桜の花ほど、人の心を欺くものはない。春になれば誰もが浮き足立ち、その下で盃を交わし、舞い散る花びらに風流を見出す。だが、それは本当に美しいのか？ 桜の花が満開になったとき、私はどうしようもない不安に駆られるのだ。

考えてみれば、桜の花は異常だ。咲く前までは固い蕾で慎ましくしていたものが、春の陽気に煽られると、いきなり咲き誇り、散ることを前提に最も華やかに自己を燃やす。その潔さを美徳とするのは、はたして正しいのだろうか。満開の桜は、まるで死を前提にした生を象徴しているように思えてならない。

昼間、桜の下を歩けば、無邪気に笑う人々の姿がある。彼らはこの狂気を知らない。桜は、その短い命を燃やしながらも、決して声を上げない。沈黙したまま、ただ散るのみ。だからこそ、その美しさに違和感を覚えるのだ。

夜になれば、桜はさらに不穏さを増す。闇の中でぼんやりと光るその姿は、昼間の華やかさとは違い、まるで何かを訴えかける幽霊のようだ。時折、風が吹き、花びらが舞う。誰もいない公園のベンチに座り、それを眺めていると、ふと、これは何かの警告ではないかという気がしてくる。

桜が咲き、散る。それは古来より繰り返されてきた当然の摂理だ。しかし、それを美しいと讃える我々の感性は、どこか麻痺しているのではないか。本来、花が咲くというのは命の躍動であり、実を結ぶためのものであるはずだ。だが、桜は違う。満開の桜の木には、どこか無理をしているような痛ましさがある。まるで、終わりを知りながら、最も華やかに踊る道化のようではないか。

私は桜の下に立ち、散りゆく花びらを見上げる。ひとひら、またひとひらと、静かに落ちるそれらは、まるで無数の命の断片のように思える。そして私は、その場から立ち去るべきかどうかを迷うのだ。

桜の美しさを素直に愛せる人間になりたかった。

だが、今年もまた、私は桜の不穏な気配に囚われてしまうのだ。

桜の花を愛でる者は多いが、私はその美しさの奥に潜む不穏さを拭えない。あれは、咲くものではなく、何かが露出した姿ではないかとすら思う。

桜には、昔から人の情念が宿るという。戦場の血を吸った桜、あるいは無念の死を遂げた者が還る樹。美しさに酔いしれるほどに、それは冷たく、異様に生々しい。

夜桜の下で酒を酌み交わす人々の賑わいも、よく聞けば狂気の笑い声に聞こえるのだ。

私も、桜の美しさを素直に愛せる人間になりたかった。

狂気の笑い声を発する、普通の人間に、そんな人間に、私はなりたい。