帝国暦四七七年、晩冬 その4

「ロメオ殿は近衛騎士であったと伺っております。いくら王室に近いとはいえ、一介の騎士がそれほど高度な情報を手に入れられるかは疑問です」

「それはレディ・ミュシャからの質問と捉えても構わないかね?」

「構いませんわ」


 彼は海鮮のサンドイッチを一口かじり、ゆっくりと噛んだ後に飲み込んだ。そして注意深く自分のグラスに酒を満たす。

 ミュシャから視線を外さないまま、彼はその液体を喉奥に流し込む。塩も舐める。


「話しているところを見たのだよ──あなた方の中に放った〈蜂〉と我が方の〈養蜂家〉が」

「随分と洒落た名前をおつけになるのですね」

「名はないよりある方がいい。ただの名より洒落た名の方がいい──お子さんはいらっしゃるので?」


 酒は飲まない。代わりに牡蠣の油に浸したパンに生魚の切り身を少し乗せ、その上から塩もふって食む。

 本当は豆醤がほしいところだが、これはこれで非常にさっぱりしており、悪くない。


「居りません」

「ふむ。レディの番だが?」

「……近衛と一口に言っても色々ございます。具体的には何を?」

「〈王家の利剣〉……その副長を」


 間髪入れずの即答。

 ミケラの王家お抱えの特務部隊である〈王家の利剣〉の悪名は、ミュシャを含めた軍事情報部の中にも響いていた。

 特に戦争が始まって直後に実施された秘密作戦はどれもがこの〈王家の利剣〉に出鼻を挫かれていたとミュシャも記憶している。


 ミュシャは目に魔力を込めて、衣服の下を透視する。オーバーサイズめな服装の下には、質のいい柔らかな筋肉が詰まっていた。

 暗器の類は隠し持っていない。もっとも、「暗器」になりうるものはその辺に転がっている。ナイフやフォークなどだ。


「困るな。そう熱い視線を向けられるというのは」


 彼はミュシャの左手を一瞥し、彼女のグラスに酒を注いだ。ロメオ自身のグラスにも、同じように注ぐ。彼は自分の酒杯を軽く掲げた。

 誘われている──乗ってみよう。ミュシャは彼が掲げたグラスに、自分のものを軽くぶつけた。騒がしい店内だが、ガラスとガラスの触れる音はよく聞こえる。


 一息に飲み干す。酒精のからさの向こうに、どこか甘いものも隠れている気がする。

 ウイスキーは初恋の味だ──誰かが言った言葉を、ミュシャはふと思い出した。甘くて、苦くて、場合によっては酸くもある。

 時には煙の香りもして、最後には酔っ払ってしまう──この言葉を彼女に言ったのは、果たして誰だったか。長い人生の中で、記憶が摩耗してしまっている。


「魔法はどのようにお学びになったか?」


 酒をもう一杯飲む。塩を舐める。


「独学です」

「興味深い」

「ロメオ殿は、魔法をお使いに?」

「あなたほどの魔女ならば、見ればわかるものかと思っているが」


 ミュシャは頭の中で自分の意識を切り替えた。魔法は思考によって誘導される──詠唱や印は、その思考を癖づけるものでしかない。

 よく訓練された魔法使いは、そういった準備をせずにいきなり魔法を使うことができる。ミュシャは間違いなく「そちら側」だ。


 形を聞き、音を見る。不思議な感覚だがこう形容するほかない。

 肉の目が捉えていた「意味」そのものが組み替えられ、全く別の「意味」を映し出す。


 人によっては直ちに発狂しても仕方がないが、ミュシャは耐えられた──というよりも、慣れてしまった。


 そうして見たロメオ・カポンの肉体の中には、圧されたように渦を巻く魔力があった。彼はそれを一切外に漏らしていない。


「大したものですわね。さすが〈利剣〉と言ったところでしょうか」

「生まれてこの方、これ一筋ゆえ。レディですらよく見ないとわからぬとは、光栄なものだ」


 総合力ではミュシャの方が強い。だが、ロメオ・カポンはただ一つの武器を磨き続けた。如何に完璧に思える盾であろうと、極限まで尖らせた槍がそれを突き崩せぬとは限らない。


