ぎる深見に、千が待ったをかけた。

「好きなようにって、もうちょっと詳しく言ってくれないとわからないじゃん!」

「なんだ、『手取り足取り教えてくれないとわかりませぇん』ってことか? それなら可愛く『お兄ちゃぁん、教えて』って言ってみろ」

「死んでも嫌だ」

 その場で即答したくせに後悔した。これは件の画像と退部がかかった勝負だ。プライドを捨てて素直にヒントをもらっておいた方がよかった。しかし、今更『お兄ちゃぁん、教えて』なんて、小麦みたいな甘い雰囲気の女の子ならともかく、自分は口が裂けても言えない。

 一同はダンボールの前に集まった。

「ここから一箱選べ。それが今日の分だ」

 深見は千と緑に三つの箱を指した。『一日でも完売させればこちらの勝ち』。ダンボール一箱が一日のノルマ。これなら何とかなりそうだ。

 二人は一緒に一つ一つ箱を開けた。バナナはフィルムにも包まれず、むき出しのままでダンボールに入っていた。一箱につき、大体二十房。ただ、多かれ少なかれ、どの箱にも赤く膿んだような色のバナナや小さいバナナも混じっていた。

 相談の後、二人はできるだけいびつなものや膿んだ色の入っていない箱を選んだ。

「やっぱりちゃんとしたバナナじゃないと売れなさそうだし、この箱にする」

 千が深見にそう告げると、バンとコウも加わり三人で箱の中身を検査し始めた。コウは何か数字をノートに書き記した後、クリアファイルから十数枚の紙を二人に渡した。

「売れ残ったらどんな形のバナナが何本残ったか、これに書いて渡してね」

 そう言うと、三年トリオはさっさと帰っていってしまった。

 残った二人は、溜息をついて大きな伸びをすると、ぎこちなく開店の準備を始めた。



「バナナいりませんかー」

「新鮮なバナナですよー」

 道行く人に声をかけてみるが、反応は薄い。また、学校の通学路ということもあり、生徒から好奇の目で見られることもきつかった。

「何でバナナなんて売ってんだ、俺」

 緑が机に手をついて頭を垂れる。その声にはいらだちも混じっていた。

「そもそも、ななめ向かいに八百屋があるじゃないか! オヤジさんがこっちにらんでるし!」

 千は珍しく荒れている緑を、うつろな目で見た。

「なんていうか、こんなに『生まれてこなければ良かった』って思ったことはないよ。生き恥だよね」

 高校に上がったばかりで、アルバイトをしたことがない二人にとって、バナナの販売は過酷だった。第一勝手が分からない。ともかく、形も色もいいバナナを選んで、机の上に並べ声をかけるだけだ。それでお客が寄ってくる訳がないことは、二人にだって理解できた。

「どうすれば売れるんだろ。それに、ダンボールに入ってる膿んだやつも。小さいのはまだ売れると思うんだけどさ」

 机の下でしゃがみこむ千に、黒い大きな影がかかった。顔を上げると、同年代の男子四人が机を囲んでいた。

「梅田ぁ、お前、一組の女と何してんの?」

 緑は声の主をにらんだ。同じクラスの生徒だろう。だがすぐに言い返すことはなかった。いや、正確には自分でも何をしているのかわからなかったのだ。しばらく考えた後、出た言葉は実にくだらなかった。

「……バナナ売ってる」

「はぁ?」

 相手も見たままのことをそのまま返されたので、きょとんとしている。その隙を見て、千は思い切って声を上げた。

「バ、バナナ買わない? 一房二百円。どれでも!」

 あまりにも必死な顔に相手グループは一歩下がった。

「どれでもって、全部バナナだろ? 二百円なら、向こうの八百屋のが安いんじゃ……」

「四の五の言わずに買えよ!」

 次に叫んだのは緑だった。最早販売ではなく、脅し文句。さすがに相手は緑の口調に切れて、「買うわけねーよ!」と捨て台詞を置いて去っていった。

 相手が去った後、緑と千は放心状態になった。自己主張できた。強い口調で相手を威嚇できた。二人にとって、それはあまり経験したことのない事柄だった。

 気がつくと、騒ぎが起きたことで周りに人垣ができていたが、バナナはどれだけ勧めても買ってくれる人はいなかった。ただ最後に、あまりにも二人が不憫に見えたのか、お婆さんが一房買ってくれた。

