第3話 海千山千の微笑

 伊月は、呑まれそうになる焦りと胸に生じた嫉妬を押さえつけた。むろん、表面上は落ち着き払い、噯にも出さない。

 部屋の真ん中に、布団に収まった老人がいた。横にはなっておらず、膝上まで布団を掛けており、背中を丸めて鎮座している。伊月とまともに視線がぶつかったが、それは気のせいで、正治の視線は伊月を通り越して中空を漂っている。

 伊月は、それなりに張っていた神経が解れるのを自覚した。外から受けた印象と同様に、目の前にいる老人からは怪異は感じられなかった。霊が取り憑いているとか、呪い祟りの類を受けているのなら、必ず視認できるはずだ。それが欠片すら視えないということは、つまりはそういうことだ。

 たまに、いや、ほとんどといってよいか。自分の常識から外れた事象が起こると、安易に悪霊や怨念の仕業にしようとする者が後を絶たない。それも、社会的地位が高い者や、桁違いの富を得た者ほど、その傾向が高い。

 最初の印象通りだ。これは霊など絡んでいない、高齢によるただの衰えだ。しかし、だからといってこのまま帰るつもりは微塵もなかった。今回の報酬は十二万円と設定してある。目の前の蜂蜜に手を伸ばさない熊はいない。気を取り直して、伊月は正治に話し掛けた。


「はじめまして。わたしは伊月稀李弥という者です」

「ふあ?」

「ご家族様からのご依頼を受け、正治様に取り憑いている悪しきものを祓いに参上致しました」

「…………」

「これより、正治様を苦しめている悪霊の正体を探りたいと思います」

「しょうたい? きみ、誰に招待されたの……」

「……失礼致します」


 伊月は帆布のショルダーバッグから精霊石を取り出した。ちなみにバッグの色も黒だ。演出は徹底していなければ効果を発揮しない。


「痛いなぁっ!」


 正治老人が突然大声を出したので、伊月はびくりと跳ねてしまった。正治を囲って座っている友松一族も驚いた様子だ。ただ、正治が怒鳴るのは日常化しているのか、狼狽える素振りは見せなかった。

 正治は伊月を射殺さんばかりの眼光で睨み、口の中でぶつぶつとなにやら呟いている。痩せ細った皺だらけの顔で、目だけは大きく見開いているものだから、異様な迫力がある。

 伊月は咳払いを一つして、態勢を整えた。自分の膝元に精霊石を置き、両手を合わせて正治を凝視した。やはり、霊的なものは塵一つほどもない。


「……正治様は信心深い方ですか?」

「はい?」


 家族に対して投げ掛けた質問だったが、いきなりのことで聞き逃したのか、泰治は間抜けな返事をした。


「正治様は信心深い方だったのかと伺ったのです」

「ああ、はい。信仰はあります。父だけではありません。我々友松の一族は、この地から恩恵を受け、氏神になり代わって民に収益を授けて参りました。ここから少し歩いたところに神社がありますが、奉納を欠かしたことはありません」


 伊月はその神社を知っていた。依頼が来た日から、この家の周辺の情報を調べていたからだ。実際に周辺を歩き、どこになにがあるかを覚えたり、マップサイトを覗いたりもした。とくに神社があった場合は、さらにそこのウェブサイトを訪れ、由来や祀ってある対象を頭に叩き込んだ。得た知識が無駄になればそれもよし、今回のようなケースになった場合は、それなりに役に立つ。人生、転ばぬ先の杖を用意するのが肝要なのだ。


「正治様もその神社に?」

「そうですね。足繁く通っています。まだ足腰は丈夫なので、ほとんど毎日じゃないでしょうか」

「正治様はいつからこのような状態に?」

「兆候は以前から……。ただ、二週間ほど前から言動のおかしさが顕著になっています。わけの分からない言葉を並べたかと思うと、急にしゃんとなったり……」

「いけませんね」

「は?」

「もう十一月。太陽の力が弱まります。天照大神の加護が受けられず、弱体化する神もいるのです。そんな時期に毎日のように神社に通えば、社を我が物とせんと現れる悪神につけ込まれることもあるのです。正治様に取り憑いてるのは、その悪神です。まずは信仰深い正治様に取り憑き、参拝される正治の肉体を利用して社に入り込もうとしているのでしょう」

