第32話

私は柾木さんのことを、ほんの少ししか知らないかもしれない。"見えるもの"しか知らないかもしれない。

でも、初めてお店で柾木さんを見てから、ずっと私が見てきた、お客さんにコーヒーを丁寧に淹れている姿や常連のおばあちゃんや子どもにまで一人一人と優しそうな表情で話す姿、真剣にケーキを作ってる姿。

どの姿を思い返しても胸が高鳴る。

いつだって柾木さんと言葉を交わすだけで胸が苦しくなった。




私はそんな自分の気持ちを軽いものだなんて思わない。

自分でも不思議なくらいあっという間に深く恋に落ちたんだ。

だから大事にしたい。

そう思いながら柾木さんを見ると、また笑顔を見せてくれた。

それだけで幸せだ。




『そろそろ、行きましょうか』



「はい」




外もすっかり夕景を映し出していた。

柾木さんの家はお店の近くだと聞いたことがあった。ここからだと時間もかかるだろうし、名残惜しかったけど、これ以上は贅沢だ。




「またお店行きますね」



『……あのっ、!』




私に何か言おうとした矢先に柾木さんの携帯が着信を知らせたようだった。




「あの、電話が」




柾木さんはそれに気づいて、言いかけた言葉を押し込めたようにポケットから携帯を取り出して、画面を見ると柾木さんは珍しく眉間にシワを寄せて、ため息をついた。




『すみません、またお店でお待ちしてます』




柾木さんはそう言って会釈をしたので、私も「はい、ではまた」と言って会釈をしてからその場を離れた。

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