 夜七時。あまり遅くなると、理宇治に迷惑がかかる恐れがあるため、二人は閉店作業に移った。心身ともにくたびれ、ほとんど黙っていたが、二人は同じ思いを持っていた。

「こんな調子じゃ、バナナは売れないよな」



 三日間経った。売れたバナナは計二房。ななめ前に八百屋がいることや、二人の販売スキルがないこともあいまって、一日目に買ってくれたお婆さん同様に、もう一人も同情で買ってくれたようなものだった。

「これはちょっとひどいねぇ」

 状況を見にきたコウが思わず呟いた。バンもそれに同意するように頷く。一日一箱のノルマだが、クリアできなくてもそれは次の日に上乗せされることはなかったのが救いではあった。けれど、このままだと期間中に一箱完売させることなんて、できない。

「先輩たちもやったんですよね。どういうやり方で売ってたんですか?」

 緑が何気なく救助信号を発したが、バンはそれを無視してマイペースに自分の言いたいことだけを述べた。

「勝負に勝つためには、相手を知ることが必要。バナナを売るのも同じ」

 千と緑にはちんぷんかんぷんだったが、コウにはその意味が分かったらしく、「さすがバンちゃん!」と感心していた。

 似てない双子の先輩たちは翌日分の箱を置き、売れ残ったバナナのダンボールを抱えると、帰路についた。二人はそれを見送るしかなかった。



「だから、最近やつれてるんだ! 私も遠くから見てたけど、本当に売れてないよねぇ」

 面白そうな小麦に、突っ込む気力もない千はどんどん愚痴を吐いていった。一息で全部を出し切ると、今日ものんきな彼女の方を向き、真剣な声で訊ねた。

「小麦、どうしたら売れると思う?」

「さぁ? お兄ちゃんに聞いてみたらいいじゃん。顧問でしょ?」

「りゅ……桐生先生は仕事に慣れるのが大変らしくって、あんまり部活に出てくれないんだよ」

「だから店にはいなかったのかぁ」

 弁当の蓋を閉めると、小麦は一瞬表情を失った。千がそれに気がつくと、大きく背伸びをして笑顔を向けた。

「それならいい案があるよ。放課後は私も一緒に店に行ってあげる」

「小麦?」

 彼女の一瞬見せた死んだ瞳に、千の胸は騒いだ。



 緑と一緒に昇降口で待っていると、小麦が大きな袋を抱えて現れた。

「重いから、緑くん持ってねー」

 どん、と荷物を緑に押し付ける。中にはボウルやゴムべら、ミニコンロなど、家庭科室から調達したであろう調理道具が入っていた。

「き、桐生、これ何?」

「二人とも、助けてほしいんなら私に任せなさい!」

 小麦は胸を張った。

 店に着くと、千と緑はいつも通り外に机を出し、バナナを並べた。小麦はというと、裏で何かごそごそとやっている。何事か気になり見てみると、小さいバナナを剥き、それにコンロで溶かしたチョコレートをコーティングしていた。

「そうか! チョコバナナにすれば売れるな」

 緑は小麦が慣れた手つきでチョコバナナを作っていく様を見て、感心したように頷いた。

 バナナの横に、冷蔵庫で冷やしたチョコバナナを置くと、早速同じ高校の生徒が足を止めた。

 いつもは胡散臭い二人組を遠巻きに見ているだけだったが、今回は買っていってくれた。一本の値段は六十円と良心設定だったこともあるからだろう。

 十八本付いていた房の分は、すぐに売り切れた。小さいバナナはあと二房。赤く膿んだものも五房あるが、それも剥いてチョコバナナにすれば売れるはずだ。

「よし! 今日はいい調子だ!」

 千と緑は小麦に感謝の言葉を述べると、いつもより大きな声でバナナを売り始めた。

 しかし、それも長くは続かなかった。第一陣のチョコバナナを売り切って一時間するかしないかのうちに、理宇治と数人の教師、それに深見たち言闘部メンバーが血相を変えて店を訪れたのだ。

