帝国暦四七七年、晩冬 その3
夜になると、気温が下がるのも相まって、遠くの音がよく聞こえるようになる。反面、レンガを瀝青で固めた地面に積もる連日薄ピンクの雪のせいで、奇妙なほど静かだ。
遠くから聞こえてくる正体の判然としない音は、まるで誰かを呼んでいるかのようでもあった。
もし自分が呼ばれているとすれば、それは誰だろうか。
生まれ故郷でうだつの上がらない騎士をやっている夫が寂しがっているのだろうか。
それとも開拓の果てにたどり着いた極東の国で起きた政変の際に、自分が暗殺してきた武将や商人が死者の国から手をこまねいているのだろうか。
はるか遠くで響く音の正体は、それよりももっとつまらないものに違いない。例えば雪のせいで馬車が轍を踏み違えたが故に馬が驚きの嘶きを上げたとか、インペリアル・アカデミーの上級研究員が魔法事故を起こした時の爆発とか、そんなところだろう。
ミュシャは帽子を目深に被り、決して目立たぬようにコートの襟を立てて、足早にメインストリートを歩く。
尾行はない。誰かにつけられているのであれば、周りの魔力の乱れでなんとなくわかる。静かな夜だ。
戦場という飢饉に心を囚われた元兵士が道端に腰掛けながら、油断ならない目でミュシャのことを見つめている。
静けさそのものが、彼女の身にのしかかってくるようであった。
その〈ドン・ケロ・ダイナー〉という店は、ニュートロイという見栄っ張りの都市にどこまでもふさわしく、またあまりにもニュートロイ的であったが故に、表通りにありながらも、ニュートロイ市民には敬遠されがちな店である。
注意をひく薄黄色の照明魔術で飾り立てられ、「新鮮な牡蠣」「当たったら全額返金」などといった文言が踊る中、ミュシャはコートに積もった雪を払い、わざと軽く作られている木扉を開けた。
珍しく繁盛している。この空間が人で満ちていることはあらかじめヴァレンタイン卿から知らされていたが、たとえサクラであろうと馴染みの店の景気がいいのは嬉しいことだ。
馴染みの店──この〈ドン・ケロ・ダイナー〉は情報局のメンバーが密かに談話を行う場でもある。コンクリート造りの建物で根を詰めるよりは、遥かにヘルシーだ。
談笑する家族連れや孤独のグルメを楽しんでいる人たちに覆い隠されるように、その男はひっそりと食事をしていた。
ミュシャはコートと帽子を給仕に預け、その男の対面に座る。色褪せた男だ、という第一印象になるだろうか。
平民風の灰色のオーバーサイズめな服を着ており、やや乱れた髪も生え散らかした髭も等しく灰色。唯一彼の目だけが怪しげな緑色の光を放っている。
「ごきげんよう。ミュシャ・ウェバーです」
「ごきげんよう……本物の英雄に会えるとは、捨てたものではないな──ロメオ・カポンだ」
「随分とお耳が早いようで……」
お手本のようなリクランド語だった。ヴァレンタイン卿やその他の貴族と同じ言葉、同じ発音をしている。
ミュシャ・ウェバーが〈征東の魔女〉であると知っている人間は多くない。ヴァレンタイン卿はその数少ない人間のうちの一人だ。
およそ百年前に実施された「開拓」のことを今もなお覚えているのは内陸に住んでいる偏屈な非定命か、その当時から寿命を克服して生きている魔法使いくらいだ。
寝物語で自分の名前が伝わっていてもおかしくはない。ロメオ・カポンはおそらく後者だろう。彼から魔道の気配は感じられない。
ウェイターにオバケガキのアヒージョと、リクランドではかなり珍しいサシミを頼む。ちょうど今は冬で牡蠣が旬なのだ。
魚も脂が乗っていてうまい。かつて極東で食べた生魚の酢漬けが脳裏によぎる。
「耳が早いからこそ、私はリクランドに参ったのだ。王家なきミケラは、もはやミケラとは言えんよ」
「聞かせてください」
牡蠣のスパイスオイル漬けを忙しなく口に運ぶのをやめて、ロメオ・カポンはナプキンで口を拭った。彼は食器を静かに置き、顔を上げてミュシャをじっと見つめた。
彼女の頼んだ料理が運ばれる。まだ手はつけないでおく。
「よもや英雄殿がかくもお綺麗な方だったとは」
「よしてください。望んでこうなったわけではありません」
ミュシャは左手を見せた。薬指にはリングが嵌っている──控えめに金剛石をあしらった、彼女と夫だけの記念品だ。
ロメオ・カポンはあからさまに残念そうな表情を顔に浮かべた。つくづく感情の読めない男だ。周りにこうも雑音が多い環境では、ミュシャの読心も難しい。
「むしろ光栄だよ。御伽噺が本当だとわかった」
