第1話 奇妙な遭逢

 頬を撫で通りすぎる生ぬるい風に、伊月稀李弥いつききりやは舌打ちをした。

 もう十月も半ばだというのに、夏の残滓がこびりついて大気中を舞い踊っている。この調子だと、今年もちょっと朝晩が肌寒くなってきたと感じた途端に本格的な冬が到来するに違いない。東京が秋と呼べる季節を楽しめなくなってから何年になるだろうか。

 今年も残り三ヶ月しかないんだから、さっさと涼しくなれよな……。

 伊月は誰にぶつけてよいかわからない苛立ちをもて余しながら、鉛色に薄汚れた東京湾を眺めていた。そして、これではここに来た意味がない。楽しまなければただの時間の浪費ではないか。苛つきを抑えなければと、自らを軽く叱責した。

 江戸川区の最南端に位置する葛西臨海公園には、足繁く通っていた。殊更に海が好きというわけではないが、一秒として静止することのない海面を眺めていると、なんとなしに心が安らいだ。肉体的か精神的か、あるいは両方に疲労を感じた時などに、足が自然とこの場所を目指す。ただし、心に安らぎを与えるのが目的だから、家族連れやカップルで賑わう休日は避けている。人が多すぎるとしめやかさが台無しだ。

 公園内に設置されているベンチに腰掛け、小説を読みながらベーカリーで買ったパンを齧り、時おり東京湾を眺めるのが、伊月の楽しみだった。選ぶパンはその日の気分次第だが、あんパンは必ず購入している。

 休息の相棒となる小説は、大抵は推理小説、ミステリー小説、たまにホラー小説。ようするに娯楽を目的とした創作小説だ。本は娯楽を目的としなければならない。自己啓発本など読んで「人生観が変わった」などとほざく輩を、伊月は密かに馬鹿にしていた。

 小説はほとんど古書店で購入していた。文庫本が千円近くともなれば、度が過ぎた吝嗇家であると笑う者もいまい。贅沢が成功の証などという考えは、金の力で自分の存在感をひけらかす不憫な者だけが持っているのだ。そう思っている伊月だが、今日手にしている文庫は古本ではなかった。

 今日の一冊は、どんでん返しが秀逸だと評判の、ホラーな設定を活かした推理小説だった。著名作家による渾身のストーリーで、ハードカバーで発売されてから瞬く間に人気を博し、いくつもの賞を総なめにした傑作だ。伊月は文庫本になるまで待つ派なので、極力情報を遮断しながら三年待ち続け、先日ようやく文庫化されたのを発売日に手に入れた。古書店に出回る前に購入するのは、彼にとっては珍しいことだ。新刊を定価で買ったのは実に四年振りだった。

 数ページを捲っては首を上げて、羽田空港から飛び発つ飛行機の腹を目で追い、乗客はどこに降り立ち、そこからどこに向かうのか想像を巡らす。さらに数ページ進めては、ぐるりと後ろを向き、巨大な観覧車を楽しんでいる家族や恋人たちの楽しげな笑顔を思い描く。

 無意味ともいえる時間が極上の贅沢と思えるのは、それだけ心が荒んでいる証拠だ。その事実を周囲に悟られないよう気をつけると、胸の奥からじんわりと侘しさが滲んできた。

 スマートフォンで時刻を確認すると、ベンチを陣取ってから二時間が経過していた。ストーリーは評判通りに面白く、先が気になる展開だった。そのわりに進んだページはさほどではなかったのは、十月らしからぬ暖かさに集中力を乱されたからか。

 …やっぱり疲れてんのかな。

 切りのよいところで栞を挟み、表紙に折り目が付かないように丁寧にデイパックにしまった。空になったコーヒー飲料のペットボトルとパンの包み紙をまとめた。この公園は所々に大きなゴミ箱が設置されているので便利だ。


「よっこらせ」


 おっさんくさい掛け声を漏らしながら立ち上がろうとした瞬間、背中に凍った日本刀を当てられたような怖気に身を固くした。遅れて、全身が粟立った。

 ……ちくしょう。いやがる。

 完全に油断していた。当然だ。リラックスするために、この公園を訪れたのだから。……そういえば、いつの間にか周囲から人がいなくなっている。自転車を漕いでいる若者。散歩している老夫妻。楽しげにおしゃべりに興じているグループ。誰も彼もが伊月から一定の距離を保っており、けっして近づこうとしない。存在は認知できなくとも、嫌な雰囲気だけは肌で感じ取っているのだ。

