【PV 47 回】夜食の窓辺 ーあの市区、深夜のひと皿ー

Algo Lighter アルゴライター

第1話 湯気と静寂の雑炊

夜のあの市区は、冷え切っていた。


 タクシードライバーの五十嵐透は、ハンドルから手を離し、大きく息をつく。車のエンジンを切ると、静寂が車内を包んだ。フロントガラスの向こうに広がるのは、深夜二時の街。人気のない交差点の信号が、律儀に赤と青を繰り返している。遠くで除雪車のエンジン音が響いた。


 ドアを開けて外に出ると、吐く息が白く染まった。手袋越しでも指先が冷たい。夜気が頬を刺すようだ。駐車場から自宅マンションまで歩く間、アスファルトの上で霜がわずかに軋んだ。


 エレベーターは動いておらず、仕方なく階段を上がる。ポケットの中で鍵を探し、錆びた鍵穴に差し込んだ。


 カチャリ。


 ドアを開けると、冷えた空気が迎えた。無人の部屋はしんと静まり返っている。玄関の灯りをつけ、仕事用のコートを脱ぐ。フローリングの床は氷のように冷たく、靴下越しでも足先がじんじんと痺れた。


 「……まずは、飯だな」


 透は冷蔵庫を開ける。中にあるのは、冷や飯と卵ひとつ、味噌の小さなパック。それに、戸棚には乾燥ワカメと出汁パック。十分だった。夜食には、これくらいがちょうどいい。


 鍋に水を張り、出汁パックを入れて火にかける。部屋にはまだ暖房を入れていないが、コンロの炎がわずかに温もりをくれる気がした。


 やがて、湯が静かに揺れ、かすかに昆布と鰹の香りが立ち始める。湿気を帯びた出汁の湯気がふわりと鼻先をくすぐった。透は味噌を溶き入れる。ふわりと広がる、懐かしい香り。子供の頃、母親が作ってくれた味噌汁の匂いに似ていた。


 冷や飯を鍋に落とすと、ジュッという音がわずかに鳴った。ほぐれていく米粒を見つめながら、透はふとスマホを手に取る。


 ──「お父さん、こっちは雪が降ったよ。」


 娘からのメッセージだった。


 透はしばらく画面を見つめたまま、言葉を探すように指を宙に浮かせる。半年ぶりの連絡だった。


 それ以上、何か送るべきだろうか。しかし、言葉が見つからず、結局、スマホを伏せた。


 鍋の中では、雑炊が少しずつとろみを帯びている。透は卵を割り、静かに流し込んだ。白身と黄身が混ざり合い、ふんわりと広がっていく。最後に乾燥ワカメを散らし、火を止める。


 ほわり。


 湯気が立ち上る。味噌と出汁の温かな香りが、冷え切った部屋にじんわりと広がっていった。


 透は器に雑炊をよそい、テーブルに運ぶ。スプーンを手に取り、そっと口に運んだ。


 ──熱い。


 けれど、その熱さが、冷えた体の奥にまで染み渡る。優しい出汁の旨味、味噌のまろやかさ、卵のふんわりとした食感。ワカメがほどよく柔らかくなり、磯の香りがふわりと鼻に抜ける。じんわりと汗がにじんだ。


 雑炊の湯気越しに、透はスマホを手に取る。


 しばらく迷った末に、短い言葉を打ち込んだ。


 ──「こっちは、雑炊を作ったよ。お前の好きな味噌味だ。」


 送信ボタンを押すと、またスプーンを口へ運んだ。


 味噌の温もりが、体だけでなく、心の奥にまで染み込んでいく気がした。


 窓の外では、街灯に照らされながら、静かに雪が降り積もっていた。

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