第2話 菜の花と卵のやわらか和え

夜のあの市区に、春の気配が滲んでいた。


 午後11時を回った頃、パーソナリティの朝倉律は、ラジオブースの中でマイクに向かっていた。


 「さて、続いてのお便りは……ラジオネーム《春待ち草》さんから。


 『律さん、こんばんは。私はこの春、大学を卒業し、新しい街へ引っ越しました。でも、なかなか馴染めなくて……部屋にいても気持ちばかりが焦ってしまいます。そんな時、菜の花のおひたしを作りました。少しほろ苦くて、でも優しい味がして、少しだけ心が落ち着いた気がします。律さんは、春の味といえば何を思い浮かべますか?』


 ……《春待ち草》さん、ありがとう。」


 律は、短く息をつき、ガラス越しにディレクターとアイコンタクトを交わす。スタジオの外には、ミキサー卓のランプが静かに瞬いている。


 「春の味、か……」


 独り言のように呟き、少しだけ考える。


 「そうだなぁ、菜の花……いいですね。僕も、この季節になるとよく食べたくなります。菜の花って、ほろ苦くて、でもちゃんと甘さもあって、なんというか……春の匂いがしますよね。春って、ただ暖かいだけじゃなくて、ちょっとだけ切なかったり、寂しさが混じったりする……菜の花の苦味って、そんな気持ちに少し似てる気がします。」


 ヘッドフォン越しに、自分の声が穏やかに響いた。


 「今夜の放送が終わったら、僕も菜の花を買って帰ろうかな。では、次の曲です。春の夜にぴったりの一曲、どうぞ。」


 音楽が流れ始め、律はマイクから少し身を引いた。ヘッドフォンを外し、テーブルに置く。


 春の味か──


 放送を終え、深夜のコンビニへ立ち寄ると、ちょうど青々とした菜の花が売られていた。小さな束を手に取ると、茎の部分にまだほんのりと土の香りが残っている。春の匂いだ。


 買い物を済ませて帰路につくと、夜風が頬を撫でた。日中は暖かさが増してきたとはいえ、夜はまだ肌寒い。けれど、冬の冷たさとは違う、どこか柔らかな空気が混じっていた。


 部屋へ戻ると、すぐにキッチンに立つ。フライパンを出し、お湯を沸かす。小さな泡がふつふつと鍋底に広がり、やがて湯気が立ち上った。


 菜の花をさっと湯にくぐらせる。鮮やかな緑色が際立ち、鼻を近づけると、青々とした草の香りが湯気とともに立ち昇る。湯を切って冷水にさらすと、苦味が少し抜けていく。


 その間に、卵をボウルに割り入れ、出汁と薄口醤油、みりんを少し。菜の花と絡めるようにして混ぜ合わせる。


 ほんのり甘く、ほろ苦く、優しい味。


 皿に盛り付け、箸を手に取る。


 ひと口食べると、菜の花のほろ苦さと、卵のまろやかな甘みがじんわりと広がった。後味にふんわりと残る春の香りが、なんとも心地よい。


 ふと、スマホを手に取り、《春待ち草》のメッセージを見返す。


 ──「僕も、菜の花を食べました。ほろ苦くて、でも春の味がしました。新しい街でも、きっと大丈夫。あなたの春が、温かいものでありますように。」


 送信ボタンを押し、もうひと口、菜の花を口に運ぶ。


 春の夜、柔らかな風がカーテンを揺らしていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る