「お前ら、何やってんだ!」

 深見は千と緑を持っていたノートを丸めて殴った。千も緑も何が起きたのか全く理解できなかった。

「君たち、このチョコバナナはどのぐらい売ったの?」

 いつもにこやかな理宇治までもが顔を強張らせているところを見て、千は非常事態であることに気づいた。

「二十本くらい、だと思います」

 おずおずと緑が言うと、再び深見がノートで彼の頭を殴った。

「バカ野郎! 俺はバナナを売れとは言ったがな、チョコバナナを売れとは言ってないんだよ!」

 怒りで我を忘れている深見の横で、コウが溜息をついた。

「二人とも、ここの店舗は飲食関係の許可を取ってないんだよ。だから、ここで作ったものは売れないの」

 千と緑は驚くというよりも、落胆した。やっとうまくいく―そんな感じがしていたのに。

「ともかくこの部は、しばらくの間活動禁止だ」

「え?」

 千は理宇治の言葉に驚いた。これで放課後の貴重な時間を削って、バナナを売るなんて意味不明なこともしなくてよくなる。部活にだって出なくていい。兄と離れることができる。全てがうまくいくはずだ。それなのに、何だか負けたような気がした。拍子抜け。そんな言葉が当てはまるかもしれない。別にやる気があった訳ではないが、がっかりした。

 緑も千と似たような思いを持っていた。これでやっと部を抜けることができる。でも、自分は何が変わった? 自分を変えようと思って、この部に入ろうとしたのではないか。三日間のバナナ売りをやっている意味は分からなかった。けれども、言闘部に入部してなければ絶対経験することはなかった感覚もある。ほんの少しだけど、自分が変わる。そんな予感がしたのに。

「小麦、お前が千さんを唆したの?」

 理宇治が、店の奥に隠れていた小麦に声をかけた。小麦はうつむいたまま、ゆっくりと姿を現した。

「なんでこんなことを考えたんだ! お兄ちゃんにちゃんと説明しなさい!」

 温厚な理宇治が声を荒げると、小麦は呟いた。

「……から」

「え?」

「こうすれば、お兄ちゃんに構ってもらえると思ったからぁ。許可ないことも知ってたよ。でも、お兄ちゃんも悪いんだよ。最近家でも忙しそうにして、全然私の話聞いてくれないんだもん」

 満面の笑みを小麦は兄に見せた。その瞳には一点の曇りもない。彼女の言葉に、周りにいた人間、特に千は動揺を隠せずにいた。

 小麦と理宇治は学校も一緒、家でも一緒のはずだ。それなのに、彼女は兄に何を求めている?

「僕が構わなくても、千さんがいるだろう」

「だってぇ、私、千のこと、大嫌いだもん」

 耳を疑った。小学校の時からの付きあいの親友。そう思っていたのは私だけだったのか。時が止まった気がした。千の横で深見が何か言っていたが、今の彼女には何も聞こえなかった。



「小麦ちゃん、俺も相当人を傷つける嫌な人間だって自覚してたけど、あんたもかなりだね」

 深見は携帯に充電コードを繋げると、通話相手に辛辣な言葉を浴びせた。

 あの後、千はそのまま幽霊のように生気のない顔で帰路についた。深見が送ってやる、と声をかけたが、それすら聞いていなかったようだ。聞いていたところで、素直に送ってもらったかどうかはわからないが。

