薄まる夜と来訪者

詠暁

薄まる夜と来訪者

 カンゴーン、とインターホンにしては流行らない音が鳴って、私はびくっと肩を震わせた。だって現在深夜2時。そりゃあ誰だってびっくりするだろう。とりあえず再生中の配信のアーカイブを停止して、タオルを畳む手を止めてみる。返事をするべきか、否か。

 勿論宅配なんて頼んでないから可能性があるとすれば来客の方だろうけど、友達は居ないからそれもありえない。

 ならば所謂、嫌な方の来客か。

 奨学金の返済にはそれなりに頭を悩ましてはいるけれど、一応変なところからは借りていないつもりだ。そういう人たちだって深夜に大声を出したら大家が来ることくらいわかるだろうし、悪徳セールスだって初っ端から悪全開では来ないだろう。

 どちらにせよ深夜2時なんて表の人間にも裏の人間にも都合が悪い時間のはずだ。だとしたら一体どこのどいつが新社会人女性一人暮らしを深夜に訪問するのだろうか。

 幽霊や妖怪の類は信じていないけれど、まあ一瞬くらいは頭をよぎる。一瞬くらいは。

 そういえば丁度丑三つ刻ってこれくらいの時間じゃあなかったかしら。そう思い出したら怖くなってきて、来客には悪いけれどこのまま寝ているということにしておく。扉をこじ開けられたらベランダから飛び出せるように、放っていたスリッパとスマホを後ろ手で手繰り寄せて念じる。

 どうかこのままどうか去ってくれ。

 そんな願い虚しく、こともあろうかスマホがヴーヴッと振動する。同期だったら今度会ったときに一発殴ってやろう、そう決意して通知をタップした。

『深夜にごめんね。

今、美怜の家の前にいるんだけど始発までいれてもらえないかな。急なお願いでごめんね。』

 それよりも差出人に驚く。高校時代の親友、とは言っても、それ以外の時代に親友などいないから青春時代の親友と行ったほうが正しいかもしれない。とにかく、私にとっては大事な人だ。疎遠になっていたとはいえ入れてやらない理由はない。私はすぐさま立ち上がって玄関の扉を開けた。

「やっほー、久しぶり。ごめんね、こんな時間に」

それだけ一息に言って、かつての親友は薄く笑った。

「んーん、私も明日休みだから結構起きてるの」

そう答えて、どうぞ、と招き入れる。

 そのままにした洗濯物は、見ないふりをした。

 旧友を椅子に座るよう促してから、クッキーと特売になっていたアップルティーを取り出して貰い物のティーセットに注ぐ。来客の相手なんてしたことはないけれど、少しでも慣れているように見えるよう、精一杯余裕そうな顔をしておく。さらに彼女の好きなケーキなんかを出せたら格好いいけれど、今の私にとってお茶とお菓子が出せただけで奇跡のようなものだ。ほんの少しだけ上司に感謝してそっと彼女の前に置くと、記憶より大分疲れた目を歪めてありがとう、と笑った。紅茶を飲んで、それから小さくため息をついて、美味しいと感想を言って、彼女は喋り始めた。仕事の話。高校時代の思い出話。それから特売と嫌な上司の話。そんな他愛もないことばかり次々と。

 彼女にとって重大な何かがあったのは私にもわかる。これまでこんなふうに頼られたことはない。文化祭の実行委員も淡々とこなす彼女のことだ。何かあったのだ。ここまで来て何事もなかったように喋り続けるくらいの相当な何かが。

 気づかれないように思案してみるが、結局分からずじまいで私は相槌を打つ。

 うん、そっか、すごいね、なんて温度のない言葉たちがテーブルの上を滑っていって、消費されることもなくどこかへ消えていく。

 少し既視感を覚えた。

 小学校中学年の頃まで、私にも一緒に移動教室に行くくらいのクラスメイトがいた。否定されないけど本気で共感されることもない、生暖かいだけのコミュニティ。私はそれに嫌気がさして、馴染もうとすることをやめてしまった。そうしたらするっと二人はいなくなって、なんとなく、飼っていた金魚の水換えに似ているなぁ、なんて思って眺めていたら、私だけがいない水槽に適応していった。それは覚悟したよりも悲しいとは思えなくて、群れからはぐれた私よりもあの子たちはずっと逞しいらしいということがわかった。

 さっきまで聞いていた配信だってそうだ。大人しく視聴者でいることさえできれば、手間も徒労もなくひとりぼっちの夜の隙間を埋められた。そうやって孤独をやり過ごす人たちは、逞しい。

 だからこそ不安になってくる。もしかして私たちは昔からこうだったのだろうか、と。

 その証拠と言ってしまえば断定的で不格好だけれど、現に彼女は私がこうして相槌をやめても話し続けている。

 私の知る彼女はすっぴんで着の身着のまま外出なんてしないのに、なんて眺めていたら目が合って、安い紅茶みたいな笑みを向けられる。彼女はもう話をやめていた。私が上の空だったことなんてとっくに気付かれていたことに気付いて、思わず顔を歪めそうになる。でもそれも止めた。不安にさせてしまう。彼女の本心は判らないけれど、今こんな顔をさせたのは紛れもなく私だった。

 口から小さく息を吸う。

「圭」

 自分でも随分と久しぶりの響きに涙が出そうになりながら、驚く顔に手を伸ばす。私より少し高い位置にある頭をそうっと撫でる。最初はちょっと目を見開いていたけれど、次第にずるずるとこっちに傾いて、癖っ毛気味の茶色がかったショートヘアは、まるで元からそうであったかのように私の手に収まった。