「そんな……」

「この家の表札は御影石ですが、歳月が経ちすぎて細かな傷が無数に生じていました。その点も、悪神を請じ入れやすくしてしまっています。それに、玄関が東南を向いています。これは風水的にはとてもよく、金運を招く方角なのですが、何事にも表と裏があります」

「はあ……」

「陽と陰。光と影。天国と地獄。善きものと悪しきものは、常に表裏一体なのです。通常なら幸運を招く方角でも、時期や状況によっては災いを呼び寄せてしまうこともあるのです」

「なんと……」


 友松一族は伊月の話を懸命に聞いているが、なにごとかを考え込むように目が泳いでいる。太陽の力だの悪神だの御影石だのと、次々と無知識な単語が出てきて、理解が追いつかないのだ。しかしそれは当然だ。伊月自身、なにを喋っているのかわからないのだから。

 伊月は精霊石をしまい、今度は破魔札を取り出した。額の上に恭しく掲げ、泰治に渡した。


「由緒正しい社に務める神主が念を込めた破魔札です。わたしの念も染ませておきました。現在は入り込んだ悪神も落ち着いてますが、再びご家長の振る舞いに異変が起きたら、これを玄関に貼ってください」


 破魔札は本物だが、正治老人の奇異な言動は霊とはまったく関係ないので、効果などあるはずがない。しかし、伊月は自分の行為をインチキとは思わなかった。

 要するに、友松一族は安心を欲しているのだ。安心を与えることこそ、自分に課せられた役割であり、報酬の成果だ。本物の除霊だろうが、口からでまかせのはったりだろうが、安心を与えたという成果に対して報酬を受け取るのは、けっして恥ずべきことではないと考えている。

 泰治をはじめ、正治以外が曖昧な笑顔を漂わせている。こういう連中は、第三者の大丈夫という言葉があれば、なんとなく納得するものだ。


「まずは玄関。それでも症状が出るようなら、時計回りに少しずつずらして貼っていきなさい。壁よりも窓に貼った方が効果的です」


 これで処置は終わりという意味で、立ち上がった。泰治は祈祷の儀式のようなものが行われると思っていたらしく、なにか物足らなそうな表情を隠そうともせず、遅れて立ち上がった。

 応接間に戻り、精算を済ませた。支払いは現金で統一している。例外はない。銀行振込やカードでの支払いは、どうも信用できない。結局は口座に入金したり投資に充てるのだが、一度は自分の手を通さないと落ち着かない性分なのだ。実体に触れるからこそ、ありがたみも恐ろしさも理解できる。人も霊も金も同じだ。

 金額に間違いがないことを確認すると、早々に立ち去ることにした。インチキではないと納得はしているものの、やはり居心地はよいものではない。応接間を出て、思わず足が止まった。正治が立っていたのだ。


「お父さんっ」


 泰治が、慌てて正治を居間に戻そうとした。しかし、正治は床に固定されているみたいに動かない。

伊月と正治の視線が絡み合った。今度は間違いなく伊月の目を凝視している。しかも口元には微かな笑みさえ浮かべていた。思わずぞくりとしてしまう、含みを孕んだ笑みだ。

 ふと、伊月の頭に一つの考えが浮かんだ。

 正治は芝居を打っているのではないだろうか。自分の健康より金銭のことを気にしている息子たちに嫌気が差して、家族愛を試しているとか、各々の対応次第で遺言状の内容を決めようとか、そういった思惑があるのではないのか。芝居ならば、診断の結果が異常なしなのも頷ける。海千山千の老人には、自分などチンケな小者にしか映っていないのか。

 伊月の顔がカッと熱くなった。


「どうかされましたか?」

「……いえ。なんでも。正治様の回復を心よりお祈りしています」


 考えすぎだ。考えすぎ……。

 伊月は浮かんだ憶測を必死に否定しながら、そそくさと友松家を後にした。

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