 今頃千は何を考えているのだろうか。そんなことを分かる術がないことぐらい、理解している。それに、自分がこんなことをしたって千が喜ぶとも思えない。だけど、思考と行動は一致することなく、深見は理宇治から聞きだした小麦の番号を押していた。

 通話相手は無言だ。深見はそのまま話を続けた。

「千がいじめられてたとき、ずっと一緒にいてくれたって聞いたけど。君も巻き込まれたから千のこと恨んでるの? それだったら恨む相手、間違えてるよ」

「……私、別に恨んでませんよー?」

 のんきな声が聞こえた。自分も腹黒だが、相手はそれの更に上を行くつわものだ。

「千が保健室登校になったおかげで、お兄ちゃんが構ってくれましたもん」

 千がまともに登校できなくなった時、小麦は理宇治に家庭教師を頼んだ。当時、彼は一人暮らしを始めていて、小麦とは離れて暮らしていた。彼女はボランティア精神旺盛な兄を呼び戻す餌として、千を口実にしたのだ。

「お兄ちゃん、千がいじめられてかわいそうって言ってましたよ。深見さんのせいですよね」

 さらりと毒づく。通話口の向こうでは、ふふっ、と軽やかな笑い声まで聞こえた。まだ彼女は余裕だ。深見は次の一手を迷わず打つことにした。

「千のことはかわいそうでも、小麦ちゃんのことは何も言わなかったんだ」

 相手が黙った。

「小麦ちゃんってさぁ、友達の作り方がわからないんじゃない? 小学校の頃、千とそんなに仲良くなかったよね。千がいじめられてから、急に仲良くなった。違う?」

 電話の向こうの沈黙は続く。核心をついていると深見は手ごたえを感じた。

「理宇治とは年が離れてるから、大分可愛がられたんだろうな。それが急に大学進学でいなくなった訳だ。寂しくてしょうがない。そこで現れたのが同じ小学校だった千だ。グループに入っていくのは苦手でも、一対一なら君、強そうだよね」

 無言だった小麦が、口を開いた。

「千がいじめられる原因となった張本人のくせに、他人の分析はうまいんですね」

「一応、言闘部部長ですから。言闘は、相手を分析しないと試合にならないからね」

 深見はニヤリとした。電話越しだから相手の表情は見えないが、彼女も不敵な笑みを浮かべている。そんな気がして、闘争心を刺激された。

「それに君は、理宇治のこと以外でも千を利用してるよね」

「どういうことですか?」

 小麦はしらを切る。いや、本人も無意識なのかもしれないが、この際言ってしまおう。深見は相手の心をえぐる気で、小麦に告げた。

「千のこと、見下してるだろ? 弁当毎日作ってきてやってるのも、いじめられてるとき構ってやったのも、全部自己顕示の一種。俺にはそう見えるね」

「……だったらなんだって言うんですか?」

 のんきな口調が鋭くなった。小麦が牙を剥こうとしているのが感じられた。

「別に。ただ、あいつは変わる。千の周りに人が集まるようになったら、逆に小麦ちゃん自身が惨めになるだけだよ」

「あんたは……」

 掠れた低い声が聞こえた。

「あんたは何がしたいの? あんたが原因で千はいじめられた。それなのに、今度は導いてやろうとでもしてるの? 随分自分勝手じゃない」

「ああ、自分勝手だよ。俺は自分の好きなように動く、それだけ。だけど一つ違うな」

 深見は間を置いて、一言つけ加えた。

「千のこと、導くなんてことはしない。よく言うだろ? 『人の敷いたレールは走りたくない』。あいつもそういうタイプじゃない?」

 小麦は自分の心情を深見に全て知られて吹っ切れたのか、くすくす笑いながら明るく同意した。

 翌日、千は学校を休んだ。



「千ちゃーん、学校のお友達がきてるわよー」

 叔母の声で、のそのそと布団から起き上がり、窓の下を見る。門のところには緑。小麦でなかったことに、少し安堵する。

 あんまり出て行きたい気分ではなかったが、部活のことで緑一人に責任がかかっていたらと考えると、話を聞かない訳にはいかない。メールでも電話でもなく、わざわざ家に来ているのに追い返すのも何だか悪い。Tシャツ姿のままで、階段を駆け下りた。

