第3話 ラズベリー
「これ、おいしい!」
陽翔がパンの端を口に入れた瞬間、目を丸くした。
「それ、佳澄さんがアレンジしてくれたんだよ」
祐真が言うと、陽翔は一瞬だけ目を伏せてから、佳澄の方を見た。
「おいしいです…」
小さな声で、けれどちゃんと届くように言った。
佳澄は、やわらかく微笑んで「どういたしまして。」とだけ返した。
今朝、新作としてお店に登場した「ラズベリーとくるみのライ麦パン」。
祐真はいつもどおりに生地を仕込み、佳澄がトッピングと焼き加減を調整した。
「ほんのちょっと、柔らかいパンも食べてみたくなって。」
佳澄はそう言った。
その“ほんのちょっと”が、どこか切なかった。
彼女の提案には、時折ふと立ち止まるような寂しさが混じる。
時折、なにかを思い出すように、パンを見つめているその横顔。
「これ、定番メニューにしようかな。」
祐真が言うと、佳澄は大きくうなずいた。
「いい名前が浮かんだら、つけてください。私は”君の愛”って、勝手に呼んでます。」
「君のあい?」
「スピッツの歌、知りませんか。ラズベリー。」
佳澄は、そう言って、照れたように笑った。
陽翔はパンをもてあそんでから、大事そうに「君の愛」をかじった。
午後になると客足が一気に減る。
店内を掃除していた佳澄が、カウンターの下にしゃがんだとき、何かを落とした。
小さな紙片―写真のようだった。
祐真が気づいて拾い上げると、そこには制服を着た女の子が写っていた。
やわらかく笑って、空を見上げている。
背景には風車。
丘の上のような景色。
「あっ、それ。」
佳澄が気づいて声を上げた。
その瞬間、彼女の声が少しだけ震えたのを、祐真は聞き逃さなかった。
「妹さん?」
「…いえ。違います」
佳澄は、ほんの一秒だけ言葉をためて、写真をそっと受け取った。
祐真は何も聞かなかった。
けれど、**違うと言ったときの顔**が、忘れられなかった。
閉店後の厨房に、残っていたラズベリーの香りがふわりと残っていた。
祐真はひとりオーブンの前に立ち、パンの焼き色を確かめながら考えていた。
背中に小さな声が届いた。
「パパ、今日のパン、おいしかったね。また作る?」
「もうすぐ焼きあがるよ。食べるか?」
息子が目を輝かせて、高速で何度も頷いた。
「ラズベリー好きな6歳は、相当変わり者だよ。」
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