「では、我々にあなたの価値を示してください」
「私が貴女を信じるのが先だと、そうは思わんかね? 英雄の貴女は知っているが、人として会うのは初めてなものでな」
彼が持っているカードの重さは未知数。しかし、この状況は明らかにこちらが有利だ。ミュシャは頭の中で直ちに算盤を弾いた。
彼女は店の中を軽く見渡し、大きく二回手を叩く。
その音は静寂をもたらす。店内に全ての人──店員も客も──ミュシャとロメオの方を見た。不気味な静寂が一瞬だけ顔を覗かせる。
パンをちぎって泡立つ植物油にくぐらせ、そして口に放り込む。
ミュシャのそれを合図に、店内の時間が再び動き始めた。先ほどの静寂など嘘だったかのように、各々が食事や仕事などに取り掛かる。
「彼らは皆貧する者たちです。一種の慈善事業と捉えていただいて結構」
「なるほど。結構だ。我が祖国だったところを我が物顔で歩く革命政府とやらとは、大違いということか。勘違いしないでほしいのだが、我が王室は負けておらん」
リクランドはミケラ王国と講和したわけではない。
戦争中に起こった革命で王室が消滅し、戦争を続ける意志と継戦能力を失ったミケラ革命政府と講和したのだ。
そのせいで、様々な不都合が生まれていることも知っている。目の前の男はそのような不都合の落とし子のようなものか。
ミュシャは柔らかくなった牡蠣をパンの上で潰しながら、やや身を乗り出した。男から話を聞き出すには、こうすることが一番だと、彼女は長い人生でわかっていた。
「王国いまだ健在也と唱えるあなたが、なぜ亡命を?」
「リクランドの空気がうまいからだよ。私は革命で身を追われる側ゆえな……」
「真面目にお答えいただけますか?」
ロメオは眉間に皺を寄せながらゆっくりと頭を振った。彼はウエイターを呼び、無色透明のボトルを持って来させる。
ラベルには〈トサント白酒〉と書いてあった。蒸留した麦酒や果実酒を幾度となく石と炭で濾過した、ほぼ純粋な酒精。その傍には小さなグラスが二つと、塩の山。
「ただ質問をするだけでは面白くない。ゲームをしないか?」
「それができる立場か、ご自分でお考えになってみてはいかがでしょう」
「魔女殿が断るならば帰らせていただく。そして王家のことを思い、信条のままに果てよう……貴殿が著された本も少し読んだが、期待外れだったか?」
この男は煽っている。ミュシャが好奇心に溢れる人物であることを知った上で、このようなことを言っているのだ。それは彼の挑戦的な笑みからも明らかだった。
ペースを握られている──やはり野山を駆け巡る方が得意だ。なぜ自分にこのような仕事をさせているのか、伯爵の気が知れない。
彼女は密かに解毒の術式を練り、自らの体に張り巡らせた。そしてトサント白酒を片方のグラスに注ぎ、それを一気に飲み干す。
「向こう見ずだ。だが、実に開拓者的でもある」
「ルールは? ゲームにはルールがなければなりませんわ」
「交互に質問をする。質問には必ず答える。真実を答えるときは酒を飲まなくてもよいが、嘘の時は必ず飲まねばならない」
つまり、真実を答えた上で酒を飲むことも許されているということだ。彼自身も一杯、ミュシャにならって酒を飲んでみせる。ロメオの灰色がかった顔に、少し紅がさしたような気がした。
「ロメオ殿こそ、潔くいらっしゃる」
「貴女ほどの魔女なら、私の言葉の真偽も判ろうというもの。条件を少しでも揃えさせていただいたというわけだ。では、私から質問をしよう──貴女のご家業は?」
ミュシャは自分のグラスに酒を注ぎながら答える。
「このお酒を作ることでございます」
飲み干す。透明な液体が、その偽りの熱さで喉と胃を焼く。酒は毒だ。たとえ少量でも、体には悪くて仕方がない。しかし、それは酒を楽しむことの否定とはならない。解毒術式が即座に酒精を分解した。
ロメオの緑色の瞳を覗き込むようにして、彼の思考を探る。今のミュシャの発言の真偽を、彼自身は掴みかねているようだ。
悪くない。腹芸は得意ではないが、ミュシャの側には年の功がある。口の中に残る酒精のえぐみを拭うために、彼女はひとつまみの塩を舐めた。
「では、今度こそ貴方の価値というものを教えてくださるかしら」
ロメオは口以外を全く動かさずに──酒を注がずに毅然とした態度を保ったまま、こう言った。
「あなた方のうちに潜む裏切り者の名を、私は知っている」
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