「ごめん、松本。休んでるのに」

「……こっちこそ」

 叔母は気を利かせて二階に行ってくれた。玄関に二人で腰を下ろすと、緑は口火を切った。

「部活、一ヶ月間活動禁止になったけどさ。深見先輩が定期的に集まろうって」

「来ないと画像撒くって?」

 千の問いかけに緑は首を縦に振った。千は深い溜息をついて、眉間を押さえた。

「もう、バナナ一緒に売ってた時点でかなり噂にはなっちゃってたけどね。嫌になる」

「画像出たら決定打だよな」

 緑も千と同じポーズをとり、溜息を落とす。陰鬱な雰囲気が二人を飲み込む。

「ところでさ、小麦……って、何か言ってた?」

 千は緑に訊ねた。気分はどうせ最悪だ。いっそのこと、最下層まで沈み込んでしまえ。やけだった。

「それなんだけどさ」

 緑は千をじっと見つめた。何事かと見つめ返すと、視線をそらす。数回同じことを繰り返すと、さすがに千はキレた。

「梅田、言ってくれないとわからないから! 覚悟決めてるし!」

「じゃあ言うけどさ」

 緑はゆっくりと口を開いた。

「『お弁当はもう作らないけど、私、千のこと愛してるって気づいちゃった』」

「……は?」

 小麦の口調を真似した緑は、いたたまれなくなってそっぽを向いた。言われた方の千も、予想もしない言葉に肝を抜かした。

「桐生と、なんだ。そういう関係だったのか」

「え、な、なんで? 梅田も誤解しないでよ! ほ、本当に小麦がそんなこと言ったの?」

 頭をかいている緑に、千が詰め寄る。

「本当だよ。理宇治先生からも大分怒られたらしい。『そんなひどいことを言う妹はいりません』ってさ。今日、松本ん家に来たのも、それを伝えに」

 ボソッと呟くのを聞くと、千は呆れた。

「そんなことだったら、メールか電話で済ませてくれてよかったのに」

「前、保健室登校だったんだろ? 一応、俺も心配したから」

 語尾は小さかったが、その声はしっかりと千の耳に届いた。最初は何も感じなかったが、だんだんと気恥ずかしくなり顔が赤くなっていく。言った本人も赤面していた。

「ま、学校来いよ。桐生もひねくれてるみたいだけど、きっと待ってるんじゃないか? あいつもクラスで孤立してるからさ」

 中学の頃を思い出した。いつも自分は保健室というシェルターにいた。だけど、小麦はそうじゃない。教室で一人ぼっちだった。休み時間になると、走って保健室に来ていた。一人にさせていたのは、自分じゃないか。

 緑もそうだ。走って自分を訪ねてくる。もし、自分が学校にいたら、少なくても二人の人物の逃げ場になることができるのではないだろうか。

「梅田は、なんで小麦と友達にならないの」

「同じクラスだと、あんた以上に噂になるだろ。お互い関わらないように、って感じなんだろうな」

「それならさぁ」

 一度下を向いたあと、満面の笑みを浮かべ、緑に言った。

「今度三人でこっそりお昼食べようよ」

 緑はそれに笑顔で頷いた。



 土日を挟んだ月曜日、千は登校した。緑が訪ねてきたその日のうちに、千は小麦に電話した。

 かなり勇気のいることだったが、かけてしまえば大したことはなかった。最初はお互い無言だったが、小麦からいつもののんきな口調で謝ってきたのだ。ただ一つ、普通の謝罪とは違ったこと。