 多分今、圭を認めてあげられるのも圭を認めていいのも私だけだと思った。圭だって友達である前に一人の人間だったんだ。それを忘れていたことをひたすらに謝りたくなりながら優しく手を動かし続けた。

「私ね、」

 圭は消え入りそうな声で言って、途中で止めた。ゆっくりでいいよ、と上から横目で顔を覗き込むと、圭はどこか諦めているかのように目を閉じていた。

 耳につけているイヤーカフが月光を反射している。思わずドキッとしてしまって誤魔化すように頭を撫でた。数十秒して、圭が再び言葉を紡ぐ。今度は、はっきりと。

「私ね、恋人ができたの」

一瞬私の手が止まる。こいびとができたの。

 へぇ、とも、そうなんだ、とも言えなかった。

「そっか」

それだけ言って、それが冷たくないことに安堵する。

「でも、私そういうのわからなくてさ」

「うん」

「最初は断ったんだけど」

「うん」

「何度も何度も言ってくるし」

「うん」

「わかるようになっていけばいいよって言われて付き合ってみたけどやっぱり駄目で」

「うん」

 真面目な話をしているはずなのに、うん、うん、うんって私、ふざけているみたいだ。人の話を聞くのはこんなに大変なことだったか。

「そしたら浮気されててさ、当たり前なんだけど」

うん、ともう一回言った。やっぱりそれしか言えなかった。

「悪いことしちゃった」

「そっか」

 ふと右目から涙が伝うのを感じた。共感しすぎたのかもしれない、そう思いながら空いている方の手で拭って、後ろ髪に絡めて水気をとる。

 圭の表情はわたしにはわからなかった。

「どれくらいの間だったの」

「2ヶ月とちょっと。でも私が手も上手く繋げなかったから」

「好きだった?」

「わかんない」

 その言い方だと、でも浮気は嫌だったのだろう。恋じゃなくてもそこそこの信頼関係は築いていたんだろうというのは私の勝手な憶測だけれど、その人との別れのショックで衝動的にここに逃げてきたのだとしたら圭の"彼"は私と同じか、それ以上に信頼されていたのだろうか。たった二ヶ月だからそんなはずはない、とも言い切れない。

 私は、今の彼女をあまりにも知らない。

 聞き流した世間話が初めて意味を持つ。なんでも一人でできるような顔をした圭を追いかけて、隣に立って、それから――。

 キーンコーンカーンコーン。

 私の思考はかき消された。間延びする、学校のチャイムの音に。数年前まで鬱陶しかった、十二年の合図の音。その中の三年間だけ共有した私たちの時間。

 懐かしい、なんて思った。

「ごめんこれ、目覚まし」

 圭が慌ててスマホを取り出して、静けさが戻って来る。それが逆に面白くて、私たちは途端に笑い出した。久しぶりにチャイムなんか聞いたからか、そう言えば修学旅行もこうだったな、なんて思い出した。確かあの時私たちは丁度今と同じ時間の目覚ましで起きてしまって、寝るのは惜しいからと集合時間までババ抜きをしていた。何回戦目かで圭が間違ってババを捨ててしまって二人で綺麗に捨てきったのを幽霊だなんだと騒いだっけ。

「始発で帰るよ。急にごめんね。ありがとう」

 圭が笑いすぎてちょっとつっかえながら言った。

「送ってくよ」

 気づけばそう返事していた。今日休みだしね。と付け足したら、圭がにっこり微笑んだ。徹夜明けで寝不足なのが見て取れるけど、私のよく知る圭だった。

 圭に薄手のコートを手渡して、私も上からカーデガンを羽織る。急げばまだ間に合うかもしれない。

 部屋の外に朝日はまだ出てないけれど、夜の気配は十分薄くなっていた。階段を降りて、トカトントン、と二人分の忙しない音が響く。アパートから飛び出したら丁度曲がり角からバスが見えてきたところだった。圭が足の遅い私の手を引っ張って、二人で走る。

「ねえ美怜!」

圭が少し早口で続けた。

「今度飲もうよ」

私も少し早口で言った。

「ごめん、お酒飲めないんだ」

でもさ、と言って私はちょっと間をあけた。圭の目をまっすぐに見る。

「また、話聞かせてよ」

 両目がゆっくりと見開かれる。聞きたいことがたくさんあるの、と続けたのは停車したバスのせいで聞こえなくなってしまったけれど、口元の綻びだけで十分だった。

 無事乗り込んだ旧友を大きく手を振って送り出す。遅れているのを巻き返そうとしているのかバスはすごい勢いで走り出した。それからもう一度曲がり角を曲がって、すぐに見えなくなってしまった。

 急に静かになったような気がして、誤魔化すように踵を返す。

 空のむこうが眩しくて、目を細める。

 同じ制服を着ていても言葉の綾すら交わせなかった私たちは多分どれだけ同じものを見たって自分の気持ちをまっすぐに伝えられないまますれ違っていくのだと思う。

 それでも、手を伸ばせる距離にいられたらいい。

 鍵をかけ忘れた狭い我が家の玄関にはいつだって仕事用のパンプスだけが残っているだろう。がらんとして、ひとりぼっち。それでも私の家だ。午後は小さな多肉植物を買いに行って、玄関に華を添えてみよう。それまで少し眠っていよう。

 縺れそうなスキップで足りない足音を埋めてみる。少し冷たい朝の空気を吸い込んで、思いきり階段をかけあがる。息が切れる前に、錆びたドアノブに手を伸ばした。

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