 これは、けっこうヤバい奴かも……。

 伊月は『視える者』だった。物心ついたときから他の人には視えない念を視ることができた。

 辞書で調べてみると、念とは思考や感情をはじめとする、心中に抱いているもの、あるいは心のはたらき、などを広く指す言葉。もっと単純に、思う。考える。思い。と説明されているが、伊月が視るものは怨念や邪念に代表される負の感情だった。

 怨念は、この世に凄まじい恨みを抱いたまま亡くなった者の残留思念だ。あまりにも深すぎて、この世にしがみついている。それ故、伊月のように認識できる者に纏わりつく。存在を察知してくれる者に縋りついてくる。纏わりつくだけならまだましで、認識者に取り憑いて、問答無用で災厄を降り注ごうとする悪霊もいる。存在そのものが不幸を引き寄せるものだから、怨念を残してこの世を去った者とはなんの因果がなくとも、取り憑かれた者は不幸になってしまうのだ。

 死してなおこの世に執着するほどの怨みは、少しでも気を抜こうものなら精神に亀裂が生じるほどのエネルギーを内包している。抗う力がなければ、最悪の場合は呪い殺されてしまうため、放置しておくことはできない。

 やれるか?

 肌身放さず持ち歩いている破魔札を取り出そうと、デイパックに手を伸ばしたそのとき、金縛りもかくやというほどの緊迫感がなくなり、呼吸もスムーズになった。遠ざかっていた波の音が戻ってきた。止まっていた風が再び流れた。強ばった筋肉が弛緩し、『ヤバい奴』の存在が消滅したことが感覚で理解できた。

 ため込んでいた息を吐き出しながら、伊月は振り返った。

 一人の青年が立っており、目が合った。年齢は伊月と同じくらいに見えた。伊月は今年で二十三歳だから、多く見積もっても二十代半ばといったところか。カーゴシャツにテーパードデニム。靴はバスケットタイプのスニーカーだ。平凡な服装だったが、丈の長いチェスターコートだけが違和感を抱かせた。動きやすさを重視しているみたいなのに、丈の長いコートが矛盾している。

 顔立ちは端正で、男性に用いるのが相応しいか分からないが、麗しいという表現が真っ先に浮かんだ。艶のある黒髪は、丁寧に整えているわけではないが、それが却ってこの青年の美貌を引き立てていた。儚げで透明感があると同時に、男とは思えない色気がある。異性のみならず同性さえ惑わすほどの艶めかしさだ。男をディルド代わりとしか考えていない頭のネジが緩んだ女やゲイなら、彼の腕を引っ張ってホテルに直行するに違いなかった。

 伊月は青年の妖艶な雰囲気に圧倒されたが、容姿以上に意識に突き刺さったのは、彼の存在感に対する不自然さだった。視える者特有の感覚から捉えることができる念に近い。あるいは蜃気楼のように不確かといえばよいのか、心許ない危うさがあるのだ。例えるなら、実体を持った幽霊だ。


「あ…」


 伊月と視線が絡まると、青年はいかにもしまったという表情、みすぼらしい老婆が万引きをしている現場を目撃してしまった少年のような困り顔を見せた。

 伊月にはピンと来るものがあった。

 ……こいつが霊を祓ったのか? こいつ、俺と同じ『視える者』か?


「…おい」


 伊月が話し掛けると、青年はいきなり走り出した。明らかに伊月から逃走するための勢いだった。


「あ、待てっ」


 初対面の人に、おいってのはまずかったか?

 伊月も彼の後を追って駆け出した。

 でも、いきなり逃げることはないだろ。

 なぜ追い掛けているのか自分でもわからないが、足を止めようとは思わなかった。伊月はけっして鈍足ではないが、青年の足は伊月を凌駕していた。風のような速さであっという間に離され、息が切れる頃にはもう追いつくのは不可能なほど引き離されていた。


「くそ……」


 追い掛けるのを諦め、しばらくその場に立ち尽くして肩で呼吸をした。汗が額から滴り落ち、下着まで湿って気持ち悪かった。

 やっと呼吸が整い、思考に神経を巡らせる余裕が戻ってきた。

 あいつ、いったい何者だ?

 先ほど感じた念は、明らかに強い怨みを纏った怨念だった。それをいとも容易く消滅させてしまうなど、とんでもない力の持ち主だ。あまりに強力で、彼自身が怪異に映ったほどだ。

 意味もなく視線を反対に向けると、巨大な観覧車がゆっくりと回転しているのが見えた。まだ汗が引かないくらい体から熱が発せられているのに、ついさっき味わった緊迫感が甦り、伊月は悪寒戦慄のように大きく体を震わせた。

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