『大好きと大嫌いは紙一重だからさぁ。大嫌いな分だけ、私は千が大好きなんだよー』

 小麦の言葉に思わず千は笑った。結局『大嫌い』なのも否定しないのか。だが、それも彼女の素直な気持ちのように伝わった。

 その日、約束通り三人でお昼を食べた。ぎこちない感じで始まったランチだったが、緑が真剣に混ぜご飯から細かく刻まれたにんじんを避けていたのを見て、千は大爆笑。小麦もつられ笑い、鼻から米粒を飛ばすと、更に千が腹を捩じらせた。緑が二人に「お前ら女じゃないな」と突っ込むと、ダブル鉄拳を食らわされ、かなり賑やかな時間を過ごした。



「今回は非常に残念な結果になってしまいました」

 深見が厳かに話し出した。活動休止となっているのは表向き。実際は通常運営だ。ただ、集まる場所が留学生教室から別の場所へとなっただけだ。

「残念とか言ってるくせに、何で集合場所が『校長室』なのさ!」

 千が隣りの職員室に聞こえない程度の声できつく非難する。

「空いている部屋を使って何が悪い? 校長先生は今日明日出張で不在です」

 白々しく丁寧な言葉で返す深見に、千は黙りこんだ。

「それにしても今回のバナナ売り、小麦ちゃんのこともあったが、三日で二房はひどい結果だ」

 深見が文句を言い出せない状況に追いやろうとすると、緑が噛みついた。

「待ってください! 近くに八百屋がある上に、痛んだり、いびつなバナナがあったんですよ? 売りにくいに決まってるじゃないですか!」

「痛んだバナナ? そんなのあったか、コウ」

 深見がわざとらしく訊ねると、コウは首を振った。

「お前たちの敗因は、『見慣れた普通のバナナ』ばかりの箱を選んだ。そこだ」

 腕を組んで校長の回転イスに座り、デスクに足を乗せるという不遜な態度に千はいらだちを隠せなかった。

「何が言いたいの? さっさと結論を言いなさいよ!」

 緑もそれに同調するように、深見を見た。やれやれ、といった表情を浮かべ、深見は席を立ち、腰に手を当てた。

「どうせ、赤いバナナは傷んでると思ったんだろ。大間違いだ。あれは『モラード』っていう種類のバナナなんだ。小さくていびつだったのは『モンキーバナナ』だな。名前くらい知ってるだろ」

「モンキーバナナ!」

 モラードは知らなくても、後者には聞き覚えがあり、千は手を打った。

「ちなみにモラードも、皮を剥けば黄白い普通のバナナだよ。若干甘みが強いかな。二人が選んだ箱に多く入ってたのは、カーベンディッシュって種類だね。これはフィリピンで栽培されている輸出用のもの。八百屋でよく見かけるかな」

 コウが嬉々として説明し出すのを、二人は感心しながら聞いた。

「じゃあ、俺たちはその、モラードやモンキーバナナが多く入っている箱を選べば、八百屋と商品の差別化をはかることができたのか」

 緑があごに手を当てて呟く。コウは「正解!」とにっこり笑った。

「人目はひけたと思うよ。それに、手ごろな値段だし、興味本位で買う人もいたかもね」

「大体な、商品のことを知らずにものを売ろうなんて、できっこないだろ? お前たちは一日目でそれに気づくべきだったんだ」

 深見の言葉に納得せざるを得ず、二人は肩を落とした。

「物事の本質は見た目じゃない……それに気づこうともしなかった二人の負け」

 普段とは変わらないはずのバンの声も、今日は一段と冷たく聞こえた。『人は見かけによらない』。よく言う言葉じゃないか。自分だって、人には外見より中身を見てもらいたいと常々思っていた。それなのに、自分はそれが本心からできてはいなかった。例え相手がバナナだとしても。千はバンの言いたかったことにやっと気づき、なおさら落ち込んだ。

「けど、それに気づいていたやつがいる。そいつは部活が活動再開したら、入部してもらうことにした」

「へ?」

 千と緑が間の抜けた声を出し、顔を見合わせるところを見届け、深見は口の端だけで笑った。

「『桐生小麦』だ」

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