第7話 格差の正体

 バックヤードとフロントを隔てるドアの向こうが、酷く遠く感じる。

チェックインの時間帯、従業員やお客様の活気ある声が漏れ聞こえるたび、私は自分の無力さを突きつけられていた。

配属から二週間。

未だにフロントに立つことは許されず、勉強という名の足踏みを続けている。

​ 同期の鈴木加奈は、やはり即戦力だった。

同じ苗字の先輩がいるため、彼女は「加奈」という愛称で呼ばれ、すでに現場の華となっていた。

私は、同期であっても格が違うことを思い知らされ、彼女を「加奈さん」と呼ぶことに決めた。

 加奈さんは空いた時間にアドバイスをくれたり、英会話の練習相手になってくれたりする。

ありがたい。

けれど、情けなかった。

同期に教わり、敬称まで使っている自分が。


​ 給料日前、ほとんどの同期は寮で過ごしていた。

遊びに行けないのは私だけじゃない。

それが唯一の救いだった。

セクションごとの歓迎会も、本社研修中の沙映子は不在。

私は加奈さんから遅れること二週間、ようやく山本課長による館内案内を受けることになった。

​ ノートを手に、課長の後を追う。

正面玄関の自動ドアの先には、私がまだ立てずにいるフロント。

格好いい……それが第一印象だった。

 恋ちゃんが緊張しながらもサイフォンでコーヒーを淹れているラウンジ、煌びやかなレストラン。

そして最後は、併設されたブライダル館『wedding-shonan』へ。

 全面ガラス張りの向こうには、湘南の海が絶景として広がっていた。

結婚の予定も彼氏もいない私ですら、その眩しさに胸が高鳴る。

​ 二週間後、沙映子はここに来る。

一ヶ月の本社講習を終えた彼女は、持ち前の要領の良さで、きっと完璧に仕事をこなすだろう。

今の私では太刀打ちできない。鼻で笑われる。せめて同等になりたい。

追い抜くのはそれからだ。


……そう意気込んでいた私に、一週間後の朝礼で衝撃の事実が告げられた。


​「急なことですが、鈴木加奈さんは退職されました」


​ 加奈さんは摂食障害を患っていた。

食堂でおかわりを繰り返していた彼女は、食べた直後にトイレで吐き出していたのだという。


 ——沙映子なら、気づいただろうか。


 こんな時にまで沙映子を思い出してしまう自分に嫌気が差す。

絶望する私の前に山本課長がノートを一冊差し出した。


​「鈴木加奈さんからの置き土産です。池井さんに渡してほしいと言付かりました」


​ ページをめくると、そこにはフロント業務の注意点や緊急対応が、細かくびっしりと書き込まれていた。

さらに、イラスト付きの湘南ガイド、そして私が最も苦手とする英会話の接客用語が、使いやすいフレーズでまとめられている。

 最後のページには、震えるような文字でこう記されていた。


『池井さんの英検三級、本当に凄いと思ってた。私の分まで頑張ってほしいです』


​ 涙が止まらなかった。

加奈さんは、私とは違う意味で、対等になろうとしてくれていたのだ。

自分の体さえままならない中で、私のことを案じ、このノートを遺してくれた。

加奈さんの不在を、一瞬でも「チャンス」と喜んでしまった自分が恥ずかしくてたまらなかった。


​「池井さん、交代の時間です」

「……はい!」


​ 私は自ら、バックヤードとフロントを隔てるドアを押し開けた。

不安と緊張が渦巻く中、一歩踏み出す。


​「おはようございます。夜勤の皆様、お疲れ様でした」


​ 自分でも驚くほど、はっきりとした声が出た。


「おはよう。池井さん、急なデビューだけど落ち着いてやれば大丈夫だよ」

「一人じゃないからね。遠慮せずに周りを頼りなさい」


​ 先輩方の優しい言葉が身に染みた。

大丈夫、やっていける。

ついさっきまで、ここは私を拒む「アウェイ」だと思い込んでいた。

仲間内でも、自分だけが蚊帳の外だと卑屈になっていた。

けれど、壁を作っていたのは私自身だったのだ。

​もう、卑屈になるのはやめよう。

加奈さんが信じてくれた自分を、私自身も信じてみよう。


 ——加奈さん、本当に、ありがとう。


 私はノートを胸に抱き、ついにホテルの「顔」としてフロントの舞台に立った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

どうして沙映子ばっかり 北屋敷友紀子 @jigenchan

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