「レディの番だが……ゲームはお開きにしよう」

「随分と急でいらっしゃいますのね」

「残念だ。レディは、私が知る中でもっとも男らしい女であったというのに──解毒術とはな」


 あれほどに魔力の制御が上手い男ならば、相手の魔法を読むことも難しい話ではないだろう。ミュシャは己の迂闊を呪った。

 戦場ならばこれで死んでいてもおかしくはない。最後に戦に出たのはいつだ。何十年か前だったような気がする。


「……そうやって、私は生きてきたのですよ」

「わかっている。国は男らしさが作るものだ。一方で、女らしさが作るのは家だ」

「何がおっしゃりたいんです?」


 ロメオは目の前の皿を綺麗に片付けて、ナイフとフォークを並べて置いた。

 この男はヴァレンタイン卿とは違う。ロメオ・カポンは人を操ることに快感を覚える類の人間だ。

 緑色の視線の奥で何を考えているか──ミュシャはそれを探ろうとするも、やはり周りの雑音が多すぎて、この男の思考に直接触れることはできなかった。


「両方を持つレディであれば、ともすれば私にとっての理想郷を作れるかも知れぬ」

「……口説きの常套句かしら。おあいにく様、添い遂げる相手はもう決まっておりましてよ」

「儘ならぬものですな。大人になるということは」


 彼は立ち上がった。女にしては長身のミュシャより、ロメオの方がわずかに背が高い。彼の差し出された手を握る以外の選択肢は、ミュシャには残されていなかった。


「以降は私の上司とお繋ぎします。あとは彼とよろしくやってくださいませ」

「ああ。今後ともよろしく頼む」


 ロメオが〈ドン・ケロ・ダイナー〉から出る。店の中で座っていた客は彼を追うようにして一人、二人と席を立っていく。


 一応、形式上の尾行はされるだろうが、ロメオ・カポンを尾行できる人間はそう多くないだろう。ミュシャでさえ、成し遂げてみせる自信はない。


 喧騒はどこかへと消え、片付けをする店員とミュシャだけが〈ドン・ケロ・ダイナー〉の店内に残った。

 握手をした時の姿勢のままだった彼女は、まるで自分が動けることを今に思い出したかのように、店員からコートと帽子を受け取って、店を足早に去った。



 フェダストゥス・ヴァレンタインは、相変わらず「神殿」の最上階で立っていた。日はすっかり落ちてしまい、ニュートロイの街道にはぽつぽつと魔法灯の明かりが点きつつある。


「レディ・ミュシャ。彼はどうだった?」

「やり手です。非常に」


 アカデミーの貧乏学生か、下位の開拓者がその街灯を点けて回っているのだろう。百年前は日が落ちたらそれで一日が終わるのだった──代わりに、朝に窓を叩いて起こすバイトをやってたっけ。


 ミュシャがそうして懐かしさに浸っていると、伯爵は遠慮がちに「レディ・ミュシャ?」と呼びかけた。


「あっ、失礼……終始手玉に取られっぱなしでした。卿もお気をつけくだされ」

「承知しているさ。フ……お疲れのようだな」

「誰のせいだとお思いです?」


 ヴァレンタインは芝居がかって肩をすくめて見せた。アカデミー時代の彼は演劇をやっていたという。その仕草が今も染み付いているのかもしれない。


「誰のせい……か。懐かしいものよな、戦争が」

「私は平和な方がよろしいと思います」

「あの頃の方が輝いていたと、そうは思わんかね。我々が内々でやった建国記念パーティーを覚えているかね?」

「ええ。もちろん」


 あれは酷いパーティーだった。戦争が始まってから一年目の建国記念パーティー。リクランド帝国が行なった秘密作戦が悉く失敗していたものだから、鬱屈とした調子で始まったパーティーだったが、その重い空気もミケラ王のコスプレをしたジャン・ジャック・ケアンクロスが楽団にミケラ国歌を演奏させた瞬間に霧散した。

 局員みんなでわざとらしいほど厳粛に、真面目な顔をして、敵国の国家を歌った。


 思わず、顔の端から笑みが溢れてしまう。それはヴァレンタインも同じだった。あの場に同席した彼は、誰よりも真面目にミケラ国歌を歌っていた。


「昔の話は、我らが老いてからにとっておこう。その方が話題も増えるだろう……して、彼は何と?」

「我らの内にいる裏切り者の名を知っている、とのことです」

「……気取られたか?」

「いえ」


 先ほどまで浮かべていた笑みを霧散させて、伯爵は言った。


「君を手玉に取れるほど強かな男は、間諜としてはそれほどということか」

「そういうことでしょうね。……それほどというのであれば、私もそうです。卿はなぜ私をこの情報局に?」

「皇太子殿下と私が、レディのファンだからだよ」

「真面目にお答えなさってください。私が人の心を覗けることをご存知ないわけでもありますまい」


 ヴァレンタインは面映げに視線を逸らし、彼のデスクから酒瓶を取り出した。

 琥珀色の液体を湛えるその瓶に貼られたラベルには〈トサント25年〉の文字。ミュシャは呆れたように窓の外を向こうとするも、ヴァレンタインは彼女の視界の中にとどまり続けるように動き、さらには誘うように酒瓶を小刻みに揺らし続ける。


「仕方のないお方ですこと」


 こうなったヴァレンタインが面倒であることは、ミュシャもよくわかっていた。彼女は魔術で溶けぬ氷のグラスを二つ生み出す。

 そしてヴァレンタインの手から酒瓶を奪い取り、二人分の酒を注いだ。


「実に、光栄だ……先ほどの言葉に嘘偽りなどない。ただ、他の連中に先を越されるのが嫌だったから、抜け駆けをしたというわけだな」


 ヴァレンタインは酒を少し舐めた。情報局とは、そもそもが秘密の職場だ。故に局員は秘密を共有しあい、それゆえの絆のようなものが生まれることもある。

 ヴァレンタインが今言った言葉は、まさにそういった秘密の一つなのだろう。


「……呆れますわね。本当に」


 彼の顔が赤いのは、きっと酒のせいだと思いたい。

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